第2章
家を飛び出して七日が過ぎた。
ここまで来て、明華は己の考えが甘かったことを思い知らされた。
お金があればどうにでもなると思っていた。
だが、世の中はそんなに簡単ではなかったのだ。
十歳そこそこの子どもが大きすぎる額のお金を持っていることは、世間的に見て、とてもまずいことなのだと、初めて知った。
特に明華が家から持ってきたお金の多くは「金」や「銀」が主だった。しかし、庶民の間ではもっぱら銅銭が流通していた。金や銀は高額すぎてあまり使われていなかったのだ。
店があっても、持っているものを見せたとたん、断られてしまい使えなかった。
宿にいたっては泊めてもらえないという事態だった。
お金をどんなに出すと見せても、胡散臭そうな目で見られ、ある宿では危うく役所まで連れて行かれそうになった。
そんなことになったら、あっという間に身元が割れてしまうだろう。
あの家に戻ることは、今のままではできない。
明華は捕まれた腕を振り切ってその場から逃げ出してことなきを得た。
それ以来、宿に泊まることはあきらめた。
金や銀では買い物すら満足にできないことを知り、わずかな銅銭で干し肉などの食べ物を買い、食いつないだ。夜は持ってきた厚手の服を羽織って大きな木の下で寝るしかなかった。
(こんなのってない……)
今まで上等の絹の寝床で眠っていた明華にとって、それは屈辱的なことでさえあった。
だが、すべては仙人に会うまでの辛抱だ。
そう言い聞かせて明華は東へ東へと足を進めた。
幾つかの村を通り過ぎたが、仙人の話はやはり不確かで、確たる場所を示す情報は何も得られなかった。
ただ、どこで聞いても
「日が昇る方に」
ということだけは変わらぬものだった。
(お願い……。わたしは……)
どうしても仙人に会わねばならない。
この状況から抜け出すためにも……。
(わたしは会いたいの)
家を飛び出してから十数日目の夜。
あの時は満月だった月も、すっかり姿を変えてしまい、あいにく今晩は朔の日だった。
明華は湖のほとりで一晩を明かすことにした。
近くの村までは数里ばかり離れており、あたりには人っ子一人いなかった。
前日までは月が出ていたのと、比較的人家のそばにいたからだろうか、明華はそれまで夜の闇を、負の思いを以って感じたことはなかった。
だが、この日は何も灯りが周りにはなかった。
ホウ、ホウと梟の鳴き声がとても不気味に響き渡る。
風が吹くとざわりとゆれる木々。
何かが今にも襲いかかってきそうな雰囲気だった。
明華はぶるりと震えると、耳を押さえて大きな綿織物を頭からかぶった。
せめて人家がある場所にとどまっていればよかった、と己の行動を悔いた。
だが、近くの村までは歩いて戻るのも恐ろしかった。
今晩だけ我慢すればと、明華はがたがたと震えながらもその場から動くことはしなかった。
そうするうちにいつしかうとうととし、気づけば眠りに落ちていた。
しかし、夜半、ふと明華は目を覚ました。
一瞬遠くから楽器の音色が聞こえてくるような気がした。
立ち上がってあたりを見回したが、人の気配はない。それどころか灯りすら見えない。
気のせいかと再び腰を下ろそうとした明華の耳に、先ほどよりはっきりと楽器の音が聞こえてきた。
明華はその音に惹かれるように歩き出した。
風に乗って、近くに遠くに音色は聞こえる。
この音はどこから聞こえてくるのだろう? どんな人が弾いているのだろう?
明華はふらりと音に導かれるかのように足を進める。
いつしか気づくとあたりは竹林になっていた。さきほどまでは、竹など一本もないような広葉樹の生い茂る場所にいたはずなのに。
(いつの間に……?)
ざわざわと笹の葉が揺れる。
ホウ、ホウと梟の鳴き声があたりから聞こえてきた。
その声がやけに耳につく。
そういえば、世の中には梟のような妖もいるのだと、聞いたことがある。
一本の足と、猪の尾を持つその妖は山に普段は住んでいるが、時折人々の下へと降りてくるのだと。すると、疫病が流行るのだと――。中には人を襲うものもいるという。
(まさか……)
明華は知らず、歩みを速める。
ここから早く抜け出したくなった。
半分泣きそうになりながらも、明華は確実に楽器の音のもとへと近づいていった。
音色がはっきりと聞こえてくるようになったと感じたそのとき、明華は前方で揺れる小さな明かりを見つけた。
(人がいる!?)
