第5章
「雲隠は?」
ここに来てから十数日が過ぎようとしていた。
この日、面白いものを見せてやると学然に言われて、明華は彼の部屋を訪れていた。
彼の部屋には所狭しと書物が並べられている。
伝奇物から史書、兵法書など、まるで統一感がない。彼いわく、気になったものを片っ端から集めていたら、このような状態になってしまったんだそうだ。
中には歴史的にも価値がありそうなものもおいてあった。
「あー、あいつはいまちょっと取り込んでるんだ」
部屋の片隅でごそごそとなにやら探しながら、学然は返事をした。
「お客様?」
「まあな」
何となく学然の歯切れが悪い。
「わたしみたいに来た人?」
「まあな……」
なにやら見つけて引っ張り出してきた学然は、明華と目を合わせようとはしなかった。
(あやしい……)
明華は「ふうん」とだけ言うと、かまわず母屋へ行こうとした。
「おい、嬢ちゃん! だめだったら」
「どうして?」
「どうしてもこうしても……」
「別にかまわないでしょ」
「そういうわけにもなあ……」
おかしい。
学然は何かを隠しているように見える。
「別に邪魔はしないわよ。それよりお客さまにお茶は出したの? 雲隠には無理でしょ?」
「そうなんだけどなあ……」
「出していないのね」
うーと、学然はうなっている。
「いいわ。わたしがお茶を出してあげる!」
ぱたぱたと明華は駆けていく。
「あ、おい、嬢ちゃん!」
慌てて学然が後ろから追いかけてきた。それをするりと交わして、明華は母屋への戸を開いた。
「!」
突然の闖入者に、雲隠は驚いたように二人見た。
そうして、明華と、彼女に続いて入ってきた学然を見て、ふうと小さくため息をついた。
「学然……」
「し、仕方ないだろう」
俺は止めようとしたんだ、とぶつぶつと言い訳をする学然を、雲隠は軽く睨みつける。
「別に学然を怒らなくったっていいじゃない。わたしはお客さまにお茶をいれにきただけだもの」
「明華……」
ふと、聞き覚えのある声がした。
がたり、と雲隠の向かいに座っていた二人が立ち上がり、ゆっくりとこちらを振り向く。
二人の顔を見て、明華は目を見開いた。「お父さん…お母さん…?」
両親は何も言わず、明華を見て、目を細めた。
じりりと、明華は後ずさった。
まさか、自分を連れ戻しに?
いや、そんなことはないはずだ。
だって、自分は家を出るとき、どこに行くとは告げていない。明華がここに来ていることは誰も知らないはずだ。
――明華は自身、ここにたどり着けるとは思わなかったのだから。ここに来たのは、本当に偶然なのだから。
なら、どうして二人はここにいるのだろう?
「いやよ。わたしは帰らない!」
「明華……」
「お二人とも、あなたのためにここにいらっしゃったのです」
「雲隠さま!」
二人は同時に雲隠の言葉を遮ろうと叫んだ。
「わたしの…ため?」
決してありえない理由に、明華は両親をまじまじと見つめた。父も母も明華からスッと視線をそらす。
(やっぱり…そんなこと…)
「ありえない…」
「なぜ?」
「だって…わたしは……」
弟よりもすべてが劣っていて……だから……。
「どうせわたしを連れ戻しに来たのでしょ! そしてまたあそこに閉じ込めて、あのコと比べるのよ!」
「――明華」
「わたしは、わたしはあのコと比べられるためにいるのよ!」
「いいかげんになさい」
小さな痛みが左頬に走る。
突然の雲隠の行動に、周りのものは唖然とした。
これまでの物静かで、微笑みを湛えていた彼からは想像がつかない行動だった。
学然もこれには驚いたらしく、あんぐりと口を開いている。
「お父上とお母上のことがされようとしていたこと、知ってもなお、そのようなことが言えますか!?」
唖然としている明華に、雲隠は告げる。
「お二人がここにいらしたのは、娘さんの命を救うためです」
(――娘? 命…?)
あまりにも唐突過ぎる言葉。
明華の頭の中は、ぐるぐると雲隠の言葉が回る。
(どういう…意味?)
いったい何のことを言っている?
雲隠が言ったことは…誰のこと?
明華はわけがわからず、両親と雲隠を代わる代わる見た。
しかし、両親は視線をそらしたままで、何も答えてはくれない。
「お二人の娘さんは、生まれたときから病に侵されていました。もともと長くは生きられない、そう医師から告げられていたのです」
明華の朦朧とした頭の中に、次の雲隠の言葉が入り込んできたが、やはり理解はできなかった。
(誰の……こと?)
二人の娘?
生きられない?
