第3章
とりあえず今晩は泊まっていきなさい、と雲隠に勧められ、明華は小さな部屋に案内された。
明華の部屋に比べれば、はるかに質素なつくりではあったが、こうしてみるときちんと整頓された、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
調度品も、これまた明華の家にあったほどのものではなかったが、どこかしら気品を感じさせるような品々ばかりだ。
棚の上には、見事な刺繍を施した絹織物がかけられている。その上には細長い陶器があり、一輪だけ花が活けられていた。
部屋の中には微かによい香り漂っていた。予め香を焚いておいてくれたのだろう。見れば銀でできた香炉が窓辺に置かれていた。
どれもこれも、おそらくは雲隠の趣味なのであろう。どうみてもあの学然がこれらのものを施したとは思えない。
「わたくしたちは向こうの離れに夜はいますから、何かありましたら声をかけてください」
「ありがとう……」
出て行く雲隠に声をかける。
振り向いた雲隠は、とても複雑そうな顔をしていた。
「わたくしはお礼を言われるようなことはしていません……。引き換えにいただくものがあるのですから」
「ううん」
明華は首を振る。
「お願いごとだけじゃないわ。えーと……」
明華は少しだけ首をかしげて考える。
「助けてもらったから」
「?」
「あなたでしょ? 楽器を奏でていたのは」
楽の音色が聞こえたからここにたどり着けた。ここに導いてくれたのは雲隠が奏でていた音だ。
「――おやすみなさい」
雲隠は小さく笑うと部屋を出て行った。
彼が部屋を出て行ったのを見ると、明華は早速寝床にもぐりこんだ。
なんだか疲れたどっと押し寄せてきた。
家を飛び出してから、「一日」がとても長く感じることが多かったが、今日はその中でも一番長い一日のように思えた。
だが、その「一日」も、今日で最後だ。
明華の願ったことが現実になっているのであれば、明日にでも家に帰ろうと思った。少なくともここにいても願いは叶わない。
「幸せになりたい」という明華の願いは、家族と共にあって初めて成しえるものだ。
明華の願った「幸せ」。
(わたしの……幸せ……)
ふと、明華は固まった。
自分の「幸せ」は……それは何なのだろう……。
今の自分が幸せでないことは、明華にもわかっていた。だが。
そういえば、自分は「幸せになりたい」と願いはしたが、具体的にどうなりたいのだと思ったことはなかった。
どうなったら、自分は「幸せだ」と思えるのだろう。
(わたしは……)
じっと宙を見る。
ここにきて初めて、漠然とした不安が明華を襲った。
先ほどまでは願いが叶うということに浮かれてはいたが、その願い自体がじつはとてもあやふやなものだと気付いてしまった。
次に目が覚めたとき、世界はどうなっているのだろう。自分はどうなっているのだろう。「幸せ」になっているのだろうか? どうなったら自分は「幸せ」と感じるのだろう。
一瞬、とてもいやなことが脳裏をよぎった。
考えてはいけないことを考えてしまった。
明華はぎゅっと目を閉じ、その考えを打ち払った。
(考えるのは…やめよう……)
このまま眠ってしまえば、考えずにすむ。だが、そう思えば思うほど眠りにつけなかった。
身体は疲れてとてもだるいのに、まったく眠りが訪れてはくれなかった。
何度か寝返りを打っていると、ふと、楽の音が聞こえてきた。その音色は、紛れもなく、明華がここにやってくるときに耳にしたものだった。
ゆったりとした優しい曲。伸びやかな音色。
明華は小さな欠伸をした。
そうして、気づくと、明華は眠りに落ちていた――。
眠りの中で、明華は一人、暗闇の中に立っていた。
(ここは……どこ?)
あたりを見回したが、何もなかった。
どこまでも闇だけが続いている。
樹も草も、何もなかった。
そこにはただ明華が立っていることで「地」と感じるものしかなかった。
その場で立ち尽くしているわけにも行かず、明華はその中をゆっくりと歩みだした。
どちらが前かもわからぬ中、手探りをしながら一歩一歩前へ恐々と進む。
そのような状態でしばらく進んだところで、明華はふと、前方に灯りを見つけた。
じっと目を凝らしていると、その灯りが一気に明華の目前まで近づいてきた。
灯りはまるで大きな透明な玉のような中にはいっているようで、見えないものに阻まれ、明華はその灯りに触れることも、そしてその玉の中に入ることもできなかった。
明華が立つ位置は常に影。暗闇が背後には控えていた。
「ねえ、お姉ちゃんはどこに行ったの?」
聞き覚えのある声が光の中からした。
はっとなって明華は目を凝らす。
「!」
光の中には両親と弟がいた。
「お姉ちゃんはいつ帰ってくるの?」
「もう、戻ってこないのよ……」
母が優しく弟の頭をなでる。
(わたしはここよ!)
