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第1話

 四月。気温が次第に上昇し、芽吹いていた植物が生い茂る春の季節。人々が新しい生活や環境に緊張しつつ、次第に適応し、成長を遂げる。

 羽山秀はねやましゅうも自室で布団を半分蹴飛ばしながら、例年通りの春を小さな体で堪能していた。だが部屋全体を揺らす程の大雑把なドアのノック音で、その心地よさは妨げられた。

「坊。朝だぜー、そろそろ起きろ。朝飯、食いっぱぐれんぞ」

 野太い男の声が部屋全体に響き、荒っぽい足音を立てながらその場を離れていく。秀はゆっくりと目を開き、まだ暖かさが残るベッドの中でぼんやりと天井を見つめた。半年前まで見ていた黄ばんだ天井と違って、飛行機の模型や暗い中で緑色に光る星の蓄光シールが貼ってある。おそらくまだ六歳である秀のために、父親が用意したものだろう。他にも子供用の勉強机や本棚、おもちゃ箱などが新品で買い揃えられている。

 目覚めたばかりの硬い体を起こし、ベッドから降りると、パジャマの袖の隙間から冷たい空気がじわじわと秀の体を這うように入り込んでくる。頭の中で起きたくないなと思いつつも、彼は部屋の机に置いていたお気に入りの青いパーカーをパジャマの上から羽織った。先月に比べて比較的過ごしやすい気温になったものの、やはり朝方は冷え込む。部屋の窓から見える数羽の雀も体を丸くして、小さくゆらゆらと揺れている。

 部屋のドアを開け、右手に伸びる廊下を挟んで斜向かいに位置するリビングへと秀は向かう。ひんやりとした廊下を進み、リビングの戸を引くと、部屋にある大きい長机が目に入る。それと同時に机の周りに座っていた十数名の男性陣が一斉に秀を見つめた。

「坊、おはよう」

「遅えぞ、早く座れ。腹減った」

「坊、今日は俺の隣で食べようぜ。なぁ?」

 男たちが一斉に話し始めると、秀は少し困った顔を見せる。それぞれ見た目や年齢が違うこの強面集団は、秀の新しい家族である。ほぼ全員と血が繋がっていないものの、彼らは小さい秀の事を実の子や兄弟のように甘やかしている。ここにいる者は家庭を持っていたり、天涯孤独だったりと家庭環境がそれぞれ違う。だが、お互いを信頼し合いながら寝食を共にしている。秀もその一人ではあるが、まだ六歳という年齢や慣れない環境からか、日々の生活において戸惑いが今もなお見え隠れしている。

「お、今日は勢揃いだな」

 後方から聞こえた声に驚いた秀が振り向くと、背の高い白髪交じりの中年の男が立っている。青く真新しいポロシャツと足の長さが際立つ黒のジーンズは彼のために作られたのかと思える程に似合っている。

 男の名前は羽山俊之はねやまとしゆき。秀の祖父にあたる人物である。浅黒い肌に顎ひげを少し蓄えた顔は一般人には見えない。また、百七十九センチもある体格は秀から見るとほぼ巨人も同然で、圧倒されてしまう。だが、切れ長の黒曜石のような瞳は、老若男女問わず虜にしてしまいそうな雰囲気がある。

 そんな俊之の声を聴いた男性陣は勢いよく立ちあがり、お手本のようなお辞儀をする。

「おはようございます」

「おう、おはよう。秀、学校はまだなのか?」

 返事をしながら足元にいる秀と目線を合わせるようにしゃがみ込み、優しく頭を撫でる。

「来週の月曜日からだよ」

「お、そうだったか。じゃあ、まだ少し遊べるな」

 そう言うと俊之は秀の両脇に手を滑り込ませて、高く抱き上げた。この家に来てから、秀は何度も大人達に抱き上げられているが、未だにその高さに慣れた様子は見られない。だが彼より背の高い男たちを見下ろす点においては、少し面白みを感じているようで嫌な訳ではないようだ。

「よし、秀はここで食え。じいちゃんの横だ」

 俊之は入り口近くの上座であぐらになりながら、抱き上げた秀を自身の隣に下した。秀が周りを見ると、全員から見下ろされていることに気づく。目線の高さが入り口で立って見ていた時や抱き上げられた時と違っているせいか、威圧感が倍増している。その中で一人だけ、秀を見ずに目を閉じて背筋を伸ばし、礼儀正しく座っている男がいる。