思わず走り出した。
明かりを目指して最後の力を振り絞り、駆ける。
やがてその明かりが、一軒の家のものであるとはっきりとわかったとき、明華は一気に気が抜けるのを感じた。
もはや、両足は鉛のように重かった。
だが、その足を気力だけで一歩一歩前へと進める。
(助けて!)
門の前に来た明華は、声ならぬ言葉を心の中で叫んだ。
それとほぼ同時に門が開いた。
(助け……て…)
赤い髪が視界を過ぎる。が、明華はそのまま深い意識の底へと落ちていった。
「おい、嬢ちゃん」
「いたあい」
ぺしぺしと頬を叩かれ、明華は意識を取り戻した。
「!」
続いて、視界に飛び込んできた男の姿に、頭が真っ白になった。
(誰っ!?)
会ったことも見たこともない男の腕の中に抱えられている自分に気付き、動揺する。
「ぎゃーっ!」
気付いた瞬間、明華は腹の底から悲鳴を上げていた。
「なにごとですか!?」
ばたんと勢いよく戸が開いて、もう一人中から飛び出てきた。
その人は明華を見ると、顔をしかめた。
「何をしたんです、学然」
「――何もしてねえ」
「何もしなかったら、こんな悲鳴を出されるわけないでしょう」
「おまえな……」
おい、と赤髪の男は明華の顔を覗き込む。
「俺は何もしていない。な?」
促されて、思わず頷いてしまった。
「そういうのを脅しというのではなかったでしょうか」
「――あのな……」
後から出てきた青年は戸を開け放った。
「とにかく、中に入りませんか。身体が冷えるといけませんから」
「はいよ」
赤髪の青年は、明華を抱えたまま立ち上がった。
「お、おろして!」
ばたばたと両足をばたつかせるが、青年は明華を抱いたままかまわずに戸の中へと入っていく。そうして、屋内へ入ると、明華を椅子の上に下ろした。
「捕って食いやしないよ」
「そう見られても文句は言えませんよ」
茶器を持って、先ほどの青年が現れた。
「とりあえず、お茶でもいかがですか?」
青年は優雅な仕草で茶を入れ、明華の前においてくれた。
出されたお茶で喉を潤すと、少しだけ心が落ち着いた。
「もう、大丈夫ですか?」
こくりと頷く。
「ごめんなさい」
とりあえず、まずは謝っておくことにした。
少なくとも、そうすることが得策のような気がした。ここは家を出て以来、ようやく人家の中に入れたのだから。
住人の機嫌を損ねて追い出されたら、それこそたまらない。
「こちらも召し上がりますか?」
大きな饅頭が二つ出された。ずいぶんと不恰好な形をした饅頭だった。本当は丸い形に作りたかったのだろうが、いびつな形になってしまっている。しかも、中身の餡がところどころから飛び出してしまっていた。
「残念ながら冷えてしまってはいますが、おなかを満たすことはできるかと思いますよ」
「ありがとう……」
冷えている云々より、形のいびつさが気になった明華だったが、そのことはあえて口にはせず、ありがたく饅頭をもらうことにした。
穏やかな笑みを向けられ、明華は顔が赤らむ。
先ほどは暗かったためはあまりわからなかったが、こうして灯りの下で見た青年を、明華は綺麗な人だと思った。
男性に対してこのような表現が適切かどうかはわからなかったが、一瞬女性かと見紛うほどの柔和な顔つきをしていた。
先ほどまで目にしていたような闇のような黒髪も美しく、滝糸のようにまっすぐで艶も見事だった。
彼は明華の真向かいに腰をおろした。
「私は雲隠。そしてこちらは学然。先ほどは脅かしてしまったようですみません」
「おい、雲隠。俺はなあ」
「学然」
反論は許さぬ、といったようすの雲隠に、「学然」と紹介された赤髪の青年はふうと小さく息を吐いた。
「すまねえな、嬢ちゃん」
明華は頭を横に振った。
勝手に大声を出してしまったのは自分だ。驚いたとはいえ、あのような悲鳴を上げるとは。
「ごめんなさい」と小声で明華は謝った。
学然は雲隠とは正反対のような印象を受けた。
物静かな雲隠とは異なり、とても活動的なようすに見えた。
真っ赤な髪は、よく見れば前髪に一箇所だけ銀色に染めている箇所があった。その髪の毛を後頭部でひとつにまとめ上げている。
目つきはよく言えば鋭い。だが言葉を発せずに、黙ったままでいれば、おそらくは「目つきが悪い」とも言われかねないかもしれない。
しかし、気さくに話しかけてくる学然は、とても悪い人には見えなかった。どちらかというと、雲隠よりは話しやすそうにさえ思えた。
「で、嬢ちゃんの名は?」
雲隠の隣に並んで腰を下ろした学然は、お茶をぐいと飲むと明華に訊ねた。
「明華」
「――なぜここに?」
明華は、この質問にはっとなると、二人の顔を見た。
(もしかしたら知っているかもしれない!)