明華は叫んだが、それは彼らには決して届かなかった。
「そうなんだ。でも大丈夫だよ。お姉ちゃんがいなくても、ぼくがちゃんとお母さんとお父さんを助けてあげるから」
「心強い言葉だな」
父の満面の笑み。明華には決して向けられることのないものだ。
(わたしは……)
ばんと見えない壁を叩く。
「あの子のことは忘れよう。私たちはお前がいれば幸せなのだから」
ふふふ、と無邪気に笑う弟を、父は強く抱きしめた。
見たくない。
もうこれ以上、この光景を目にしていたくはなかった。
明華はぎゅっと目を閉じ、耳を両手で覆った。
光が急速に引いて行くのを感じた。しかし、それは一瞬のことで、再びまぶしすぎるほどの光が周りにあふれるのを感じた。
そろそろと目を開けると、雑踏の中、明華は一人立ち尽くしていた。
人々は光の下を忙しそうに行き交う。
だが、明華が立つその場所だけ、ぽっかりと闇が口を開けていた。
見て。
誰か、わたしを見て。
だが、誰も明華には気づかない。
どうして、どうして……どうして誰も気づいてくれない……。
涙があふれてきた。
黒いものが心の中からあふれてくる。
いっそうのこと、全部消えてしまったらいいのに。
そうしたら、わたしは苦しまなくてすむ……。
そう思ったとたん、足元の闇がぶわりと明華を包み込んだ。
(な…に……)
息ができない。
苦しい、苦しい。
明華はもがいた。
助けて! 誰か助けて!
叫んでも、誰も来てはくれなかった。
暗闇の中で、明華は必死にもがいた。
誰でもいい! 誰でも!
(ひとりはいやなの!)
だが、明華の声を拾ってくれる者は誰もいなかった。
(どうして…誰も助けてくれないの!)
誰か、誰か…お願い……!
「明華、明華…」
目を開けると、心配そうに自分を覗き込む雲隠の顔がぼんやりと見えた。
「!」
瞬間、明華はぐっと両手胸を押さえた。息が……できない。胸が苦しい。
「明華?」
声の方に右手を伸ばす。
苦しい、苦しい、助けて!
声に出したくとも出せない。
「雲隠、どけ!」
次の瞬間、強い力にぐいと引き寄せられた。
「嬢ちゃん、ゆっくりと息を吸え」
(息…息……)
息の吸い方……。
「ゆっくりでいい。口を開けて」
ああ、そうだ。口を開けて……。
明華の身体の中に新鮮な空気が入ってきた。
それとほぼ同時に、明華は激しく咳き込んだ。
「水、飲めるか?」
渡された器を受け取り、明華はそろそろと口の中に流し込む。
「大丈夫ですか?」
雲隠に問われて、こくりと頷く。
「雲隠、嬢ちゃんをちょっと頼む」
「あ、はい」
学然は言い残して部屋から出ていった。
「わたし……」
言葉を発しようとして、明華は再び激しく咳き込む。
「明華、無理をしないで下さい」
明華の背中をさすりながら、雲隠は心配そうに言った。
「ずいぶんとうなされていたみたいですが、大丈夫ですか」
「うなされ……て……」
明華の脳裏に先ほどまで見ていたものがよみがえってきた。
「――…」
ぐっと強くした唇をかむ。
「明華?」
「――わたしは……」
「?」
「幸せに……なれるの…よね?」
「明華……」
「願いは、叶えてくれるのよね?」
「待った、嬢ちゃん。先にこっちだ」
声がするほうに目を向けると、姿を消した学然が、なにやら器を持って現れた。
「まずはこっち。これを飲んでおいてくれ」
不審そうな瞳を向ける明華に、学然は苦笑した。
「妙なもんじゃねえよ。薬だ。――よく……眠れるように、な」
「――…」
「苦くはねえよ」
ためらう明華に、学然は肩をすくめる。
「嬢ちゃん用だからな」
明華はくんくんと匂いをかいでみた。少なくとも、過去に飲んだことがある薬特有の匂いはしない。
舌で少しだけ舐めてみた。
「――…」
「な、苦くないだろ?」
