さらば遠き火、旅立ちの風
子供の頭ほどの石を乗せただけの粗末な墓の前に、少年が座っている。墓の数は三つ。どの石にも何も刻まれていない。わずかばかりの名もない花の束が死者を慰めている。
乾いた風が吹いて、少年の赤毛を揺らした。その風は焦臭い煤と、鉄の味がする血の臭いに満ちていた。村のあちこちではいまだに残り火が未練がましくくすぶっている。少年の頭には乾いた血がこびりついていた。
少年ランザは、何故こうなったかを懸命に考えていた。だが、鼓動に合わせてうずく頭部の傷が彼の思考を妨げていた。時折揺らぐ意識の中で、記憶の糸をたどっていった。
丸一日ほど前、日の出と共に彼らは馬蹄を轟かせてやってきた。彼らは北方の蛮族で、よく馬に乗り、しばしば中央平原に現われて村や町を襲い、略奪の限りを尽くして去っていくと恐れられていた。
馬に乗った盗賊たちは、村の中央を走る広い道を飛ぶように抜けながら、家々に火矢を放った。慌てて飛び出てくる村人を、彼らは無造作に打ち倒し、死ななかった者を次々に捕らえていった。騒ぎに気づいたランザは、家を出たところを一撃され、気を失った。
しばらくして、冷たい土の感触と、背中に感じる熱で目を覚ました。聞こえるのは炎の爆ぜる音と、激しく唸る風の声。数瞬の自失を経て、少年は立ち上がって我が家を振り返った。
少年の家は燃えていた。既に半分ほど焼け落ち、原形を留めていなかった。父と母、そして姉の名を呼ぶが返事はなく、膝をついて泣いた。
次に気がついたときは、なだらかな斜面に寝かされていて、爽やかな緑の香りと、人と家の焼ける、すえた匂いが交互にやってきた。傍らには中年の女性が座っていた。ランザの顔をのぞき込むと疲れた様子でにっこりと笑った。
「もう大丈夫よ、ランザ君。痛いところはない?」
ランザは、ない、と答えた。彼が家族の消息を問うと、中年の女は悲しそうな顔で黙った。ややあって、ゆっくりとした口調で告げた。
「あのね、ランザ君、あなたの家族は、もう、戻らないわ」
赤毛の少年はその意味が分からなかった。女性は構わずに続ける。
「ランザ君、私たちと一緒においでなさい。私たちは隣の村に行くの。親戚がいるから、住むところがあるのよ」
ランザは答えず、黙って座り、焼け残った家々を見つめていた。
「ここにいても何も変わらないし、それにとても寒いでしょう」
少年はそれでもしばらく渋っていたが、結局は寒さと空腹に負けて重い腰を上げた。振り返ったとき、強い風が吹いて燃え残っていた家が崩れた。
ランザは唐突に全てを悟り、墓を作りたい、と言った。
少年は立ち上がり、肩越しに振り返った。視線の先で中年の夫婦が待っている。その瞳に苛烈な光を宿し、粗末な墓標に背を向けた。
ランザに声をかけた女性と、その夫はとても優しい人だったが、隣の村の住人は優しくなかった。彼女の親類は二人を厄介者としか見ていなかったし、ランザにいたっては邪魔者でしかなかった。村人たちも財産のない生き残りを蔑んでいた。子供は大人の空気を敏感に感じ取り、ランザをいじめの対象に決めた。
道を歩いていて足をかけられる、というのはかわいげがある方で、集団で寄って集って小突き回すと言うことは良くあった。もっとも、ランザも負けてばかりではなく、小石や枝を振るって撃退したこともあった。しかし、その度に人数と暴力が増していった。
その日も、ランザは数人の少年に囲まれていた。腹を殴られ、足を蹴られ、地べたに転がされた。反撃もむなしく、背中から捕まれたランザに為す術はなく、歯を食いしばり、両目に苛烈な光を込めて睨みつけていた。
「けったいなことだなぁ、おい」
野太い声がかけられた。少年達が一斉に振り向くと、痩せた男が口を歪ませて立っていた。
「ここが戦場だとは思わなかったな。一対多数っていうのは、ガキのケンカですることじゃあねえんじゃねえかな」
聞き取りづらい発音はどうやら噛みタバコのせいらしい。無精髭を撫でながら無造作に近づいてくる。真っ直ぐに大将格の少年の前に立つ。腰に当てた手の下には鞘に収まった剣が揺れている。
大将の少年は立ちはだかるように胸を反らした。
「おっさんには関係ないだろう」
「まあ、そう言わずに、すこしくらいいいだろう?」