少なくとも、明華よりは詳しい情報を知っているかもしれない。
「願いを叶えてくれるっていう仙人さまを知ってる?」
「――願いを叶えてもらいにきたのですか?」
ええ、と大きく頷いた。
「そう…ですか」
雲隠の顔が曇った。
自分は何かいけないことを言ったのだろうかと、明華は不安になった。
ウワサでちらりと聞いただけのこと。人を不快にさせるようなものだったのだろうか。
「どうしても、なのですか?」
「どうしても会いたいの。会ってわたしの願いを叶えてもらわないと、わたし、困るの」
「会っても、願いが叶うとは限らないのではないですか?」
「そんなこと、会ってみなくちゃわからないわ」
真剣な明華の眼差しに、雲隠は小さく息をついた。
明華の考えが変わらぬことを察したのか、雲隠は決心したように、口を開いた。
「では願いを聞きましょう」
明華は、彼が言っていることの意味がすぐにはわからなかった。
なぜ雲隠に自分の願いを教えなくてはいけない?
きょとんとしている明華の姿を見て、学然がいたずらっぽそうに笑った。
「嬢ちゃんの尋ね人は目の前にいるぞ」
学然の言葉と、先ほどの雲隠の言葉が、ここでようやくつながった。
「えーっ!?」
学然にあげたときに劣らないほどの大きな奇声を、明華は発する。
「あなたがウワサの仙人さま?」
信じられなかった。
「だって、仙人さまっておじいさんなんじゃないの?」
仙人といえば、年をとったおじいさんが定番だと信じていた。
だが、目の前の彼はとても若く、多く見積もっても二十台半ばにしか見えない。
明華の頭の中では、書物に描かれているような仙人の姿しかなかった。
長くて真白なあごひげ。少しばかり曲がった背筋。そして好々爺のような笑み。そんな姿をしているものとばかり思っていた。
「残念ながら……」
何故かとても申し訳なさそうに雲隠は言った。
「私はこれでも仙人なのです」
「あなたも?」
学然を見やる。
まさかこんな真っ赤な髪をして、性格も軽そうな感じの男まで仙人なのではないかと思うと、世の中間違っているとしか思えない。
「いや、俺は違うな。仙人じゃないなあ」
学然は鼻の頭をかいた。
それを聞いて少しばかり明華は安堵する。
「じゃ、なんなの?」
「――こいつの…しもべ?」
「――学然」
雲隠に睨まれ、学然は肩をすくませた。
「ま、ダチってところかな。こいつ、結構危なかったしいやつだからな。ほうっておけないんだ」
深くは気にするな、と学然はからからと笑った。
雲隠は身体の向きを正すと、明華の瞳をじっと見つめた。
「――それで、あなたの願いは何ですか?」
明華は雲隠の瞳を見つめ返すと、しっかりとした口調で答えた。
「幸せになりたいの」
「――…」
「わたしは幸せになりたいの。あなたがあの仙人さまなら、わたしの願いを叶えてくれるのでしょう?」
「あなたは今、幸せではないのですか」
明華は大きく頷いた。
もう痛むはずのない、父にぶたれた左頬に知らず触れていた。
「わたしはいらない子だから……」」
両親に必要とされたい。そうすれば、自分は今よりずっと幸せになれるに違いない。
雲隠はちらりと学然を見やった。
学然は肩をすくめると、小さく頷いた。
それを見ると、雲隠は立ち上がり、座っていた椅子の後方にある立派な木箱から、一つの封書を取り出してきた。
「わかりました。あなたの願い、叶えましょう。ただし…」
「ただってわけないわよね」
「ええ。それ相応の代償をいただくことになります」
「いいわよ。いくら?」
明華は懐から布袋を出すと、机の上に無造作に置いた。
じゃらりと金属の音がした。
家を出るとき、拝借してきた金や銀だ。
今までの旅ではまったく役立たなかったものだったが、ようやくここで役立つのだと、明華は少しばかり嬉しくなった。
明華は普段、お金を手にする必要がほとんどなかったから、実際にこの袋の中身がいかほどの価値があるものかは知らない。
だが、町でもそれなりに裕福な暮らしをしていた自分だ。その家から金庫に入っていた金銀の半分以上を持ってきたのだから、それなりの額はあるはずだ。