こくりとうなずく。
学然が言うとおり、それはまったく苦味を感じないものだった。逆にほんのりと甘い。明華はごくりと一気に飲み干した。
「あなたは夢鏡……を見たのですね」
明華が落ち着いたのを見計らって、雲隠が話しかけた。
「夢…鏡……?」
「自分が最も見たくないもの、自分が最も見たいもの。人の思いが強いと、それは夢に現れるものなのです。とくにこの庵ではそれが強く働くのですよ。――あなたには悪いほうに作用したようですね」
夢は明華の心の投影なのだと、雲隠は教えてくれた。
本当であれば、その夢をもとに未来を紐解くことも可能なのだと。
「じゃあ、私の未来は?」
雲隠は困ったように首を傾げた。
「残念ながら私には…わかりません」
「仙人さまなのにわからないの?」
「すみません……」
本当に申し訳なさそうに謝るものだから、こちらが悪いことをしているような気になってしまう。
「私は――未熟な仙人なのです…私は……」
「雲隠」
パンと学然が、雲隠の目の前で手を打った。
「あ、ああ……」
「お前、また悪いほうに考えているぞ。嬢ちゃんが困っている」
目をしばたかせている明華を見やり、苦笑する。
それを見て、雲隠はまた申し訳なさそうに少しうつむいた。
「申し訳ありません、明華……」
わたくしは、と言いかけた雲隠の言葉を、学然が遮った。
「はい、そこでおしまい。それ以上、今は言うなよ。また同じことの繰り返しになる」
学然の言いようを見て、先ほどまでの欝な気分など忘れて、思わず明華はふきだした。
「?」
「わたし、仙人さまってもっとすごい人だとばかり思ってたわ」
「――明華……」
なんとも複雑そうな顔をしている雲隠の横で、学然はけらけらと笑っている。
「――学然、笑いすぎです。ああ……すみません…。少しばかり長居をしてしまいましたね」
雲隠は窓の外に目をやった。
まだ外は暗く、夜明けまでは間がありそうだった。
「もう一眠りしたほうがいいですよ。薬も飲みましたし、今度はゆっくり眠れるでしょうから」
これでも学然は薬の調合がうまいのだと、雲隠は明華の前髪を梳きながら言った。
「これでもってのが気になるけどな。次に目が覚めたときは朝だ、ってくらいは眠れるはずだ」
にかっと学然は笑う。
「二人ともごめんなさい」
「?」
不思議そうに二人は明華を見た。
だが、やがて明華が何を謝っているのかを悟り、微笑んだ。
「嬢ちゃん、そういうときはな、謝るんじゃなくて礼を言うんだよ。そのほうが言うもほうも言われたほうも、気持ちがよくなるだろ?」
明華はこくりと頷く。
「二人とも、ありがとう」
気にしないでいいと、二人は優しく言ってくれた。
「それではおやすみなさい」
「じゃあな」
各々立ち上がると、部屋を出て行こうした。
「待って!」
明華は二人を思わず呼び止める。
学然と雲隠は驚いたように振り返った。
「お願…い……眠るまで、そばに……いて」
最後のほうは消え入りそうな声で言う。
雲隠と学然はお互い顔を見合わせたが、ふっと笑った。
「ええ。それではあなたが眠るまでそばにいましょう」
雲隠は戻ってくると、明華の手を握ってくれた。学然も枕元に浅く腰掛けると、明華の頭をなでてくれた。
二人の手はとても暖かく、明華の心に安らぎをあたえてくれるかのようだった。
そうして、いつしか明華はゆっくりと眠りに落ちていった。
今度は夢など見なかった――。
「雲隠……嬢ちゃんは……」
雲隠は外で揺れている竹に目をやる。
「夢鏡のせいだけじゃないような気がする。おまえは何を知っている? あれは――……」
「やはり……。わたくしは…無力です」
ざあと風に揺られて、竹の葉が鳴る。
二人はしばらく外で揺れる竹を見つめていた。ただじっと……。