剣士が大将の少年の肩に手を置くと、彼は短い悲鳴を上げて飛び下がった。
「立てよ、坊主」
ランザは震える膝に活を入れて立ち上がった。薄く笑いを浮かべた男の顔を、昂然と見つめ返す。そして、わずかに頭を下げると、足早にその場を去っていった。囲んでいた少年達も、誰からともなくその場を去った。
剣士アンジェイ・マズールは無精髭を生やした顎を撫でながら、値踏みするように少年を見ていたが、やがて意を得たように頷いた。
「ああ、隊長、やっと見つけましたよ」
振り返ると、硬い銀髪を逆立てた彼の副官がたっていた。
「遊びに来た訳ではないのですから、仕事をして下さい」
「ああ、分かってる。それよりウィース、あのガキだが、ちょっと調べてこい」
「あの赤毛の少年ですか。構いませんが、理由をお聞かせ願えますか」
「あいつ、あの状況で反撃を狙ってやがった。ちょっと非凡なものを感じないかい」
「いえ、全く感じません」
「それに、あいつの目をみたか」
「ええ、見ました。それが何か」
「あの目、ちょっと知ってるヤツにそっくりなんだわ。気になんだよね」
銀髪の副官は鼻だけでため息をついた。
「かしこまりました。明日の夕刻までには報告に上がります」
「ああ、よろしくな」
「それで、その間、隊長は何を?」
「酒場のねーちゃんの尻を追っかけてる」
「わかりました。明日の夕刻、首尾をお伺いします」
副官の規則通りの敬礼に、ぞんざいに答礼すると、アンジェイは酒場に足を向けた。
夕日が空を赤く染め上げる頃、ウィースは村の広場で隊長を見つけた。どこから持ってきたのか、手頃な丸太に座り、鳩にパンくずを投げている。行き交う村人が不審な目で見ても気にとめない。むしろ、自分の世界に没頭しているように見えた。
「お待たせしました。ご報告いたします」
アンジェイは片手を上げて先を促す。ウィースは傍らに立ち、過不足無く、見聞きした赤毛の少年の境遇を話した。
「北方の蛮族、か?」
「おそらくそうでしょう。荒らされ方と、馬蹄の形からして、他に考えられそうな集団はありません」
独語に明確な答えを返されたアンジェイは驚いて銀髪の副官を見上げた。
「行ってきたのか?」
「はい。馬で一刻もかかりませんでした」
アンジェイは黙って下を向くと、ポケットから噛みタバコを取り出した。口に含み、石灰の袋を探すが見つからない。ウィースがそっと差し出した袋を受け取り、タバコと石灰を一緒に噛み始める。
日が沈み、空が濃紺に染まり、星がきらめく。冷えた風が通りを吹き抜けていった。アンジェイは手をはたいてパンくずを落とすと、おっくうそうに腰を上げた。
「あのガキを隊に入れる」
アンジェイは空を見上げて決然と言い放った。だが、その言葉にウィースは沈黙で答えた。
「ウィース!」
「彼は戦力になりません」
上官の叱咤にも全く動じず、ウィースははっきりと言った。睨みつけられても平然と睨み返す。視線が交錯し盛大に火花が散る。先に引いたのはアンジェイだった。顔は天に向け、背は副官に向け、絞り出すように言った。
「頼む」
「かしこまりました。ですが、彼は戦力にならないと、はっきり申し上げておきます。才能はあるかもしれません。優れた剣士になれる素質も、あるかもしれません。ですが、彼は傭兵にはなれないでしょう。どうしようもないお荷物を抱え込むつもりでしたら、そうおっしゃって下さい」
アンジェイは噛みタバコを吐き捨てた。背を向けられたため表情は見えないが、つま先が地面を蹴り、内心を物語っていた。
「わかってる。お前の言いたいことは。ただな、たとえそうだとしても、抱えなきゃいけないってものはあるんだ」
歩き出したアンジェイを、ウィースは呼び止めた。
「隊長、首尾を聞いておりませんが」
「ああ、頬を張られて逃げられたよ」
「それは残念でしたね。ですが、それは正直どうでも良いです。仕事の成果をお聞かせください」
「……明日やる」
ウィースは完璧な礼をして、肩を落とすアンジェイを見送った。
少年ランザは村のはずれにある丘の上に座り、ぼんやりしていた。傍らにあるのは素振りに手頃な大きさと重さの太い枝だ。皮をはぎ、柄のあたりに布を巻いて握りやすくしてある。以前村に来た道化師達が演劇でやっていたのを見よう見まねで、一日百回、木剣を振っている。
