そうだ、熱海に行こう
明日から、三連休。
居間のこたつで、湯呑みを片手にカレンダーを眺める。向かいでは、母がみかんを剥きながらテレビを見ていた。
『続いては熱海からです。早咲きで知られる熱海桜が、今年も咲き始めました』
画面いっぱいに、青空と、濃いピンク色の花。雪かきの心配をする季節に、桜。
「そうだ、熱海に行こう」
「はあ!?」
母の手から、みかんの房がころりと転がった。いや、そんなに驚くことだろうか。
「だって、ほら。今ニュースでやってるじゃない。一月なのに桜が咲いてるって」
「……一人で行くの!?」
「……? 連れがいるの?」
沈黙。
なぜだろう。どうにも話が噛み合っていない。
「……もう、気をつけて行ってきなさいよ」
長い溜め息のあとで、母がそう言った。
「はーい」
善は急げ。スマホとノートパソコンを引っ張り出し、予約サイトを立ち上げ、人数に「1」と打つ。連休前夜なのに、駅から少し歩く古い宿が一室だけ空いていた。ぽん。五分もかからなかった。
「あんた、普段はぽやぽやしてるのに、なんでこういう時だけ行動派なのよ……」
「ええ? そう?」
「まったく。向こうに着いたら、土地神様へのお参り忘れないでね」
「はーい」
新幹線の時間を確認する。観光地はほとんど調べていないが、食事だけは別だ。熱海のグルメ、アワビ串、ビーフシチュー、金目鯛。お前たちは、絶対食べる。
旅における最重要事項である。
*
翌朝。始発の新幹線に揺られ、東京駅で電車に乗り換え、車窓の景色が少しずつ明るくなっていくのを眺めているうちに、熱海駅へ着いた。
改札を抜けた途端、冬の澄んだ空気と、どこか春めいた陽気が一緒になって出迎えてくれる。コートの前を開けても寒くない。
荷物を提げたまま、駅前のバス乗り場へ向かう。宿に入れるのは午後からだ。それなら先に、母の言いつけを果たしておこう。
*
バスに乗り、伊豆山神社へ向かった。
長い石段を、息を整えながら登っていく。杉の木立の間を抜ける風は冷たく、けれど、登るうちに身体はほかほかしてきた。
境内に足を踏み入れ、手水舎で手を清める。そこには、紅白の龍が鎮座していた。
……鎮座というより、こちらをじっと見つめている。水を湛えた鉢の縁に絡みつくようにして、二対の瞳が、じいっと私を捉えていた。
柄杓を持つ手が、ちょっとやりづらい。
「……お邪魔します」
一応そう断って、手と口を清める。龍たちは何も言わず、ただ視線だけが、背中までついてきた。
気にしないことにして、本殿へ向かう。
賽銭箱に小銭を落とし、二礼二拍手。手を合わせて、目を閉じる。
改めまして、三日間よろしくお願いします。
一礼して顔を上げると、冷たい風が、ざあっと木々を鳴らして通り過ぎていった。
うん、これでよし。参拝を終え、石段のほうへ戻ろうと、手水舎の前を通りかかったときだった。
「ぬし」
呼び止められた。
声のしたほうを見ると、紅白の龍が、鉢の縁から身を乗り出している。さっきから、ずっと待っていたような顔だ。
「ただ者ではないな。我らが社の巫女にならぬか」
「あ、そういうのいいです」
「なぁ!?」
「では、失礼しますね」
軽く会釈をして、石段へ向かう。
背後から何やら声が聞こえた気もするが、気のせいだろう。土地神様へのご挨拶は済んだ。今日はきっと良い一日になる。
*
バスで熱海駅前まで戻ってきたのは、ちょうど昼時だった。
駅前の商店街から、香ばしい匂いが流れてくる。炭火で焼かれる、磯の匂い。
「……アワビ串、見つけたぞ!一本くださいな!」
「まいど! 熱いから気をつけてな」
威勢のいい声とともに、焼き上がったばかりの串を受け取る。木串を通じて、指先にまで出来立ての熱が伝わってきた。勢いよく頬張ると、こりこりとした歯ごたえの奥から、じゅわっと海の旨味が溢れてくる。
「おいしい……」
