第1章
――強い願いを持つ者だけが行き着ける場所。
そこには不老不死の仙人が住んでいるという。
彼は「大切なもの」と引き換えに、1つだけ願いをかなえてくれる。
もしそれが真実だとしたら、あなたは――何を願う?
日が暮れて、路地裏には暗闇が迫ってきていた。
明華は頭の両脇できれいに結っていた髪を解くと、わざとぼさぼさになるように手ぐしですいた。そうして、泥を少しばかり顔に塗る。少しでもみすぼらしく見えるようにするために。
けれど、これがどれほど無意味なことかは、今年十になったばかりの明華でも十分にわかっていた。
こんなことをしたって見る者が見れば、明華だということはすぐにわかってしまうだろう。
一緒にいる者たちの中では、どう見たって浮いているのだ、明華は。
つやのある美しい黒髪。真白なきれいな肌。
これだけでも、明華が恵まれた環境にいることはわかる。つやのある髪は手入れが行き届いている証拠。真白な肌は普段から外にでて仕事をせずともよい身分である証拠。
明華が着ている服も上質の絹でできたものだった。春に咲く桃の花ような色をした服には、金の糸で見事な刺繍も施されている。
それだけで、彼女が誰かは、この町に住むものならば、すぐにわかるだろう。
このような格好をしていられるのは、よほどの金持ちでなければできぬのだから。そして、この町でそれができるのは、限られた者だけだ。
役所に勤める上級の官吏。あるいは町でも有数の商家の者。
明華の場合は後者だった。
蘭家といえば、知らぬ者などいないほどだ。
そんな家の娘が何をしているのかと言うと――
「いいな、今日はあそこの通りを狙う。行くぞ」
「わかった」
数名の少年たちがばらばらと動き出した。
彼らは店が軒を連ねる通りへと数名単位で散っていった。
「おれたちも行くぞ」
一人の少年に促されて、明華は二人の少年と一緒に一軒の食料品を売る店の前へと歩み寄っていった。
「いいな、おれが店のオヤジの気を引き付けておくから、お前ら、その間にきちんと盗めよ」
明華より若干年上の十二、三に見える少年が、前を見据えたまま明華ともう一人の少年に告げた。こくりと二人は頷く。
彼らの身なりは、明華に比べればずっと粗末なものだった。
少年たちがどのような家の者なのか、明華は知らなかった。それどころか名前すら知らない。だが、町で彼らが盗みを働いている現場に出くわしてからは、彼らに頼み込んでこうして時折盗みに加えてもらっていた。
彼らはその日を生きるために盗みを行っている、しかし、明華は金に困っているわけでも、その日食べるものに事欠いているわけでもなかった。
明華は通りの先をじっと見つめた。
この通りのずっと先に明華の家はある。
立派な壁に囲まれ、美しい装飾が施された門が自慢の建物。十以上の部屋があり、どの部屋にも見事な調度品が備え付けられている。誰もが羨むほどの裕福な家。
(でも、わたしは……)
「おい」
背をたたかれてはっとなる。
「大丈夫か、姉ちゃん?」
「――なんでもない」
愛想のない明華の答えに、どう見ても明華より年下の少年は、こばかにしたように小さくフンと鼻で笑った。
「しくじるんじゃないぞ」
明華はそれには答えずに、標的としている店へと近づいていった。
「なー、おっさん」
年長の少年が店の主人に話しかけた。
「なんだ坊主。何を買いにきた?」
下っ腹が大きく出た主人は、他の客の相手をしながら少年をちらりと見やる。
ちょうど夕暮れ時ということもあり、店に並ぶ食料品のうち、日持ちがしないようなものは、若干値が下げられる。それを狙って買いに来る者たちも多く、主人はその対応に忙しそうだった。
「あのさ、おれ、昨日このあたりで財布を落としたんだよね。見なかった?」
「財布? どんなのだ」
「青地の袋なんだけどな」
ふうん、と主人は首をかしげる。
「見た覚えがないなあ。いくら入ってたんだ」
「ちょっと額が大きくてね。金で…」