 彼は羽山良一はねやまりょういち。秀の実の父親である。ベリーショートの髪形に、俊之に似た顔立ちをしているが、身体は多少細身に見える。服装もラフな格好の周りとは違い、皺ひとつない白いワイシャツと灰色のジャケット、綺麗に結ばれたえんじ色のネクタイ、上着と同じ色の丈の合ったスラックス。この状況では異質に見えるかもしれないが場所を変えれば、ただのサラリーマンに見えなくもない。

「秀。自分の箸とコップ、キッチンから取って来い」

 目を閉じたまま、良一は秀に事務的にそう伝えた。言葉の語気や服装などから見て多少神経質な性格をしているのが分かる。

「あ、うん」

 彼の声を聞き、少し緊張しながらも返事をしつつ、秀は部屋の奥にあるキッチンへと小走りで向かう。父が悪い人ではないと秀も理解はしている。だが、先ほどのような話し方や時折見せる鋭い目つきのせいで父親に対し、多少萎縮気味なのは誰が見ても明らかだった。

 キッチンの戸棚を開けると、秀専用の青いプラスチック製のコップが置いてあった。今流行りの子供向けアニメのキャラクターが描かれているが、彼自身はあまり興味が無いようだ。秀が周りを見渡しながら箸を探していると、俊之の声が聞こえてくる。

「おい、良一。お前が取ってやれよ、父親だろ」

「自分でやらせないでどうすんだよ。甘やかすな」

 良一がそう言うと周りの連中が野次を飛ばしたり、賛同したりと大声で騒ぎ始めた。秀はそれを聞いてはいたものの、子供には内容が難しかったようで、理解できずにいた。

 ふと彼が調理台の上に目を向けると、水切りかごの中に自分の箸が刺さっていることに気づく。小さい背と腕を伸ばし、それを手に取ろうとした時、かごの傍にあった可愛らしい黄色のマグカップが目に入る。白いウサギが描かれているそれを見て、この家にいる「花」のものだと分かる。

「おーい、坊。早く食おうぜ」

 大きい声に少し驚きながら、箸を取ると秀は自分の席に素早く戻った。机の上には白米や味噌汁以外にも卵炒めや野菜炒め、焼いたソーセージなどが大皿で乗っている。他にも二リットルの飲み物が数本、乱雑に置かれていた。秀は今まで見たことの無い量のソーセージが皿に乗っているのを見て、思わず唾を飲み込む。秀が席に着くと、俊之達が胸の前で手を合わせる。

「いただきます」

 それを言うと同時に、全員が朝食を食べ始める。食器がぶつかる音、味噌汁を小さくすする音、何かの咀嚼音などが聞こえる。ドラマや漫画で見るような食卓での会話は、この家には無い。誰もが一言も話さずに、ただ目の前にある食事と向き合う時間。この状況こそが、秀の新しい家族の「普通」であった。

「ごちそうさまでーす」

 まだ白米しか口にしていない秀に対し、坊主頭の男は五分程で食べ終えてしまったようで、既に自身の茶碗をまとめてキッチンの方に向かっている。それに続くように他の男性陣も、食べ終えた者からどんどん机から離れていく。異常なまでの早食いに秀は毎回呆気に取られてしまう。全員が俊之に「お先に失礼します」と声をかけながら部屋を出ていく様を見て、俊之がわざとらしく大きなため息をする。

「もう少しよぉ、ゆっくり食っても良いんじゃねえか?」

 部屋を出ようとした長い金髪の男をねめつけながら俊之がいじけた声を出すと、金髪は苦笑いで答えた。

「そんな訳にも行かないですよ。会長より食べるのが遅かったら、兄さん達にどやされます」

 そして、小さくお辞儀をして部屋を後にする。彼の返答にどこか納得していない様子で、米を一口頬張り、噛み続ける俊之の姿は秀より幼い子供のように見えた。

「親父、先に出るぞ」

 キッチンから足早に歩く良一が俊之に話しかける。そして自身の息子の頭を撫でながら、「またな」と小さく笑う。普段笑わない良一も秀を撫でる時だけは笑顔になるようだ。そんな顔を見て秀は普段から笑顔でいてくれればいいのにと思っていた。すると、俊之が片膝を立てて、立ち上がろうとする。