近隣の店のガラスケースには、とろりと艶めく熱海プリンが並んでいた。気づいたときには、これも手の中にあった。
アワビ串の次に、プリン。食べ合わせとしてどうなのか、という疑問が一瞬だけ頭をよぎる。
でも、どうせ胃の中で合流するのだから、同じことだ。
衝動買いの成果をぺろりと平らげ、手を拭いた。
「さて、と」
駅前をぐるりと見回す。宿の場所は、だいたい覚えている。たぶん、あっちの方だ。
……いや、そもそも駅から宿までの道順をきちんと確認していただろうか。思い返してみると、記憶の中の地図は、駅と宿の名前だけが書かれた白い紙のようなものだった。
首を傾げて立ち尽くしていると、足元の広場をちょこちょこと歩く小さな影が目に入った。
雀だ。
ふっくらと丸い体を揺らし、石畳の隙間をつついている。人通りの多い駅前だというのに、少しも臆する様子がない。
「ねえ、そこの雀さん」
「ん?」
雀がこちらを振り向いた。つぶらな目が、まっすぐに私を見ている。
「〇〇宿って、どっちだと思う?」
「こっちだよ!」
雀はちょんちょんと地面を跳ね、ある方向を示した。短い尾羽が、案内の矢印のように揺れる。
「あ、そっちね。ありがとー」
「気をつけてねー!」
「はーい」
私は雀に手を振り、教えられた方向へ歩き出した。
うん。熱海、なかなか良いところじゃないか。鼻歌交じりに、初めて訪れた街の坂道を下っていく。
宿へ向かう途中、目の前に桜並木が現れた。
濃いピンク色の花が、青空を背景に枝いっぱいに咲いている。ソメイヨシノより大ぶりで、色もはっきりしているが、間違いなく桜だ。日差しを透かした花びらの縁が、金色に縁取られている。
「へえ、綺麗だなぁ」
足を止めて眺め、写真を何枚か撮った。新潟の雪景色が、遠い国のようだ。
さて、宿まではもう少しだろうか。そう思って顔を上げたとき、道端に佇む人影が目に入った。
うっすらとした輪郭。どこか透けて見える身体。
……地元民な幽霊さんなら、このあたりのことも知っているかもしれない。
「あ、そこの幽霊さん」
「……はい?」
声をかけられるとは思っていなかったのだろう。幽霊さんは、驚いたようにこちらを振り返った。落ち着いた雰囲気の、年配の紳士に見える。
「この辺りに、ビーフシチューの美味しいお店があるらしいんですけど、どこだか分かりますか?」
「……ビーフシチュー?」
「はい。せっかく熱海に来たので、美味しいものを食べたくて」
幽霊さんはしばらく私の顔を見つめていた。何かを測るような、あるいは、遠い昔を思い出すような目だった。それから、ゆっくりと道の先を指差す。
「あっちだよ。夕飯時は五時半から営業しているはずだ。……帰りは、通りの自動販売機でみかんを買ってみるといい」
「みかん? 自販機で?」
「ああ。この街の夜の名物でね。妻とよく買ったものだ」
幽霊さんは、ほんの一瞬だけ遠くを見た。足元に絡みついたイヤな感じのする黒い何かが、その視線に合わせて、ずるりと揺れた気がする。けれど私は、「夜の名物」のほうに気を取られていた。
「ビーフシチューにみかん、最高だ…!」
「……君は、私が見えるのかい?」
「え? はい」
「……そうか」
何やら感慨深げに頷く幽霊さんに、私はにっこり笑った。
「ありがとうございます!」
「ああ、楽しんでおいで」
「はーい!」
手を振って、坂道を下っていく。足取りは、自然と軽くなった。今夜の予定は完璧だ。
……あ。
私はぴたりと足を止めた。
「……まだ開いてないじゃん」
五時半から営業。今は、まだ午後二時を過ぎたところだ。危うく、店の前で三時間以上も待ちぼうけするところだった。
うん。夕飯の目処は立った。あとは宿に荷物を置いて、少し休憩しよう。せっかくの一人旅だ。時間に追われる必要もない。
*
「うーん、ここはどこだ」
坂を上がっては下り、下りてはまた上がる。断じて迷子ではない。観光をしているのだ。
