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第4章

 翌日、明華は起きた後も、なかなか部屋から出ようとはしなかった。

 心配した学然が昼すぎになって、部屋を訪れた。

「嬢ちゃん、飯はどうだ?」

「うん……」

 明華は小さくうなずいたが、床に腰掛けたまま、動こうとはしなかった。

「――な、嬢ちゃん」

「――……」

「まずは飯を食ったほうがいい。腹をすかしたまんまだと、ろくなこと考えねえ。腹をいっぱいにしないと脳も動かないんだと」

「そう…ね……」

 やはり明華は床から動こうとはしなかった。

「ほら」

 明華は視界が大きく揺れるのを感じた。

「!」

 軽々と学然に抱きかかえられ、明華は抵抗する隙も与えられずに、そのまま母屋へと連れて行かれた。

 そうして昨日と同じように椅子に座らされた。

 卓の上にはすでに食事が用意されていた。

 小さな饅頭が三つ。そして茸が入った湯。

 ずいぶんと質素なものだった。町にいたころの食事に比べれば。

 けれど、旅の間はこのようなものでさえ口にできなかったのだから、今の明華にとっては十分過ぎるほどのご馳走だ。

「さ、まずは食うんだな。俺はな、料理はやっぱり冷えないうちに食ってもらいたい」

 有無を言わさない学然の様子に、明華は頷くしかなかった。

「いただきます」

 饅頭を二つに割ると、中には細かく刻んだ葱がぎっしりと入っていた。てっきり肉が入っているかと思った明華は、思わず学然に目をやった。

「悪いな。肉はだめなんだ」

「?」

「――いちおー、あいつ、仙人なの」

 忘れてるだろ、と学然に言われて、明華はああ、と思い出す。

 そういえば以前どこかで聞いた気がする。仙人さまは肉類を食してはだめなのだと。

「物足りないかもしれねえけど、おいしいと思うぞ」

 促されて、かぷりと饅頭にかぶりつく。

 思っていた以上に、饅頭の皮には甘みがあった。中の餡代わりの葱は少ししょっぱく味付けされており、甘みとしょっぱさのバランスがとてもよくできていた。

「学然は食べたの?」

 目の前でお茶をすすっている学然を見て、明華は訊ねた。

「ん。まあな」

「雲隠も?」

「ああ、すまねえが先に食べさせてもらった」

 遅くまで出てこなかったのは明華なのに、学然は謝る。

「いいの? わたしに付き合ってこんなところで油うっていて」

「別に油なんかうってねえって。こうやって嬢ちゃんが食事しているのをそばで見守るのが、今の俺の仕事なの」

「へんなの」

 くすくすと明華は笑った。

「そうだろ? 一人じゃ、うまいもんもうまくないからな。食事ってのは一人でするもんじゃない」

「そう……?」

 明華の顔が曇る。

「――家ではこうやって食わないのか?」

 彼女の手が止まった。

「あまり…ないわね」

 父も母も仕事が忙しく、家族そろって食事をすることなどほとんどなかった。

 かといって、弟と共に食べるのは何となくいやで、明華はいつも部屋で食事を取るようにしていた。

 下女が運んでくれる食事を部屋の前で受け取って。

 はじめのうちは、あれこれと下女たちが世話を焼こうとして、部屋の中まで押しかけてきたが、鬱陶しくなって追い出してしまった。

 それ以来、明華はいつも一人で食事を取っている。ただ黙々と。

 だから、今、このように学然と話ながら食事をしていることが、とても新鮮だった。もう何年間もした覚えがなかったから。

 ぽんぽんと、明華の頭を学然が叩く。

「?」

「――あまりしょいこまないことだな」

「何を?」

「いろんなものを、だ」

「わからないわ」

 いいんだよ、わからなければ、と学然は小さく笑った。

 明華はぱくりと饅頭の最後の一口を口の中に放り込んだ。

「ご馳走さま」

「お粗末さま」

 料理自体はとても質素なものではあったけれど、家で食べていたどんな豪華な料理よりも、とてもおいしく感じた。そして何よりも、ちょっぴり気持ちが浮上した。

 それはやはり、こうしてそばに人がいてくれたからなのかもしれない。

「学然……」

 明華が食べ終えた皿を運んでいこうとする彼の背中に、明華は声をかけた。

「ん?」

「――あり…がとう……」

「いんや」

 部屋を出る間際に、彼は明華のほうに向き直った。

「次はちゃんとみんなで食おうな。そのほうが何倍もうまいぞ」

 明華は満面の笑みでうなずいた。