少年は手を右手を広げる。庶民が数ヶ月は生きていけるだけの額だ。
「そんなにか?」
胡散臭そうに少年を見やる。少年の格好はとてもではないが、それだけの額を手にできるような者には見えなかったのだ。
「届け物でね…。見つからないと、おれ……」
「おい、泣くな、泣くな」
店の主人はおろか、その場にいた客たちの注目も、突然泣き出したおとりの少年に向けられている。
それを見ると、幼い少年は行動に移した。
すっと軒先に並べられたたくさんの桃の中から二つを手にすると、そのうちひとつだけをするり袖の中に隠す。
あまりにもあっという間のできごとで、誰も気づかない。少年は何ごとのなかったかのように桃をもとあった場所にゆっくりと置く。
呆れてしまうほどの、あまりにも鮮やかな手腕。
明華も少年と同様の方法で、いくつかの菓子を袖の中に隠した。
やはり、誰も気づかない。
隣では少年が次から次へと袖の中に隠していく。
なんて簡単なのだろう。そして、なんて愚かなのだろう。店の主人も客も。こんな単純な方法に騙されてしまうなんて。
(わたしも愚かだけど)
心の中に闇が広がっていく。
明華はちらりと主人を見ると、当初から計画していたことを実行に移すことにした。
なんと、隠し持っていた菓子を地面にぶちまけたのだ。
あたりの空気が一瞬凍りついたのがわかった。すべての客の視線が自分に注がれているのがわかる。
「?」
店の主人は、ここにきて明華の顔に気づき、あっと小さな叫び声をあげた。
「逃げろ!」
ほぼ同時に少年二人がいっせいに走り出す。明華も少年たちの後から走り出した。
「待て!」
店の主人が追ってくる。
だが、普段から走ることになど慣れていない明華は、あっという間に少年たちにおいていかれた。諦めたように明華は走る速度を落とす。だが、彼らは自分たちが逃げることで精一杯で明華のことなど気づきもしない。
彼らの姿が見えなくなった頃、ようやく店の主人がおいつき、明華の腕をつかんだ。
「明華嬢ちゃん、あなたはいったい何をしたいんです」
「――…」
ぜえぜえと息を切らし、汗をぬぐいながら主人は強い口調で明華を責めた。だが、明華は黙ったまま何も答えなかった。
「とにかく一緒に来てもらいますよ」
抵抗もせずに、明華は腕を引かれるまま、主人に従う。
「ったく、うちで盗みなんかしなくても、ご両親に頼めば手に入らないものなんてないでしょうに」
店についた明華は、奥にあるいすに腰掛けさせられた。主人はぶつぶつと文句をいいつつも、明華を丁重に扱った。
いつもこうして盗みをはたらいては捕まり、そのたびに店の主人から愚痴を言われる。その繰り返しだった。が、明華は決して盗みをやめようとはしなかった。
「で、仲間の名前を教えていただけますかね?」
「知らないわ」
明華の言葉に、店の主人は眉をひそめる。
「知らない、ってこたあないでしょう。仲間なんじゃ?」
「仲間なんかじゃないわよ。盗みをするっていうから加えてもらっただけだもの」
主人は怪訝そうに問うた。
「前は別のところでしていたそうじゃないですか。そんときとは仲間は違うんで?」
「だと思うわよ。その前に仲間じゃないけど」
「仲間だからってかばってるんじゃないでしょうね?」
「それでわたしに何の利益があるの?」
淡々と答える明華を見て、本当に彼女が何も知らないと考えを改めたようで、主人は呆れたように大仰に息をついた。
「とにかく、蘭家のだんな様に来ていただくまで、ここにいてもらいます」
そうして、このことはすぐに両親に知れるところとなり、半刻もしないうちに父親がすっとんでやってきた。
父は明華の汚れた姿を見ると、言葉を失ったが、すぐに気を取り直すと、店の主人の前で頭を下げた。
「困るんですよ。面白半分でやられちゃ。明華嬢ちゃんにとっては遊びだったとしても、こちらは生活がかかっているんでね」
店の主人の言葉に、父は侘びだと言って懐から小さな布袋を取り出した。
主人はそれを見て、困ったように顔をしかめた。