今日の分を振り終わり、疲労のために腰を下ろしたら根が張ってしまった。胸の奥から、積もった焦りが少年を駆り立てる。このままではいけない、という思いだけが大きくなるが、現状を変えるその方法がみつからない。
ため息を吐くごとに鬱屈した想いも吐き出せればいいのに、と思っていると、ふいに名前を呼ばれた。慌てて振り返ると、硬い銀髪を逆立てた男が柔和そうな表情を浮かべていた。
「隣、よろしいですか」
男は少年の返事を待たずに座った。
「私はウィース。アストリアの傭兵です」
ウィースはランザの驚きが一段落するのを待って、続けた。傭兵にならないか、と。
「着るもの、食べるもの、そして住むところを提供します。そして、一定の賃金と、働きによって賞金を支払う用意があります。それから、戦う術を教えます」
ランザは顔を上げてウィースを凝視した。かすかな笑みを浮かべた表情からは、内心をはかることはできなかった。
願ってもない話だった。生きる術と、戦う術が同時に手に入る。差し出すものは自分のみ。だからこそ、不思議に思い、疑問を感じた。
「君の質問は至極もっともです。我々としても、今のあなたは戦力になり得ない。けれど、頭数にはなります。槍を持って立っているだけで結構です。戦果を上げるのは、強くなってからでかまいません」
ランザは自分の手を見つめた。隣に座るウィースに比べて小さな手を。その小さな手を握りしめ、赤毛の少年は決然と顔を上げた。
ランザに与えられた支度金は、出来損ないのような槍と、薄っぺらな鎧を買ったら、雀の涙ほどしか残らなかった。そのわずかばかりを短い期間ながらも養ってくれた人へ残し、村を後にした。
人気のない街道を進む。先頭は二騎、アンジェイとウィースが乗る軍馬で、普通の馬より二回りは大きい。それに続くのは三台の馬車。それぞれに数人が、荷物のように乗っている。
馬車の端に座ったランザはおびえていた。自分より年少の者がいないことと、ごろつきか、それに類する者か、あるいは物乞いのような者しかいないことは少年の決意にひびを入れるのに十分だった。皮鎧から放たれる異臭と、槍を握った手から感じられる鉄の匂いがそれに拍車をかけていた。時折、アンジェイやウィースに視線を向けるが、彼らがランザに目を向けることはなかった。
ランザは、粗野で下品な声から逃げるようにうなだれ、槍の柄を握りしめていた。
アンジェイ・マズールの率いる傭兵隊は大規模なものだった。宿営地は都市から五マイルほど離れた場所に築かれ、ちょっとした町くらいはありそうだった。
ランザ少年は馬車から降ろされるとアンジェイに呼ばれ、ほかの者とは別の場所へ連れて行かれた。雑然とした空気がいつの間にか引き締まっていて、服装や装備も整然としている。
「ブルーノ! ブルーノはいるか?」
ランザは呆けたようにアンジェイを見上げた。あまりの大声に耳がおかしくなりそうだった。だが、驚いているのはランザだけのようで、周りの傭兵たちは平然と作業を続けていた。その中の一人がアンジェイに声をかけ、ブルーノという人物の居場所を教えた。
ブルーノは名前の通り熊のような大男で、二の腕はランザの足よりはるかに太い。
「よう、ブルーノ、こいつをかわいがってやってくれないか」
ランザはその言い方に、何か含むところを感じたが、だまってブルーノを見上げた。ブルーノはもじゃもじゃとした髭をなでながら首をかしげた。
「かまいませんが、どの程度にすれば良いんですかね?」
「そうだな。とりあえず、死なない程度にしてくれ」
ブルーノは力強くうなずくと、ランザについてくるように促した。宿営地の外れに来ると、ブルーノは木剣を取った。下段に構え、ゆっくりと上段に構え、素早く振り下ろす。
きれいで、無駄が無い剣筋は、村に来た道化とは全く別物だと、ランザは理解した。
「やってみろ」
剣を渡されたランザは、彼の厳しさを思い知った。
ブルーノは、だめだ、か、よし、のどちらかに、もう一度、という語尾をつける。ランザの腕が上がらなくなっても、手の皮がむけて血が流れても、倒れるまで繰り返し素振りをさせた。
初日はいつ意識が途切れたのかわからなかった。二日目は体中が重く、また痛かった。三日目は途中で吐いた。四日目は手の皮が破れて、剣が滑った。そんな調子で迎えた十日目は、はじめて剣で打たれ、肩が腫れた。