 食事を終えた明華は庭に出ると、庭先にあった椅子に腰掛けて空を見上げた。

 薄雲がかかった空は、まるで今の明華の心のようだ。

 今にも雨が降り出しそうな不安定な空――。

「帰らないのですか?」

 声をかけられ振り向くと、そこには雲隠が立っていた。

 雲隠は明華が今まで見上げていた空を仰いだ。

「今ここを出れば、日が落ちる前に家にたどり着けますよ」

 雲隠は西の方角を指差した。

「一度つながった道ですから、帰るのは至極楽なはずです。ここを抜ければ、あなたが住んでいた町まですぐですよ、きっと」

 だが明華はそこから動こうとはしなかった。

「帰りたくないの」

「帰らなければ、願いは叶いませんよ」

「わかってる……」

 わかっているけれど、帰るのがとても怖かった。

 もし、夢鏡でみたことが現実になっているとしたら?

 明華はそれがとても恐ろしかった。

「もう少しだけ…いさせて……」

「そう……ですか」

 雲隠はそれ以上は何も聞かなかった。そして、余分なことも何一つ言わなかった。

 ただ、ひとことだけ明華に告げた。

「願いは約束どおり叶えましょう」

 しゅる、と衣擦れの音がし、雲隠がその場から去っていくのを背中に感じながら、明華はほっとしたように小さく息をついた。



 「帰りたくない」という明華を、雲隠も学然も無理やり追い返すようなことはしなかった。

「好きなだけいたらいい」

 学然はそういうと、何かと明華に世話を焼いてくれた。

 ここに数日滞在するうちにわかったのだが、この家の一切を取り仕切っているのは、実は雲隠ではなく、学然だった。

 つまり、明華がここに転がりこんだ日に、気を利かせて香を焚いておいてくれたのも、毎日食事を作っているのも、すべて学然だったのだ。

 何より驚いたのは、棚の上に敷かれていた絹織物にあった刺繍まで学然作だというのだ。

「――あなた、何者?」

「だから…しもべ」

 学然はククッと愉快そうに笑った。

挿絵(By みてみん)

「俺がやらねえと、あいつは何もできないからな」

 明華は不思議そうに窓際の雲隠を見やった。彼は陽だまりの中で、半分うとうとしている。手には書物を持っていたが、先ほどからまったく頁はめくられていない。

「仙人さまなんだから、何でもできるんじゃないの?」

「残念ながら家のことはさっぱりだな。大体仙人ったって、何でもできるってわけじゃあねえだろうからなあ」

「そうなの?」

「明華にだって、得手不得手はあるだろ?」

 こくりと頷く。

「仙人だって同じってことだ。特にあいつは……不器用だからな。いろんな意味で」

 ふうん、と明華はなんだか納得したような気になった。

「でも、楽器を奏でていたのは……雲隠でいいのよね?」

 そういえば、ここにたどり着いた日の夜、雲隠にお礼を言ったけれど、雲隠は自分が二胡を奏でていたことを認めたわけではなかった気がする。

 ひょっとしたら……まさか学然が?

 内心、それはありえないような気がしつつも、家事やら刺繍やらを得意とすることが発覚した今、さらにある意味期待を裏切るような状況になるような気がしなくもなかった。

「ああ、そうだな。あいつ、二胡だけはうまいからな」

 だが、あっさりと、そのように学然は答えた。そうして意味ありげに笑った。

「あなたは弾かないの?」

「――ガラじゃない」

 そういう自分はどうなのだ、と問われて明華は胸を張った。

「弾こうと努力はしたわ」

「努力しても弾けなかったんなら、俺と同じだ」

 鼻の頭をつんと押しやられる。

「失礼ね。努力したのとしないのとではえらい違いだわ」

 へーへーと学然は笑いながら、茶をすすった。

「わたし、雲隠の二胡、好きよ」

「そうか……」

 ふっと目を細めて、学然は微笑んだ。

 それまでの軽い調子の彼とはまったく異なる、とても大人な雰囲気に、明華は思わず顔を赤らめる。

 それを知ってか知らずか、学然は明華の頭をぐりぐりとなでた。

「ありがとな」

「?」

 礼を言われる理由が、明華にはまったく理解できなかったが、学然はその理由を言ってはくれなかった。



 その晩、寝床に就いたものの、明華は眠れずぼうっと天井を見つめていた。

 ここに来てから、こういった状態が続いてる。

 どうしても、あの夢鏡のことを思い出してしまうのだ。

 眠ればまた、ここに来た夜みた夢を再び見てしまうかもしれない。

 見たくもないのに――。

挿絵(By みてみん)