「明華、あなたのことです」
はっきりと告げられた言葉。
「――わたしは、死ぬの?」
「ええ」
ふらりと視界が揺れた。
身体に力が入らない。
「ご両親は――」
雲隠は夫婦の顔をちらりと見やり、そして、決意したように告げた。
「己の命をあなたに分け与えたい、と、そう願いここに来たのです」
「――…」
両親をもう一度見る。絶えかねて、母が泣き出した。父が、そっと母の肩を抱く。
明華はここにきて、ようやく悟った。
それでは、あの金庫に貯めてあった金は……。
「あなたのためです」
明華の思考を読み取ったかのように、雲隠は告げた。
「すべてはあなたのため。あなたを生かすため」
わっと明華は声をあげて泣いた。
自分の愚かさを思い知った。
何も自分はわかっていなかった。
両親の心も、そして自分自身のことさえも。
両親は弟のことしか考えていないのかと思い込んでいた。自分は愛されていないのだと。自分などいてもいなくてもかまわないのだと。
なのに、両親は自分をきちんと見ていてくれた。それどころか自分たちの命を差し出してまで明華を救おうとまでしてくれていたのだ。
「あなたは言いましたね。幸せになれる世界に行きたい、と。あなたの願い、ここで叶えて差し上げましょう」
明華のもとに、雲隠が歩み寄ってきた。そうして二つの玉を差し出した。
手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさのそれは、とても美しい色合いをしていた。
一つは晴れた日の夕焼けのような色。一つは晴れた日の雲ひとつない空の色。
「のぞいてごらんなさい」
言われるがままに明華は玉を覗き込んだ。
スゥと玉に引き込まれるような感覚に襲われる。
逆らいようがない強い力に引き寄せられる。
それと共に、次々と浮かんでは消えていく場面。
(これは…)
「――あなたの未来」
夕焼け色の玉では、家族と共に笑っている自分。しかし、それはやがて過ぎ、土の中に横たわる両親が映った。
空色の玉でも、やはり家族と共に笑っている自分が見えた。だが、これもやがて過ぎ行き、土の中に横たわる一人の人間が映し出された。
それは――自分自身だった。
「これが、わたしの…」
「そう、未来。あなたは、どちらを選びますか?」
先ほど、雲隠が告げた言葉と、この玉に映し出されたこととが結びつく。
夕焼け色の玉を選べば、自分は永らえることができる。だが、それは両親の命を分け与えられるからだ。
自分に残りの命を分け与えた父も母も、本来定められた寿命をまっとうすることはなく、明華に分け与えた命の分、寿命は縮められてしまう。
空色の玉を選べば、自分の命はあと数年。やがて、自分の命は燃え尽きてしまうだろう。これからの日々を、やがてくる「死」を意識して生きなければならない。
明華にとっては、どちらも恐ろしい未来だった。
人間、誰しも自分が死ぬのはいやだ。だが、他人の命を引き換えにしてまで、永らえることもいやだ。
「――明華、こちらの玉を選びなさい」
それまで黙っていた父が、夕焼け色の玉を指差した。
「こちらを選べばお前は生きていける。私たちはそのためにここにいるのだから」
「明華…」
母は今にも泣きそうな顔をしていた。
「私たちはお前に生きてほしい――」
その言葉が、明華に決意させた。
明華は、大きく息を吸うと、一歩前へと進み出た。
「決まりましたか?」
「ええ」
大きくうなずく。
「わたしはこちらを選ぶわ」
明華が手にしたのは、空色の玉だった。
「明華!」
悲鳴にも似た声と共に母がその場に崩れ落ちる。
そんな母を父が支えた。
「――なぜこちらを?」
表情一つ変えずに、静かに雲隠は訊ねた。
それは、まるで明華の選択を予見していたかのようだった。
明華は静かに双眸を閉じた。
たとえ両親の命を分け与えられて、己の寿命を伸ばしてもらったところで、さきほど見せられたものが現実となってしまうのなら……。
きっと、自分は自分自身を許すことができないような気がした。
罪悪感と、後悔と――悲しみに埋もれてしまうだろう。
そんな日々を生きなければならないのなら、自分は……。
「わたしは残されたときを大切に生きていたい。家族のもとで」
明華はにっこりと笑んだ。
「あなたが思っている以上に、己の寿命がわかっている中で生きていくのは辛いものですよ」
「――尽きない年月を生きるのも辛いと思うわ」
明華の言葉に、雲隠がはっと顔を上げた。
「わたしには家族がいるから大丈夫よ」
明華は満足そうに笑った。
その笑みは、ここに来てから明華が見せた心の底からの、真の笑顔だった。
それから数年後。春の足音が聞こえ始めた、心地よいある日のこと。
明華は静かに息をひきとった。
大切な家族に囲まれて。
「幸せになりたい」
雲隠に告げた彼女の言葉が、本当になったのかは彼女にしかわからない。
だが、彼女は最期のその瞬間、家族に笑いかけたのだという。