十五日目に、アンジェイ・マズールがやってきて、ブルーノに進みを聞いていた。彼の返答はまだですね、と素っ気なかった。アンジェイがやってきたのははじめてだったが、彼の副官ウィースは二、三日おきにやってきて、ランザに世話を焼いた。
三十日目、ブルーノはまだ早いと言ったが、アンジェイはランザを戦場に連れ出した。
アンジェイは隊の一部、百名程度を連れて、だだっ広い平原に陣を張った。一晩休んで、翌朝の日の出前に敵陣を襲撃する算段だ。相手は同数かそれ以上だ、とウィースは言った。
「まあ、勝てますよ」
勝てるのか、と言うランザの問いに、ウィースは律儀に答えた。ランザにはその作戦が有効なのか、どれだけ不利で、どれだけ成功率があるのかはわからなかった。だが、傍らに座るウィースや、遠くで指揮を執るアンジェイは全くおびえた様子がないことには安堵した。
ランザは自分の手が震えていることに気がついた。復讐の第一歩が始まるとはいえ、人を殺す恐怖は、容易にぬぐい去れるものではなかった。顔を上げると、ウィースの気遣わしげな顔にぶつかる。恥ずかしさで顔を背けると、穏やかな声が降ってきた。
「あなたは、どうして私の提案を受け入れたのでしょう?」
強くなるため、と言う答えは、銀髪の傭兵を満足させなかった。彼はそれだけではないはずだ、と言い、他の理由を訊いた。逃げたかったのではないか、と。
少年は困惑した。確かに強くなりたかったし、復讐のためには金と生きる術が必要だった。しかし、それ以上に、あの村を出たかったからだと言われると、そのような気もしてくる。けれど、それを認めるのは辛かった。
少年は動揺をごまかすため、以前から気になっていたことを、声が震えないようにするのに気をつけながら、口に出した。
「ああ、食べるためですよ」
ウィースは軽く笑った。
「生きるためには金が必要です。残念ながら才無き身で、ほかの方法で金を稼ぐことができなかったものですから」
男は銀髪に手をやって、様々なものが混じった複雑な微笑を浮かべた。
「故郷に妻子がいるのです。貧しい村で、特産物もありませんでしたからね。アストリアは、命にお金を払ってくれます。それなりに、ですが」
ウィースは事実を只述べるように淡々と語る。
「守るものが無い人は強くなれません。私も、守るものがあったから強くなれた、と思います。あなたも、守る人が見つかるといいですね」
そこまで言うと、ふいに表情をゆるめ、明らかな笑みを浮かべた。
「手の震えは治まりましたか?」
ランザが手を見ると、震えは止まっていた。死ぬことへの恐怖と、逃避したことへの後ろめたさも、心の奥底に沈殿していった。
ウィースはランザの様子を見て、力強くうなずいた。
丘の上に立ち、戦場を見ていたアンジェイの側に、ウィースがやってきた。彼はウィースの礼におざなりに答礼すると、煙草を噛む合間に話を振った。
「ランザと何か話していたようだが」
「ええ、昔話を少し。戦力にならなくても、足手まといになってもらっては困りますからね」
アンジェイは周囲に人がいないことを確かめた。
「……助かる」
「その言葉は、次の戦場で勝ちを収めてからにしていただきましょう」
アンジェイは噛み煙草を吐き捨てた。
「勝てると思うか」
「勿論です」
「その根拠は」
「あなたが、百名程度の規模で、かつ同数以上の兵力を保持している場合に、敗北したことはありません」
「耳が痛いな」
「それは一大事ですね。医者を呼びましょうか」
傭兵隊長はその進言を無視し、新しい噛み煙草を口に入れた。
「同じ轍は踏まんよ」
「賢明ですね」
二人の間を強い風が吹き抜けていった。空に浮かぶ雲の流れが速い。
「明朝、日の出前に攻撃をかける。用意しておけ」
「かしこまりました」
ウィースの規則通りの礼に、アンジェイは適当に返礼し、副官が去っていくのをぼんやりと眺めていた。
「嵐になるな」
呟いたアンジェイの視線の先では、重苦しい黒雲が広がりつつあった。
手に持ったカップから、注がれた酒の熱さが伝わってくる。琥珀色の液体は濡れた体には熱すぎた。体の震えに合わせて揺れる液面をぼんやりと見つめながら、赤毛の少年は今日の戦いを思い返していた。