 ゆえに、目を閉じることもできず、明華は深く息をついた。

 毎晩この繰り返しだ。

 と、そこに今晩も二胡の音色が微かに聞えてきた。

 いつもであれば、その音色が眠りにつかせてくれるのだが、昼間の学然の話が気になり、明華は起き上がると、薄手の衣を上に羽織り、部屋を出た。

 二胡は別の部屋から聞こえてきたのだとばかり思っていたが、どうやら屋外から聞こえてきているようだった。

 あたりを見回すが、人の気配はしない。

 ひっそりと静まり返った邸。

 離れの部屋には微かに灯りがともっているのが見えた。窓に映し出された姿は学然のものだ。

 見かけによらず意外と彼は勤勉で、夜更けになってもこうしてひとりで本をめくっているのだと、雲隠が笑っていたのを思い出す。

 だが、彼のそばに雲隠はいないようだった。母屋にもいそうな気配はない。

 ここいらに彼ら以外に人がいるとは思えなかったから、あの音色の主は雲隠なのだろうが、肝心の彼はどこにいる?

 先ほどまで聞こえていた二胡の音は、気づくと聞こえなくなっていた。

 もしかしたら、風向きによって聞こえたり聞こえなかったりするのかもしれない。

 そんなことを思っているうちに、再び二胡の音色が聞こえてきた。部屋の中で聞くよりもよりはっきりと聞こえてくる。

 明華は音のするほうへと足を向けた。

 門をくぐり、外へ出る。

 真っ暗な道はちょっとばかり怖かったけれど、それよりこの音を奏でている彼を見てみたいという好奇心のほうが勝っていた。

 彼女はおっかなびっくり夜道を進む。

 ここに来たときは朔の日だった。あのときは、本当に真っ暗で何も見えなかった。それに比べれば、今日は頼りないとはいえ月が姿を見せている。

 明華は竹林の中にできている、人ひとり通れるくらいの細い道を辿った。ここに来るときは、ただただ恐ろしさだけがいっぱいだった竹林だが、こうして月明かりの下で見ると、また違った印象を与えた。

 真っ青な葉に、月の薄明かりが落ちている。すっと風が吹けば、さわさわと優しい音を奏でた。その音は聞こえてくる二胡の音色と相まって、より趣き深さを与えている。

 明華は心が澄んでいくのを感じた。

 何度か立ち止まり、そのたびに空を仰いだ。

 今までこうしてゆっくりと自然と、いや、己と向かい合ったことがないような気がした。

 そうして、水が湯に変わるくらいの時間歩き続けただろうか。

 少しばかり開けた空間にたどり着いた。

 そこには、小さな泉があった。滾々と水をたたえた泉のほとりには雲隠がいた。

 彼は月明かりの下で、一人二胡を奏でていた。

 その儚げな横顔はまるで泣いているかのようだった。

 高く、低く、悲哀の想いがこめられているかのような二胡の音色。

 心を強く揺さぶられるような、悲しい音色。

 雲隠は何を想ってこのような曲を奏でているのだろう……。

 近づいてきた明華に気づき、驚いたように雲隠は顔を上げた。

「明華……」

 彼は二胡を奏でる手を止めて、すっと人差し指で明華の頬に触れた。雲隠の行動で、明華は初めて自分が涙を流していることい気づいた。

「あなたは……とても感受性が強いのですね」

 慌てて頬を擦ったが、涙は止まらなかった。

 なぜ……だろう。なぜこんなにも心をゆすぶられるのだろう。

(ああ……そうだ)

 淋しい、という声が聞こえてくる。この人の奏でる二胡の音からは。

 一人でいたくないと。

 一人で悲しみの中に、これ以上いたくないのだと。

 明華が夢鏡の中で思ったことを、強く、強く感じるのだ。

(まさか……雲隠も?)