このようなあばら家に住む者のとってみれば、十分過ぎる額に違いない。
だが、雲隠はそれを見ると、愁眉を寄せた。
明華はそれを、額が足りないという意味ととった。願いを叶えてもらうには、少なすぎる額だったのか。こんなことなら金庫入っていたものをすべて持ってくればよかったと後悔した。
「――足りない分はあとで必ず持ってくるわ。それでいいでしょ?」
しかし、雲隠はゆっくりと首を横に振ったのだ。
「なぜ? 確かに足りないかもしれないけど、あとで持ってくると言っているんだからいいじゃない!」
「――お金ではありません」
雲隠の言葉に、明華は目をぱちくりさせた。
「お金じゃない?」
雲隠は袋を明華の手元に押し返す。
「それに、それはあなたのものではない。だから、あなたの願いの代償にはなりません」
「なんで!」
「嬢ちゃん、自分の願いごとを叶えてもらうのに、他人のもので叶えてもらおうってのは、虫が良すぎるってもんだ」
そんなことを言われても、自分に差し出せるものは何もない。明華は仕事をしてお金を稼ぐこともしたことがないし、機織などの何か特別な技能を持っているわけでもない。
いつも、望んだものは何でも手に入ったので、技能を身につける必要もなかったのだ。
「大丈夫ですよ。何も特別なものをいただこうというわけではありません」
「じゃあ、何をあげればいいの?」
「あなたの一番大切なものです」
「大切な…もの?」
明華はうつむいた。
「大切なもの」といわれても、それが何なのか、今の明華にはまったくわからなかった。
ものにあまり執着しない性格だったこともあり、思いつくものは何もなかった。
「わたし、わからないわ。大切なものって言われても」
そう言葉にして、明華は改めて自分が不幸せなのだと感じた。
世の中の人は、明華のことをとても幸せなのだと言う。
この世には、食べることさえままならぬ者もいるのだというが、食べるものにも、着るものにも不自由しなかった。
上等な絹の服を身にまとい、立派な家にさえ住んでいた。
家に戻れば、多くの下女たちが明華が不自由しないよう、世話をしてくれる。
普通の人であれば、絶対に得ることができない多くのものを、明華は持っていた。
だが、明華にとってはそれは当たり前のことであったためか、それが幸せなのだとは感じたことがなかった。
幸せはそんなことではない。
自分が成長するにつれて、どこかよそよそしくなっていく両親を見るたびに、明華は孤独感を募らせていくようになった。
弟が生まれてからは、自分に向けられるべき愛情までもが、すべて弟に向けられているような気がして、明華は自分の心が捻じ曲がっていくのを感じた。
「わたし、幸せになりたいの……お願い」
「大切なもの」はわからない。だから、求められても差し出すことができない。それでも願いはどうしても叶えてもらいたい。
わがままだとは思っていても、明華は必死で雲隠に訴えかけた。
雲隠は一度ゆっくりと双眸を閉じると、折りたたんであった紙を広げた。
真っ白で何も書かれていない紙を広げると、雲隠は口を開いた。
「大丈夫。大切なものはわからなくても、願いが叶えばそれと引き換えに自然とあなたのもとから去りますから。あなたはそれを失っても気づくことはありません。もちろん、痛みを感じることもありません」
笑いかける雲隠の言葉に、明華は思わず頷いてしまっていた。
「ああ、それでは取引成立ですね」
雲隠が差し出した紙に、うっすらと文字が浮かんだかと思うと、それはやがてはっきりと墨で書かれたような文字となった。
美しく流れるような文字を目で追うと、そこには明華が願いと引き換えに、彼女の大切なものを雲隠に差し出すことに同意するということが書かれていた。いわゆる誓約書だ。
「それでは、この紙に触れていただけますか?」
差し出された紙に明華の指先が触れると同時に、すう、と水に溶けるように、紙は空気中に消えていった。
「これであなたの願いは叶います。近いうちに必ず……」
「本当? 本当に叶うの?」
わたしは幸せになれるの?と明華は問うた。
雲隠はそれを肯定も否定もせずに、ただ笑みを浮かべた。