「そんなことしないでください。あとで周りから何を言われるかわかったもんじゃない」
主人は袋の中身が何かを察して、袋を父に押し返した。
「金で解決しようなんて思わないでください。そういう問題じゃない」
「本当に申し訳ない」
再度父は深く頭を下げるのを見て、今日何度目かのため息を主人はついた。
「あんたにそこまで言われたら、こっちは何も言えないじゃないか。――今後は気をつけてくださいよ」
本当に、頼みます、と再度主人は念を押したのであった。
「部屋で反省していなさい」
家に戻るなり、明華は自室に追いやられた。
明華は黙って父を睨む。
「まったく、なぜおまえはそうなんだ」
不機嫌そうに大きく息を吐く父。そんな父を、背後で心配そうに見ている母。そう、「見ている」だけ。決して母は父に逆らうようなことはしない。
――明華に味方してくれることはない……。
明華の中でどろどろとした気持ちが広がっていった。
「なぜそうやって私や母さんに恥をかかせるような真似をするんだ。毎度、毎度。これで一体何度目だと思っている」
また比べられる――明華は思った。
また弟と比較される。
優秀な弟と。
不出来な自分はどんなに頑張ったって弟のようにはできない。
どんなに努力したって、弟には敵わない。弟は常に明華より上を行く。
「まったく少しはあの子を見習ったらどうだ。今日だって……」
明華の中で、何かが切れる音がした。
「わたしなんて、わたしなんてあのコに比べてどうせできない娘よ! わたしなんていらないんでしょ!」
思わず叫ぶ。
両親は凍りついたようにそ、の場から動かない。
だが、やがて父がゆっくりと明華に近づいてきたかと思うと、左手をあげた。
鋭い痛みが明華の左頬に走った。
「あなた!」
我に返った母が父の左腕を掴む。
明華は唖然として、その場に佇んだ。
「――おまえには何も言っても無駄なんだな。――わかった」
父は低く告げた。
「あなた!」
去っていく父の背中に、母が叫んだ。
「明華、さあ、お父様に謝って。ね?」
「――放っておいて」
差し出した母の手をはたいた。
「明華…」
「わたしのことなんてどうでもいいって思っているのに、優しくしないで! 放っておいて!」
「明華、聞いて!」
「出ていって!」
母も部屋から追い出すと、明華は扉をバタンと乱暴に閉じた。
そのまま明かりもつけずに、寝台に腰掛けると、窓から見える月を仰いだ。
雲ひとつない空に、浮かぶ満月。
見ているだけで、寂しさを覚える。
こんなにも明るい光を放っているのに。
自分はなぜここにいるのだろう。
感じずにはいられない孤独感。
やがて、母屋から、両親と弟の笑い声が聞こえてきた。
その中にいられない自分は何なのだろう。
部屋へと漏れ入る月の光は、とても冷たい。
ますます自分が孤独であることを思い知らされる。
「月なんてきらいよ」
小さくつぶやく。
こんな世界なんてきらいよ。
こんな現実なんてきらいよ。
こんな家族なんてきらいよ。
――こんな自分なんて…きらいよ……。
その夜、明華はこっそりと家を抜け出すことを決意した。
前から考えてはいたことだったが、今夜それを実行に移すときがきたのだと思った。
明華の目的はただ一つ。
仙人に会うこと――。
この町を出て日が昇る方向に進んだ場所に住むという仙人の話を耳にしたのは、いつだったか。
噂と笑うには、あまりにも真実味を帯びた内容で、町の誰もがこの話を信じていた。
強い願いを持った者だけがたどり着くことができる場所がある。そこに住まうという仙人は何でも願いを叶えてくれる。実際に、王都には仙人に願いを叶えてもらったという人もいるのだと。
それが嘘か真かはわからなかったが、明華はその仙人に会うべきだと考えた。
今のこの状態から抜け出すためにはそれしかないと思った。
話に聞く場所がどこなのかは、はっきりとは知らない。
だが、このような話が流れるということは、過去に行ったことがある人がいる、ということに違いない。