「待て、俺もすぐ行く。外で待ってろ」

「分かった」

 そう言って部屋を出ていく良一を横目に、俊之は味噌汁をご飯の中に入れる。そしてそれを飲み物のように勢いよく流し込んでいく。以前、秀はそれを真似しようとした際に、父や周りの男衆に止められてしまったため、少し祖父が羨ましく思えていた。

 三十秒もせずに食べ終えた俊之は「どっこいしょ」と親父臭い掛け声を出して立ち上がると、皆と同じようにキッチンへと吸い込まれた。皿が重なり合う音が部屋に響いた後に、水が流れる音が聞こえ、再び静かになる。

 キッチンから出てきた俊之はまだ座っている秀に近づくと、少し湿った手で彼の柔らかそうな頬を軽くつまみ上げた。

「秀。じいちゃん達、もう出かけるけど留守番できるよな? タケ達もいるから、何かあったら呼べよ」

「うん、分かった。気を付けてね」

 秀が俊之の目をじっと見つめる。混じり気のない俊之の綺麗な目は、秀の心の中までも見透かしてしまいそうだ。孫に見つめられて嬉しかったのか、俊之は満面の笑みを見せる。するとタイミング良く、入り口から綺麗なスキンヘッドが部屋を覗く。

 頭の形が綺麗なこの強面の男は、園田剛典そのだたけのり。皆からはタケと呼ばれ、親しまれている。普段この家にいることは無いが、俊之らが遠出をする際や人手が欲しい時にはすぐに駆けつけてくれる助っ人である。

「親っさん、良一さんが呼んでますよ」

「今行く。秀の事、よろしくな」

 俊之が立ち上がり、剛典の肩を軽く叩く。

「もちろんです。坊、何かあったらすぐ呼んでくれな」

 目元を細くして優しく笑いかける剛典を見て、坊は俯きながら無言で小さく頷く。どうやら秀の方はまだそこまで心を開けていないようだ。

 寂しそうな表情を浮かべる剛典を見て俊之が笑いながら、部屋を出ていこうとする。剛典も後を追うように部屋を出て、襖を閉めた。先程まで賑やかで温かかったリビングは一気に静かになり、ひんやりとし始める。秀が手に持っていた茶碗の米を一口頬張る。表面が少し硬く、中が柔らかい米の嫌な食感が口の中いっぱいに広がる。決して心地の良いものではない。

 米を飲み込むと、自然と鼻から大きく空気が出ていく。暴力を振るわれている訳でも、嫌われている訳でもない。以前いた家に比べて居心地が大分良い。ただ何か大事なものが欠落したままに見えるのは何故なのだろうか。

 秀がつまらなそうに硬い米をよく咀嚼しながら朝食を食べ続けていると、どこかの襖が開く音が聞こえる。ペタペタと何かが緩く張り付くような音が次第に近づいてきたかと思うと、それが突然止んだ。そして閉ざされていた襖がゆっくりと開かれる。

 そこには他の男性陣に比べて線が細く、若干小柄な見た目の男が立っていた。白いパーカーを着た彼は、裸足のままで部屋に入ってくる。こめかみ付近をカリカリと掻いている様子は柔らかく長い髪と相まって、まるで近所の毛並みの良い野良猫のようだ。そんな彼の細い目が秀の顔を捕える。

「ああ、坊。おはよう」

「おはよ」

 中延侑里なかのべゆり。この家にいる唯一の「花」である。花と言っても別に植物が擬人化したのではなく、単に植物の「百合」と同じ発音だから秀が陰で呼んでいるだけで、どこにでもいる普通の男性だ。普段は家の中で本を読んだり、縁側でのんびりと昼寝をしたりと他の齢二十五の男性と比べ、のんびりとした生活を送っている。だがその昼寝が原因で深夜まで起きていることもあり、朝ごはんを皆で一緒に食べることはほぼ無いに等しい。

 まだ子供で食べるのが遅かった秀は、時々彼と二人で朝ごはんを共にすることがあった。最初は気まずかった空気も次第に解れていき、最近では侑里の姿をまだかまだかと秀は心待ちにしていた。