正直なところ、何がどうなったかよくわからない。はじめは槍を持って並んでいた。丘を下る敵が見えたら槍を構え、隊列を乱さないように踏ん張れ、と言われた。しばらく待っても敵は見えず、隣の中年兵士と何かたわいもないことを話していたような気がする。空一面を覆う黒い雲のためか、少しばかり寒かった。
敵が見えたのはたぶん、昼を少し過ぎたあたりだ。戦いの前に配られた堅いパンをかじろうかと思っていたところに、聞いたこともないような音がして、見上げると丘の向こうからたくさんの馬、騎兵が駆けてきた。
そこから先はよく覚えていない。アンジェイに肩をたたかれて、我に返ったときには槍はどこかでなくしたかして、手には赤く塗れた大きなナイフがあった。
ランザは手に持った杯を一気に飲み干し、震えは寒さのせいだと言い聞かせた。
「よう、ランザ」
アンジェイはランザの肩を抱き、空になったカップに酒を注いだ。自分のカップにも注ぎ、ランザの杯を激しく打ちつける。
「まずは生きていることに乾杯だ。勇敢な少年に!」
『勇敢な少年に!』
アンジェイが大声で言うと、周りの幾人かが唱和した。少年は酒のせいではなく赤面した。
「まあ、まずは生きて帰ったことを祝おう」
アンジェイは再びランザのカップを満たし、先ほどより弱く打ち合わせた。しばし、無言で飲み交わしていたが、突然、思い出したように言った。
「で、どうだ。人を殺した感想は」
直接的な問いによってランザの体に震えが走った。忘れようとしていたその瞬間が思い起こされる。呼吸が荒くなり、心臓が激しく揺れる。何も考えられず、頭が真っ黒に塗りつぶされようとしたとき、大きな手が頭をわしづかみにした。
顔を上げると、アンジェイの顔が視界に入った。炎が揺らめき、皮肉な表情を浮かび上がらせる。
「まあ、最初は誰でもそうさ。俺のようでなければな。血のにおいを洗うには、酒と女に限る。おまえはどっちがいい?」
アンジェイは、酒がいいと答えたランザを立ち上がらせ、肩を抱いてのしかかるようにして歩かせた。部隊はどこかしこもお祭り騒ぎだ。男たちの笑い声に混じって、女の嬌声が聞こえてくる。ランザは戦闘に臨んだときとは別種の緊張を感じた。
アンジェイの足は大きくて華やかなテントの前で止まった。入り口には派手な化粧をした女性が肌を露出した派手な衣装を着て男を誘っている。
「こういうとこは、まあ、はじめてだろうな」
ランザはうなずくこともできなかった。アンジェイに腕を引かれ、中に入る。入り口にいる背の高い女性の艶やかな笑みから、ランザは慌てて目をそらした。
テントの中はうだるような熱気と、汗と体液の匂いで満たされていた。男のうなるような声と、女のあえぎ声がこだまする。
ランザは目が回り、倒れそうになった。傍らにいた女性がそれを支えた。ランザはぼんやりとした頭で女性を見上げた。肌につけた脂粉が強く香った。
「ああ、ちょうどいいや。その坊主、はじめてなんだ。可愛がってやってくれ」
アンジェイは店の奥へと消えていった。残されたランザは、倒れ込んだ女性の腕に抱かれながら、近くの敷居の裏に連れて行かれた。
「隊長、ランザはどうしたんですか?」
「娼館に連れて行った」
「はあ、まあ、彼も男ですから、悪いとは言いませんが」
「含みのある言い方だな」
「ええ、料金は誰が払うのか、と思いましたので」
「給料から引いてやれ。世の中は甘くないってことは、若いうちに知っておくべきだ」
「分かりました。隊長の給料から引いておきます。世の中は甘くないということは、年を取ってからでも知っておくべきですしね」
「おい、ちょっと待て。引くならあいつの給料からだろう。あいつがやったんだから。俺は俺の分は自分で払ったぞ」
「さて、ちょっと待ちましたが、ご意見は以上でしょうか。他にないようでしたら、給料係にいってきますが」
「悪かった」
「謝る相手は私ではないでしょう。それでは失礼します」
五年の月日が、矢のように過ぎていった。少年は幾多の戦場を越え、幸運に恵まれたのか、悪運に見放されたのか、どうにか生き残って、青年への過渡期を生きている。