間欠泉が湯柱を上げれば三回見届け、湯溜まりでゆで卵がぷかぷかしていれば食べたくなった。ビーフシチューのために、ぐっと我慢する。
細い路地の入口で、おばちゃんたちが三人、井戸端会議の真っ最中だった。
「でね、うちの旦那がさあ、また庭の柿を」
「あらやだ、まあ」
割って入るのは気が引けたが、道は聞かなければならない。
「あの、すみません。〇〇宿って、どっちでしょう」
「あらあ、観光?」
「どこから来たの? 新潟? 遠いところからまあ」
「これ持って行きなさい」
手のひらに、ニッキ飴をひとつ載せられた。口に放り込むと、甘くて少しぴりっとした香りが鼻の奥まで広がる。飴をころころ転がしながら相槌を打っているうちに、話題は柿から嫁へ、嫁から隣町の誰かへと滑っていった。旦那さんが何をしたのかは、結局最後まで分からなかった。
「あ、それで〇〇宿ね。この坂をずうっと上がって、赤いポストのところを右」
「ありがとうございます!」
「柿、食べにおいで」
坂を上がり始めた口の中で、ニッキ飴がからりと音を立てた。
宿に到着したのは、午後三時を少し回った頃だった。
案内された部屋の戸を開けると、畳の香りが鼻に届く。い草の青い匂いと、陽だまりの匂い。窓際の障子越しに、午後の光が柔らかく差し込んでいた。
「はぁ……畳、気持ちいい……」
荷物を部屋の隅に置き、靴下を脱いで、畳の上に足を伸ばす。素足に触れる目の詰まった感触が、じんわりと疲れを吸い取っていくようだった。
冬の熱海は日差しこそ暖かいものの、歩き回ればそれなりに疲れる。
「ちょっとだけ……」
そう呟いて、私はごろんと寝転がった。
背中に伝わる畳の硬さが心地よい。ふかふかの布団もいいけれど、この少し張り詰めた感触が、妙に落ち着く。遠くから聞こえる車の音と、廊下を歩く誰かの足音。それらがだんだん、水の底で聞くように遠ざかっていく。
ああ、幸せだ。
……少しだけ、休もう。
*
次に目を開けたとき、部屋の中はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
障子の白が、蜜柑色に変わっている。夕陽の帯も、いつのまにか壁の方まで伸びていた。
「……ん?」
枕元の時計を見る。
午後五時。
「……寝過ぎた」
二時間ほど眠ってしまったらしい。けれど、不思議と頭はすっきりしていて、身体の重さもすっかり抜けている。私は大きく伸びをして、ゆっくりと起き上がった。
昼間、幽霊さんに教えてもらったビーフシチューの店は、五時半から営業だと言っていた。今から出れば、ちょうど開店に間に合う。
洗面所へ行くのも億劫で、手櫛で髪をなでつけ、コートを羽織る。財布を掴んで、部屋を出た。
「よし、ビーフシチューだ」
宿の玄関を出ると、昼間の陽気が嘘のように、夕暮れの空気はひんやりしていた。坂の上から眺める街には、ぽつぽつと灯りがともり始めている。熱海で迎える、初めての夜だ。
*
教えられた道を辿ると、年季の入った洋食店が見えてきた。
暖簾の奥には、飴色に磨かれた木の扉。ガラス越しに、柔らかな灯りが滲んでいる。扉を押すと、小さなベルがからんと鳴った。
店員さんが、少し驚いたような顔でこちらを見ていた。
……顔に、何か付いているのだろうか。
案内された席に腰を下ろし、お目当てのビーフシチューを注文する。待つ間、水の入ったグラスの縁を指でなぞっていると、奥の厨房から、肉を煮込む深い香りが漂ってきた。
しばらくして運ばれてきた皿は、湯気をまとい、黒に近い濃い茶色のソースを湛えていた。
「いただきます」
スプーンですくい、一口。
「……うま」
肉は、舌で押しただけでほぐれるほど柔らかい。濃厚なソースがよく絡み、後から赤ワインのほのかな酸味が追いかけてくる。次々とスプーンを運んでいるうちに、体の内側から温まっていった。
ふと顔を上げると、店員さんがまたこちらを見ていた。