ならば、噂通り日が昇る方向に進めばたどり着けるはずだ。
みなが寝静まったころ、明華は普段は立ち入ることを禁じられている部屋へと、こっそり忍び込んだ。
そうして、金庫に隠されていた金のうち、半分ばかりをそっと小さな袋に詰め込む。
(これだけあれば……)
明華はきゅっと下唇をかみ締めた。
夜明け前には荷物を詰めた袋を背負い、裏口から抜け出した。
そのまま 町と外とを隔てる門の傍らまで来ると、物陰に隠れてじっと夜が明けるのを待った。
本当だったら一刻も早く町から出たかった。いつ家の者が気づくとも知れない。
見つかったら、それこそ叱られるだけではすまないだろう。
その前に、この町を出なければ。
けれど、高くて厚い城壁がめぐらされているこの町を出るためには、守衛がいる門を通り抜けなければならぬ。
こんな夜も明けぬときに門を開けてくれることは不可能に近かったし、万が一開けてもらえたとしても、守衛に余計な印象を残すことになってしまうだろう。
それではだめなのだ。
自分がどこへ姿を消したのか決して悟られないためにも、明華はこっそりとこの町を出たかった。
夜が明ければ、日没までに町に入ることができなかった者、金がなく野宿をするしかなく、町の外で過ごさざるを得なかった者たちが、一斉に町の中へ入ってくる。
門は大きく開放され、日没まで閉じられることはない。
町の中を出入りするのに、旅券を検められることはあるが、万が一不審に思われて旅券を出すように言われても、町の者だとわかればそれほど執拗に問い尋ねられることもないだろう。
一日のうちで最も人が門に殺到する時間ならば、旅券の検査は甘くなる。そうでなくとも、明華が住むこの悠春は商業都市として栄えているため、この時間帯の商人の出入りは激しい。
町に住む商人たちは隣の町へ向けて出発をする。外で一晩を過ごした商人たちは一斉に町の中へ入ってくる。
その中に紛れればすんなり外へ出ることは可能だろう。
(早く、早く……)
願うように空を見上げる。
家を出るときは星がちらほらと見えていた空も、今では美しい朝焼けに染まっている。それはまるで真白な布の上に橙色の塗料をさっと薄く敷いたようだった。
人の気配を感じで物陰から顔を出すと、門の前にちらほらと人々が集まりだしていた。 大きな荷車を引いている者、馬車に乗っている者、馬に乗っている者、明華と同じように小さな袋だけを背負っている者。みな、これから次の町を目指して行くのだろう。
人々が集まりだしたということは、門の開く時間が迫ってきている証だ。
だが、明華は物陰から出ようとはしなかった。
今、下手に姿を現せば、知っている者に出会わないとは限らない。
そうでなくても、明華はこの町で比較的顔が知られているほうだ。蘭家の娘として。
明華はじっと門が開くのを待った。
それから半時ほどした後。
ようやく門が開く。
大きな木の門は二人の守衛によって、ゆっくりと開かれた。
すでに門の外には数十人の者が待っていた。
門が開けられると同時に、中からそして外から人々が動き出す。
明華は頃合を見計らって、外へと出て行く人々の群れの中に紛れこんだ。
守衛の横をうつむき加減に足早に通り抜け、門がずっと後方になったとき、明華はようやく歩みを緩めた。
どっと疲れが押し寄せる。
だが、それと同時に今まで感じたことがない開放感が身体いっぱいに広がっていった。
明華は生まれてこの方、悠春から出たことがなかった。出る必要がなかった、というほうが正しいかもしれない。
父は商売の関係で、他の町へ行くこともあったが、それは明華には関係のないことだった。
城壁に囲まれた町が、明華にとって世界のすべてだったのだ。
(これで仙人さまに会いにいけるんだわ!)
明華は大きく息を吸った。
この道の先に新しい世界が待っている。自分の願った世界が。
明華は期待に胸を躍らせて、足取りも軽く道を歩み始めたのだった。