 眠そうな目を擦り、襖を適当に閉めながら侑里はキッチンの方へと向かう。棚にある茶碗を一つ適当に手に取ると、壁際の冷蔵庫の横にある炊飯器を開けて白米を少しよそった。

「ねぇ、坊。おかず何残ってる?」

 柔らかく落ち着いた声で侑里が話しかけると、秀は机に残っていた物を見渡した。

「んー、玉子がちょっとと野菜炒めが沢山」

「みんな野菜嫌いだもんねえ」

 小さく笑いながら箸を縦に差したお茶碗と例のウサギのマグカップを持って戻ってくると、侑里は秀の隣に座った。

「いただきます」

 侑里が手を合わせると、秀が侑里の茶碗を指差した。

「箸、ご飯に差したらいけないんだよ」

「えぇ、じゃあ二人だけの秘密な」

 秀に可愛らしいウインクをしてふざけつつ、彼は残り物に手をつけ始めた。そして、机の上にあった二リットルの麦茶を手に取り、自身のマグカップに注いでいく。冷蔵庫から出してしばらく経っていたせいか、ペットボトルに結露が出来ている。

「みそ汁いらないの?」

「あんま飲みたくない。てか坊、今日はサボり?」

 ぬるそうな麦茶を飲みつつ、侑里が秀に目線を向ける。

「学校、月曜日からだから、まだお休みなの」

 本日二回目となる説明を端的にすると、侑里は小さく何度も頷きながら目線を再び机に戻した。そして持っていたマグカップを茶碗と持ち替え、近くにあった残り少ないソーセージに箸を伸ばし、口へと運ぶ。一点を見つめながらゆっくりと咀嚼する姿はどこか食事が面倒なように見える。

 興味本位で秀が侑里の横顔を凝視していると、突然侑里が持っていた茶碗と箸を机に置き、腕を伸ばしながら後ろにゆっくりと倒れこんだ。大きくため息をつき、両手で顔面を覆って顔を緩くこすり始める。良一が見ていたら、だらしがないと一喝するだろう。しかし息子である秀はその姿を見て、尚更近所にいる猫に似ているなと改めて感じていた。侑里は仰向けになりながら咀嚼していたものを飲み込むと、顔を擦っていた手を止める。

「やっぱり食欲ないわ。味がちぐはぐな感じがする」

 気怠そうにそう呟き、侑里は顔を覆っていた手の隙間から天井を見つめている。そして体を起こしながら、何かを探すように周りに目線を向けている。何を探しているか分かっている秀も辺りを見回した。長机の下を覗くと目当ての「それ」が足元にあったため、腕を伸ばして掴み取り、侑里へと手渡す。

「はい、リモコン」

「あ! ありがと」

 侑里は甲高い子供のような声を出しながら両手で大事そうにリモコンを受け取ると、流れるようにテレビの電源をつけた。先程まで二人しかいなかった静かな部屋が、テレビから出てくる話声で一気に騒がしくなる。侑里が手当たり次第にチャンネルを変えていくが、まだ朝の時間帯だからかどのチャンネルもニュースばかりが流れている。

「坊は何チャンネル見たい?」

「どれでもいいよ」

「そしたらルーレットにしよ」

 そう言うと侑里は目を閉じて、チャンネルのボタンを手探りで適当に何回か押し始める。この子供がやるような仕草は、どことなく俊之に似ている。それが理由なのかは分からないが、俊之は侑里を本当の息子かのように可愛がっていた。

 座りながら静かにテレビを見る侑里の横で、秀は再び固くなった白米を口に含んでみた。更に固くなった米の食感が歯に伝わり、口内を小刻みに緩く刺してくる。父親がいたら残さず食べるよう促してくるだろうなと頭の中で考えつつも、秀は侑里と同様に茶碗を置いて床に寝転がった。口の中にあった米を飲み込むと、喉全体が米を胃の中に無理やり流し込もうとしているのが伝わる。

 秀がちらと右横にいる侑里に目を向けると、彼は机に肩肘をついて秀の方を見つめていた。目が合ったことに驚いた秀は、咄嗟に「侑里さん」と上ずった声で相手の名前を呼んだ。

「どうした、坊」

「あ、えっと、なんでもない」

「えー、なんだよ。気になるじゃんか」

 侑里が腕を伸ばし、秀のお腹を優しくつつく。爪の固さが秀のお腹に伝わり、くすぐったさが後を追う。痒さを逃がそうと体を逸らそうとするが、そうさせまいと侑里の手が後追いしてくる。「やめて」と秀が笑いながら侑里の手を抑えようとするが、相手は両手を使ってわき腹を的確に狙い撃ちしていく。