……何だろう。二十五歳くらいの女が一人で、開店と同時に老舗の洋食店へやって来たのが珍しいのだろうか。
まあ、料理が美味しければそれでいい。最後の一口まで、皿に残ったソースをパンで拭ってきれいに平らげた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです!」
会計の段になって、店員さんが、意を決したように口を開いた。
「あの……お客様、頬のところに」
「頬?」
店員さんが鏡を出してくれた。覗き込むと私の頬には細い筋のような凹凸がくっきりと付いていた。畳の跡だ。
「……ああ、だから見てたんですね」
「すいません、言い出し辛くて……」
「いえいえ。明日には消えるだろうから、大丈夫ですよ」
頬をさすりながら、店を出る。
すっかり日が暮れた熱海の街は、昼間とはまた違った顔を見せていた。
熱海の夜は早い。通りを歩いてみても、お土産屋さんのほとんどはすでにシャッターを下ろしている。昼間の賑わいが嘘のようで、街灯の下を歩く自分の足音だけが、いやに大きく響いた。
宿へ向かって歩いていると、暗い通りの先に、ぽつんと明るい光が見えた。
みかんの自動販売機だ。
「おお、みかん!」
煌々と明かりを灯した箱の中に、橙色の柑橘がずらりと並んでいる。飲み物の自販機とは、似ているようでまったく違う。その場所だけ、小さな果樹園が夜に迷い込んできたみたいだった。
「……うむ」
私は自動販売機の前で立ち止まった。
ビーフシチューを食べたばかりだが、みかんは別腹である。
「夜食だな」
小銭を取り出して購入する。冷たい夜風に頬を撫でられながら再び歩き出した。片手には、熱海の夜に手に入れたみかん。袋越しに、ほんのり爽やかな香りが立ち上ってくる。
なんとも贅沢な夜である。
*
二日目。
「ふふん!」
私は宿のロビーにあった観光マップを、卓の上いっぱいに広げ、満足げに頷いた。
昨日は宿までの道すら怪しかったが、今日は違う。朝食の間に隅々まで目を通し、行きたい場所も、乗るバスも、おおよそ頭に入った。これなら、昨日のように行き当たりばったりで迷うこともないだろう。
朝ごはんのお粥でおなかの調子も整えた。身支度もバッチリ。さあ、今日も熱海を満喫しよう。
*
向かったのは、熱海梅園。
園内に入ると、あちらこちらで梅の花が咲いていた。白、薄紅、濃い紅。枝先にほころんだ小さな花は、桜のように豪華ではないが、近づくとふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
「いい香りだなぁ」
ゆっくりと園内を歩きながら、花を眺めた。
昨日に引き続き、今日も朝から日差しが柔らかい。一月とは思えないぽかぽか陽気で、コートの前を開けると、梅の香りを含んだ風が、するりと懐に入ってくる。
空いているベンチを見つけた。
ただし、座面に黒い影が広がっている。砂を撒いたような、乾いてざらついた穢れだ。
私は慣れた手つきで、ぱっぱと手で払った。砂汚れを落とすのと同じ要領である。黒い影は、さらさらと風に流れて跡形もなく消えた。よし、座れるな。
そういえば、あの幽霊さんの足にも穢れが付いていたな。次に会った時に聞いてみるか。
「ふぅ」
花を眺める。風が枝を揺らす。小さな花びらが、ひらりと膝に落ちてくる。ひとつひとつの花は小さいのに、見入っていると、時間のほうが勝手に遠慮して、そっと通り過ぎていくようだった。
ぼへっと眺めるのが心地よい。
このままずっと、こうしていたい。そんなとりとめもない思考さえ、甘やかな空気の中に溶けて消えていく。
……ぐう、と腹の虫が鳴いた音で、我に返った。
「……あれ?」
時計を見ると、針は十二時を回っていた。
「うそ、もうお昼?」
朝一番に入園して、ベンチに座ったのが十時前。たっぷり二時間、微動だにしなかったことになる。観光マップを睨んでいた朝の気合いは、どこへ行ったのか。