戦い続けたことで強くなり、強くなったことでまた戦場へ行く。戦いの場には困らなかった。この中央平原ではどこかしらで山賊や野党が跋扈していたし、西方では数十から数百の国が統合と分裂を繰り返し、いつ終わるとも知れない戦乱の世が続いていた。
アンジェイ・マズールは勝てる戦場を見つけてくるのが得意だった。勿論、困難な闘いもあったが、その場合は見返りが大きかった。復讐を忘れたわけではない。だが、いつかこの男を超えたいという思い強くなっていった。
そして、ランザはその思いを胸に秘めて、百数十回目の敗北を期した。
「強くなったなぁ、ランザ」
アンジェイの声を遠くに聞きながら、ランザは腹の痛みをこらえていた。突いた隙は囮で、剣を振り上げた拍子にできたがら空きの腹部を強打され、くの字に倒れ込んで動けなくなった。昼食をはき出さなかっただけ、進歩したといえるだろう。
ランザが立ち上がり、震える手で木剣を構えなおすと、瀟洒な伊達男は肩をすくめた。
「やれやれ、俺はもう疲れたよ。ウィース、交代だ」
きびすを返すアンジェイに変わり、彼の副官ウィースが前に出た。
「では、お手柔らかに」
穏やかな声で、やや細身の剣を構える。ウィースは手強い相手だ。特に守勢に強く、アンジェイすら、防御に関してあいつの右に出るやつはいない、と賞賛する。さらにいうと、戦場にあっても命がけで『遊ぶ』アンジェイと違い、ウィースの生真面目さは超級で、どんな状況にあっても手を抜かない。稽古でも同様で、手を抜かず、限界まで引きずり回す。
全力の踏み込みで距離を詰め、渾身の力で振り下ろした剣は、軽い音と共に流された。剣が地面に突き刺さる直前に体勢を立て直し、足をひねり腰をひねり肩をひねり、脇から肩へ抜けるように振った剣は、わずかに上体を反らしただけでかわされた。体勢を立て直す前に踏み込まれ、胸を肩で叩かれる。半歩後退する間に、ウィースは二歩下がっていた。はじめに対峙したときと寸分違わぬその構えで。
ランザは、周囲で始まった「どちらが先に音を上げるか」という賭けに辟易しつつ、覚悟を完了させた。
ランザが疲労によって倒れるまで、それから半刻を要した。
ランザは時折崩れそうになる膝を何とか繰り出しながら、早足で歩くアンジェイの後をついて行った。ウィースとの訓練を終えたランザを労うという名目で町に出たアンジェイは、時々立ち止まって露店をのぞいたり、女の子に声をかけたりしている。
広い背中を見失わないようにあるきながら、ランザは町の中の異様な雰囲気を感じ取っていた。浮かれた感じというべきか、祭りの前夜のような賑やかさだ。しかし、そのなかにあって背徳的な表情を浮かべるものが少なくない。不思議に思ったランザは、きょろきょろと辺りを見回し、人々の視線の先を追った。
そして、ついに見つけた。
高札にかけられた羊皮紙に、幾人かの男の顔が描かれている。その中の一つ、ぼさぼさの顎髭に、口から耳までの一筋の傷跡に、見覚えがあった。忘れもしない、五年前のあの日、町を襲った男の一人。
いつのまにかアンジェイが横に並んで、ランザの肩を叩いた。その拍子に拳を固く握りしめていたことに気がついた。少しだけアンジェイを見て、すぐに高札に目を戻した。横に書いてある文字を見つめるが、読めない。
「北方の蛮族、だな。捕まったのか。当然絞首刑、執行日は、明日の正午」
淡々としたアンジェイの言葉を聞いても、ランザは実感を得ることができない。探し求めてきた敵が、捕まって処刑を待つ身だと言うことが、どうしても信じられない。
「……見に、行ってみるか?」
アンジェイの問いに、ランザは弱々しくうなずいた。
全く眠れない夜を経験したのは久しぶりだったが、ランザは疲労を感じなかった。宿営地に戻っても、緊張と不安でまったく眠れず、頭の中が黒く塗りつぶされたようだった。心臓の鼓動が不規則になり、呼吸が乱れ、心が落ち着かない。
アンジェイと共に刑場に向かう足は、重くはなかったが、軽くもなかった。自分の足ではないような奇妙な感覚で、うまくまっすぐに歩けない。
町の広場にはすでに多くの人が処刑を見ようと集まっていた。広場の端には詰め込まれるように露店が並んでいる。中央にしつらえられた高台には、刑吏がロープの張り具合を確かめていた。