 雲隠も同じ想いを抱いているのだろうか。

 いや、そんなこと、あるはずはない。

 明華は己の考えを否定する。

 雲隠の傍らにはいつだって学然がいる。彼がいつも彼を支えているように見える。軽口を叩いていながらも、それでも、学然が雲隠を見る目はとても温かく優しい。そして、雲隠もまた学然を信頼しているように見える。

 だが――この音色は、深い悲しみを知らずして出せるものではないように思えた。

 明華はもう一度ぐいと涙を袖でぬぐった。

「ね……雲隠」

 雲隠は傍らの石を指差し、明華に座るよう勧めた。明華はちょこんとそこに腰を下ろすと、雲隠の横顔を見上げた。

挿絵(By みてみん)

 やはり、ここに来たとき感じたように、雲隠の横顔はとても悲しみで満ち溢れているように思えた。

 そういえば、とここに至って明華は思い出す。

 この竹林にたどり着いて、雲隠と出会ってからまだそんなに時間は経っていない。だが、その間にも、彼が今回のように一瞬、とても悲しげな顔をするのを何度か見ているような気がした。

「ね……聞いてもいい?」

「わたくしが答えられることなら……」

「わたし、ときどきあなたがとっても悲しそうな感じがするの。これは気のせい?」

 雲隠は瞠目した。

「ああ、いけませんね……ほんとうに……」

 しばらくの間のあと、自分を責めるように雲隠は言った。

「あなたにまで悟られてしまうなんて……わたくしは……」

「雲隠…?」

 雲隠は双眸を閉じた。

 少しうつむき、次の発すべき言葉を探しているようであった。そのため、明華は何も言わずに、じっと彼が言葉をつむぎだすまでじっと待った。

 ぽこぽこと、泉の水が湧く音がとても大きな音のように思えるほど、静まりかえった空間で、明華は辛抱強く雲隠の言葉を待った。

 そうして、しばらくした後、雲隠はおもむろに口を開いた。

「わたくしは本当はここにあってはいけない者なのです」

 彼の言葉は唐突だった。

 雲隠は二胡を傍らの木へと立てかけた。

 そうして、月を仰ぐ。

「どういう意味?」

 彼が言わんとしていることが、明華にはまったくわからない。

 それまでの話といったいどのような関係があるのかさえ、わからなかった。

「わたくしは生きていてはいけないのですよ……本当は」

(本当は?)

 生きていてはいけない?

 そんなことをいったい誰が決める?

 雲隠は誰に対してそう思っているのだろう?

 学然?

 いや、そのようには見えなかった。

 先ほども思ったが、少なくとも、二人の間はとても良好に見える。彼らはお互いを信頼し、そして支えあっているように見える。そしてこれはおそらく間違いではないだろう。

 では、いったい雲隠は誰に対してこのようなことを思っているのだろう?

 ――いや、違う……。

 「誰に」ではないのかもしれない。

 ひょっとしたら雲隠は……

「――雲隠は……生きているのがいや?」

 はっとしたように、雲隠は顔を上げた。

「生きていてはいけない、じゃなくて、生きていたくないんじゃないの?」

 そうだ。きっとそうだ。

 だって、人が生きるのに、誰かに許可を得なくてはならないなんて、おかしな話だ。

 雲隠は「生きていてはいけない」のではなく、「生きていたくない」のだ。

 だから、あんなにも悲しそうな顔を…する?

「どうし……て?」

 その問いには、雲隠は答えてくれなかった。

 ただ、湖の水面に揺れる月光に目を細めた。

「――もっと前向きに生きていたら……そう思うのですが……。いえ、前向きに生きていられたら、わたくしはここにはいないでしょうね」

「そう……なの?」

「ええ、そうですよ」

 明華には、いまいちここがどういう場所なのかいまだによくわかっていなかった。

 そう素直に言うと、雲隠は少し驚いたように明華の頭をなでた。

「ここにくるには…少し早すぎたかもしれませんね」

「?」

「でも、あなたに道が開けた、というのならば、きっと意味があるのでしょう」

 雲隠は二胡を手にする。

 そうして、再び音を奏で出した。

 優しくも悲しいその音は、澄んだ夜の空気に溶けていった。

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