まあ、いいか。
もう一度だけ背もたれに体を預けてから、立ち上がった。
*
さて、何を食べようか。
そういえば、宿を出るときに乗ったバスの運転手さんが、おすすめの海鮮丼の店を教えてくれたっけ。せっかく地元の人に聞いたのだ。これは行くしかない。
運ばれてきた丼には、艶やかな魚介が、ご飯が見えなくなるほどたっぷりと盛られていた。
「いただきます!」
一口で、魚の旨味が口いっぱいに広がる。脂の乗った大ぶりのネタはぷりっと甘く、噛むたびに新鮮な弾力が弾けた。
満足して店を出ると、初島行きの船の案内看板が目に入った。
「……初島?」
船着場で時刻表を確認すると、次の午後二時四十分の便にちょうど間に合いそうだ。
島に行ける。それなら、行ってみよう。特に深い理由はないけど、せっかく船が出ているのだから乗ってみたい。入港していた船に、一番乗りで乗り込んだ。
船が岸を離れ、熱海の街が少しずつ遠ざかっていく。潮風が頬を撫で、髪をさらう。海の上から眺める景色は、陸から見るものとはまた違っていて、斜面にひしめく建物が、まるで積み木の箱のように見えた。
三十分後、初島に到着した。
島は小さい。路地を歩き、海沿いの道に出て、潮の匂いを吸い込む。時間の流れが、本土よりほんの少しゆっくりな気がした。
帰りは午後四時四十分の便。それまでの一時間半を、島をぶらぶらして過ごした。
途中、温泉の看板が目に留まった。島の湯だ。せっかくだから、と足を向ける。
「あのー、まだ入れますか?」
「すみません、入浴の受付は、あと十分で締め切りなんです」
十分では、湯に浸かるどころではない。船に間に合わせるのも怪しい。
「……また今度にします」
湯上がりの自分をすっかり想像していたぶん、肩が落ちる。まあいい、温泉は次の機会に取っておこう。
埠頭で便を待っていると、足元にいつの間にか野良猫たちが集まっていた。
「ねえねえ、猫さんたち」
「なんだにゃ?」
「ここらへんの猫さん?」
「そうだにゃ。佐藤のおっちゃんが、いつも魚をくれるんだにゃー」
「へえ、良い人だねぇ」
「新鮮なものは格別にゃ」
「新鮮なお魚かぁ……」
私は海の方へ目を向けた。暮れかけた水平線が、細い橙色の線になっている。
「あ、金目鯛、まだ食べてなかった。たべたい」
「食べればいいにゃ」
「そうする!」
猫たちと駄弁っているうちに、船がやってきた。熱海へ戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
さて、金目鯛である。
私は初日に見かけた幽霊さんを探して、夜の街を歩いた。灯りの少ない通りを、きょろきょろと見回しながら進んでいくと、ちょうど道端に見覚えのある姿が浮かんでいる。
「あ、幽霊さん!」
「……またあんたか」
彼の足元には、初めて会ったときと同じ、黒い手が絡みついていた。
「そうそう、昨日はありがとうございました。おかげで美味しいビーフシチューが食べられました!」
「それは良かった」
「それでですね、今日は金目鯛が食べたいんですけど、どこか美味しいお店、知りませんか?」
「金目鯛なら、あそこがおすすめだよ。妻と、最後に行った店でね」
幽霊さんの声が、少しだけ寂しげになった。
「ありがとうございます!……あ、そうだ!足に絡んでる黒い手なんですけど――」
「そういえば、あの店の金目鯛は一日十食限定なんだ」
「じゅ、十食限定!?」
思わず身を乗り出した。
「早めに行ったほうがいい。売り切れたら食べられないからね」
「急いで行ってきます!ありがとうございますグルメさん!」
「グルメさんってなんだい!?」
私は勢いよく頭を下げ、教えてもらった店へ駆け出した。
赤い提灯の揺れる居酒屋風の店構え。暖簾をかき分けると、壁には金目鯛の特別メニューが、大きな紙に墨で『残り三食!』と貼り出されている。
おお、あるじゃないか!