ランザは、風に揺れるロープを見つめていた。その肩にアンジェイが手を置いた。ここに来るまで黙っていたアンジェイは、噛み煙草を吐き捨てながら言った。
「いいか、目をそらすなよ」
ランザは問いかけるような視線を向けたが、アンジェイは表情を消したまま絞首台を見て、顔を向けようとはしなかった。
正午、太陽が高く昇り、影が最も短くなる時間。数人の男たちが刑場に引かれてきた。古い麻袋を被せられ、顔は見えない。高台に上がると、手かせがつけられているのが分かった。遠目に見えるほど震えているのも見えた。
刑吏が男たちの顔から袋を剥いでいく。歯をむき出して威嚇する者がいた。青ざめた顔で下を向く者がいた。涙を流して叫び声をあげる者が、ランザの追い求めた男だった。髭はやはりのび放題で、口元から耳まで裂けた跡が、一際目立つ。
その男は、意味不明の叫び声をあげて、渾身の力を込めて、首にロープをかけられることに抵抗していたが、数人の男たちの手によって台に昇らされると、天に向かって哀願し、涙と小便を垂れ流した。
刑吏が罪を宣告し、どこかの司祭が祈りを捧げた。
端から順番に、台が倒されていく。台を失った罪人は、高い横木から垂れ下がったロープに吊されて、足掻いた。
ランザが探し求めていた男も例外ではなく、全身がひどく痙攣し、踊るように身をくねらせ、掻くように足をばたつかせた。その顔は、目玉が飛び出て、舌を出し、どこでもないところを見ていた。枷をはめられた手は首のロープにかかり、綱をほどこうと首を掻きむしって血がにじんでいた。
男の手がだらりと下がり、天を向いた首が傾いで、その瞳から光が消えるまで、ランザは、アンジェイに言われたとおり、目をそらさなかった。
「ここにいたか。探したぜ」
宿営地から離れた丘の上に座るランザに、アンジェイが声をかけた。膝を抱えて座ったランザは、顔を上げようともしない。アンジェイはその傍らに立ち、時折吹く強い風に身を任せていた。その草原の強い風は、名もない草木と、二人の髪を乱した。
ランザの心は虚しかった。頭の中は乱された髪よりもさらに荒れていた。夜の嵐のように激しく吹き荒れて何も見えない。
「復讐に意味なんて無いのさ」
アンジェイの言葉が、ランザの中に新しい嵐を起こした。
「憎いやつを殺しても、死んだ人間は帰ってこない」
淡々とした言葉が、重く沈んでいく。
「死んだやつを思うのは、生き残った者の自己満足に過ぎない。だから、俺は楽しむことにしたのさ。この、人生ってやつを、な」
抑揚のない話し方は、いつものアンジェイのものではなかった。ランザはそのことを感じ取っていたが、何も想いはしなかった。
再び、二人の間を風が吹き抜けていった。何も聞こえなくなるほどの轟音を伴い、髪と服を激しくはためかせた。
「ランザ、おめえ、隊を出ろ」
雷が落ちた、とランザは感じた。おそるおそる、縋り付くように、アンジェイを見上げる。だが、いつの間にか半歩前に出たアンジェイの横顔もみることができない。
「俺の隊に、戦う理由のないやつはいらない。まして、戦う意味を失ったやつは、足手まといだ」
その瞬間、俯いたランザの目の前に、鈍く輝くナイフが現われた。
「選別だ。とっとけ」
アンジェイは草原をかき分けるように、宿営地へと戻っていった。残されたランザは、ぼやけた視界で、地面に突き立ったナイフを見つめていた。
ウィースは自分の馬を、アンジェイの馬によせた。非難がましい目で、小声で詰問する。
「ランザを追い出したって、どうしてそんなことをなさるのですか」
「ヤツのために隊を犠牲にはできんだろう」
「それはおっしゃるとおりですが。彼を見捨てるのですか?」
アンジェイは肩をすくめ、独語するようにつぶやいた。
「復讐なんて自己満足に過ぎないさ。忠誠心ってやつも似たようなもの。あいつにはどっちも似合わないよ」
納得のいかない表情で、ウィースは指揮を執るためアンジェイの側を離れていった。
一人になったアンジェイの心が、数千の敵を前にして、激しく揺れ始めた。天に向かって独語する。
「人を殺していくら、っていう商売は、人を殺す覚悟をしたやつがやるものじゃなく、戦う喜びを見いだしたものだけがやれるのさ」
アストリア屈指の傭兵隊長は、少しの間目を閉じ、開くと同時に鬨の声を上げた。数百の兵が唱和し、戦闘が始まった。