「金目鯛の刺身!お願いします!」
運ばれてきた皿には、透き通るような薄桃色の身が、扇のように並んでいた。
一切れ、口に運ぶ。
「うん、うまい!」
脂の乗った身が、舌の上でとろける。甘みがあって、しつこさがない。そして、刺身の横に添えられた、糸こんにゃくのような、細くて透明なものが気になった。試しに食べてみる。
「……超うまい」
独特の歯ごたえ。噛むたびに軽やかな音がする。通りかかった店員さんを呼び止めて尋ねてみた。
「あの、このコリコリしたやつ、なんですか?」
「海藻麺ですよ」
「へえー!これ、買って帰りたいんですけど」
「申し訳ありません、販売はしていないんです」
「えっ、だめですか」
「はい……」
そうか。だめか。
私は名残惜しく、最後のひと口を口に運んだ。
旅先で出会うおいしいものは、どうしてこうも心をつかんでくるのだろう。
……単純に私が食いしん坊なだけかもしれない。
*
三日目。
朝一番、宿の窓を開けて空を仰ぐと、どんよりとした灰色の雲が低く垂れ込めていた。テレビで天気予報を確認する。
『曇りのち雨』
昼前から降り出す予報だ。しかも、帰りの新幹線に間に合わせるため、熱海に滞在できるのは午前中のみ。
雨が降る前に動くしかない。ならば、山に登るしかあるまい。
朝ごはんをかき込み、荷物をまとめて宿を出た。バス停で待っていると、ほどなくして十国峠方面行きのバスがやってくる。乗客は、私のほかに数人だけ。
バスは熱海の街を抜け、うねうねと山道を登っていく。窓の外では、建物が少しずつ小さくなり、木々の緑が濃くなっていく。坂のたびに車体が傾いて、身体が横へ持っていかれた。
終点の十国峠で、バスを降りた。
一歩外へ出た瞬間、視界から色が消えた。遠くの山も、海も、空もない。目の前にあるはずの景色を、濃い霧がそっくり飲み込んでいる。
「わあ、まっしろの雲の中だぁ〜」
……いや、まだ分からない。展望台まで行けば、風で晴れ間が覗くかもしれない。富士山も、海も、伊豆の山々も見渡せると聞いているのだ。
淡い期待に胸をふくらませて、展望台へ向かった。
細かな水滴が頬にひやりと当たり、髪もしっとりしてくる。息を吐けば湿った空気がそのまま肺に入ってきて、世界ごと冷たい綿に包まれたみたいだ。数歩先を歩いても、同じ。振り返っても、同じ。
展望台の柵の前に立つ。
「なんも見えねぇ」
風が吹くと、さあっと流れて、ほんの一瞬だけ足元の柵が覗く。
「あ、見えた」
と思った次の瞬間には、また何も見えない。私はその真ん中で、しばらく立ち尽くした。
景色は見えない。でも、これはこれで、なかなか体験できないことだ。見えるはずの景色の代わりに、今日は山の空気そのものに包まれているようだった。
展望台の脇に、「十国峠」と書かれた立て看板が立っていた。せっかく来たのだから、と、とりあえずその前でスマホを構える。
看板と私。背景は、なし。
画面を確認すると、写っているのは文字の読める看板と、のっぺりとした乳白色だけだった。これはこれで記念になるだろう。
そのとき、頬にぽつりと冷たいものが落ちた。
「ん?」
見上げる間もなく、ぽつ、ぽつ、と続けざまに降ってくる。さっきまでの湿り気とは違う、はっきりとした粒だ。
「来たか……!」
慌ててバス停へ駆け込み、屋根の下に逃げ込む。
振り返れば、さっきまで立っていた場所が、しとしとと降る雨に煙っていた。
帰りのバスを待つ間も、雨は同じ調子で降り続けていた。やってきたバスに乗り込み、窓際の席で、曇った硝子の向こうを眺める。