補 アンジェイ・マズール
アストリアの傭兵は、当時の他の傭兵隊とその性格を異にする。当時も、そして今でも傭兵といえばよく言って荒くれ者の集団で、せいぜい山賊よりまし、という程度のものである。しかし、アストリアの傭兵はそれらと一線を画す。彼らは事実上、国営の常備軍であり、兵士の給料も指揮官の懐ではなくほとんどが国庫から出ていた。規律も比較的厳しいもので、他の傭兵隊では事実上黙認されていた略奪や強姦は禁じられ、破ったものには厳罰をもって報いていた。
もっとも、他と変わらぬ一面もあって、特に西方諸王国連合に兵士を「輸出」する時は、国益に反しない範囲という暗黙の取り決めがなされており、アストリアに害ありとなれば戦闘中に手を抜くという程度はかわいいもので、矛を逆さにすることもよくあった。
それでもアストリアの傭兵は各国にとって強力な戦力であった。実際、西方諸王国の誰一人として、彼らにかなう軍を持っていなかった。
復興期にあって、強力なアストリア傭兵軍団の中でも特に活躍したのがクレイ・ギザンとアンジェイ・マズールの率いる部隊であった。前者はアストリアの将軍マティアス・ギザンの息子であり、二メートル近い長身を筋肉で装い、剣の腕で彼を凌ぐ者はなかった。指揮官としても非凡なものがあり、正面決戦でも夜間奇襲でも十二分に戦果を上げた。
後者はマティアスの友人ラミュース将軍の養子であった。マティアス・ギザンとラミュースは同格でありながらいがみ合うところがなく、戦場でも日常でも肩を並べていた。父親がそのようであったので、息子同士の仲もまた深まった。アストリア―ベルメール戦争に先立ってマティアス・ギザンが暗殺されると、クレイはラミュースに引き取られ、アンジェイと寝食を共にすることになり、四六時中一緒にいるようになった。
戦中、アンジェイはクレイの能力に心服し、年下のクレイを兄貴分として敬意を表し、常に一歩引いた態度を取っていた。クレイもアンジェイの態度に感じるものがあったよううで、何かと周りと対立しがちな弟分をよく庇っていた。
クレイや、アンジェイの副官ウィースは典型的なアストリア人で、生真面目で冗談が通じない人物だったようだが、アンジェイはむしろ陽気で奔放なシュベリア人のようであったという。
「人生は楽しむもの。思い悩む時間はない」
などと言い切り、酒、タバコ、賭博、そして女と、享楽に耽っていた。副官ウィースは再三改善を促したが、一向に改まる様子はなかった。
彼は、遊蕩の中でも特にタバコと女が好きだった。
タバコの方は時を分かたず噛みタバコを口に含んでいた。ある時、レベッカ王の前でも噛みタバコをやって、さすがに咎められ、その場で吐かねば斬ると剣を向けられたが、本人は悠々として、どうぞお構いなく、と放言した。王は悠然と笑って、鼻白んだ一同を制すると、後日南国より輸入された高級タバコを下賜したという。
女性関係は無秩序かつ雑多であり、上は貴族や大商人の娘や妻、下は奴隷や乞食の女にまで手を出したと言われている。残された子供の数は五百を超えるといわれるが、彼は終生独身であり、認知もしなかったので正確な数は不明である。
アストリアが第二次アストリア―ベルメール戦争に勝利し、中央平原の覇権を勝ち取ると、隊を率いて西方諸王国へ移動した。五年ほどアストリアのために戦ったが、右足の負傷を機に引退し、故郷に戻ると新設された士官学校に招かれて教鞭をとった。皮肉屋だが陽気なこの教師は生徒の人気を得、タバコ先生と親しまれた。
五十になると若い頃の遊蕩がたたって体のあちこちに不具合が出始めたが意に介さず、快活に笑っていた。
ある日、アンジェイが出仕しないことを心配した元副官ウィースが自宅を訪れると、彼は椅子に腰掛けたまま冷たくなっていた。テーブルにはお気に入りの噛みタバコと痰壷が置かれていた。誤って唾液を飲み、そのまま他界したと見られている。
アンジェイは、わずかばかりの財産を長年仕えた元副官に遺し、忠孝に報いた。
一方、ウィースはそれにいくらかを付け加え、猥雑な繁華街に碑を建てた。諧謔に笑わないといわれた彼が、アンジェイの墓に刻みつけた銘は次のとおりである。
大いに人生を楽しみ、多くの人生を楽しませた男
人界の享楽に飽き、天界の遊蕩に耽る