バスは来たときと同じ山道を、今度は下っていく。木々の緑が薄くなり、屋根の色が増え、窓の外にまた街が戻ってきた。
熱海の街に降りた頃には、雨はすっかり上がっていた。
雲の切れ間から、うっすらと光が差している。濡れた路面がその光を返して、街が一枚、洗い立てになったようだ。
「山の上だけだったのか……」
なんともむなしい。そう思いながら窓の外を眺めていると、見覚えのある透けた姿が、道端に浮かんでいるのに気づいた。
「あ、幽霊さん!じゃなかった、グルメさん!」
思わず立ち上がり、降車ボタンを押す。
「次、降ります!」
運転手さんが不思議そうにこちらを見たが、構わずバスを降りた。新幹線の時間にはまだ少し余裕がある。ここで会ったのも何かの縁だ。
駆け寄ると、幽霊さんは目を丸くして振り返った。
「……ああ、あんたか」
「グルメさん、ありがとうございました。おかげで良い旅になりました」
深々と頭を下げる。ビーフシチューも、みかんも、金目鯛も、全部この人の案内のおかげだ。
「そうか……良かったな」
幽霊さんは、少し照れくさそうに頬を掻いた。
私は、ふと彼の足元に目を落とした。
足首に絡みつく、黒くて細い手。
初めて会ったときから、ずっと気になっていた。昨夜も見かけたけれど、金目鯛のことで頭がいっぱいで、つい後回しにしてしまったのだ。
「お礼といっては何ですが、あちらに送りましょうか?」
「……え?」
「その足に絡みついてる手のせいですよね?」
幽霊さんは、はっとしたように自分の足元を見た。それから、ゆっくりと顔を上げる。
「……できるのか?」
「はい!ベンチの穢れより頑固ですけど」
私はしゃがみ込み、足首にまとわりつく黒い手を、ぐっと掴んだ。
「こう掴みまして、ブチッとな」
『ギィアアッ――』
耳をつんざくような悲鳴が、辺りに響いた。
「うるさいって」
べしっ。
手のひらで一発叩くと、悲鳴はぴたりと止んだ。黒い手は、ぼろぼろと砂のように崩れて、風にさらわれていく。
幽霊さんは、呆然と自分の足を見下ろしていた。ゆっくりと足を動かし、確かめるように一歩踏み出す。もう、何かに引き留められる様子はない。
「……軽い」
何度か足元を見て、それから私に向き直った。目元が、ほんの少し潤んでいる。
「ありがとう。これで、妻の待つあちらへ行くことができる」
「いえいえ。奥さんによろしくどうぞ」
「……ああ。本当に、ありがとう」
「お元気でー!」
私は、いつもの調子で手を振った。
グルメさんも、穏やかな笑みを浮かべて手を振り返す。
雨上がりの空に、淡い光がすうっと昇っていく。後には、濡れた路面と、光る水たまりだけが残っていた。
*
そして、帰りの新幹線。
東京駅で上越新幹線に乗り換え、座席に腰を下ろす。窓の外を眺めているうちに、列車は長いトンネルに入った。
ごうん、ごうん、と響く車内。窓の外は真っ暗で、ガラスには自分の顔が映っている。
そして、トンネルを抜ける。
「おお!」
窓の外に広がったのは、見慣れた新潟の景色。
屋根も、田んぼも、遠くの山も、白一色に覆われていた。
「リアルに『トンネルを抜けると、そこは雪国であった』だ……」
昨日までは、暖かな日差しを浴びていたのに。
「さぶっ!」
思わず肩をすくめる。そして、
「へっくしょい!」
盛大なくしゃみを一発。
こうして、私の気ままな熱海一人旅は終わった。
「楽しかったなぁ」
次は、温泉に行こうかな。