 そんな風に二人がふざけ合っていると、入り口の襖が大きく開かれた。襖には開けた本人であろう、剛典が立っていた。

「おう、坊主。起きたのか」

「あ、はい。おはようございます」

 侑里が素早く立ち上がり、剛典にお辞儀をする。秀といた時と違い、緊張な面持ちで声も小さくなっている。剛典も侑里の様子を察してか、「おう」と短く返事をしてキッチンの方へと向かう。どうやら使用済みの食器を洗おうとしているようだ。それを見た侑里は小走りで剛典に近づき、行く手を塞いだ。

「剛典さん。俺が洗っておくんで休んでてください」

 目を丸くし、驚いた様子で剛典が答える。

「いや、いいよ。やっとくから」

「自分、居候なんで。少しくらい働かせてください」

 申し訳なさそうに手を合わせる侑里の顔を見た剛典は、何かを諦めたかのように肩をすくめて溜息をついた。

「分かったよ、じゃあ頼むわ」

 そう言い終えると侑里の肩を軽く叩き、そのままリビングを後にした。その後ろ姿を見送ったかと思うと侑里は大きく息を吸い、それを鼻から全て追い出した。顔に多少の疲れを見せつつパーカーの袖を捲り、皿を洗い始める。それを見た秀は垂れ流していたテレビの電源を切る。そして何往復かして、机にある二人分の茶碗とマグカップ、その他の大皿などを全てキッチンへと運んだ。

「おお、ありがと。それ置いたら、坊は遊びに行ってきな」

「タケさんと仲悪いの」

「え」

 ガラスが割れた音が辺りに響く。秀が背伸びをしてシンクの中を覗くとガラス製のコップだった物が、いくつかの破片と化していた。破片と水道から流れる水が、窓から入る太陽光に反射して宝石のように輝いて見える。好奇心から秀がガラスの破片を手に取ろうと腕を伸ばすが、泡が付いた侑里の右腕に制された。

「坊、危ないから触っちゃダメ。怪我するよ」

 そう言い、自身の手を軽く洗って水気を払うと、侑里はシンクの下の引き出しから薄いビニール袋を取り出し、ガラス片を素早く片付け始めた。破片が重なり合う音を聞きながら秀は再び言葉を発した。

「当たっちゃった?」

 それを聞いた侑里は秀の方を見ずに、ただただ手元を動かしている。だが薄笑いを浮かべている様子から察するに、不愉快には思っていないようだ。ガラス片の入ったビニール袋を固く結び、新しい袋で更に上から包む。そしてカウンターにある水切りかごの横に置き、皿洗いを再開した。一連の動作を見つめ続けていた秀に侑里が漸く口を開いた。

「なんで仲悪いって思った?」

「んー、なんかめんどくさそうに見えたから」

 それを聞いた侑里の口から笑いが漏れる。図星だったようだ。秀は自分の言葉で侑里が笑った事を嬉しく思ったのか、にんまりと笑いながらシンクの傍で頬杖をついている。すると侑里が目線を上に向けながら、何やら考え事をし始めた。手元の動きも次第に鈍くなり、最終的に止まってしまった。流水音だけが二人の間をゆったりと流れていく。

 天井の一点を見つめ続ける侑里は、どこか魂が抜けているように見えて秀は少し恐怖心を抱いた。

「何だろうな、仲が悪いとはまた違うんだよな」

 侑里が思いついたかのように呟く。

「違うの?」

「うん、そもそもお互いをよく知らない」

 それもそのはず。侑里も秀と同様、ここに来てまだ一年にも満たない。秀に関しては俊之の孫という立場から皆に可愛がられている反面、侑里は新参者という立場でありながら俊之に可愛がられていることで、皆から反感ではないにしろ多少の不信感を抱かれているようだ。特に良一に関しては侑里を見かける度に睨みつける程、毛嫌いしている。秀もそんな父の態度を察してか、彼の前ではあまり侑里に関する話をしなかった。

 そして侑里の方もあまり人と関わるのが得意ではないため、俊之や秀の二人を除いて基本的に自分から話しかけることはない。孤立していくには十分な条件が揃えられていた。

「でも僕より先に、この家に来てるよね?」

「先って言っても三か月くらいだからなあ。あんまり変わらないよ」

 侑里が何かを諦めたかのような、寂しさが見える笑顔で秀の方を向いて返事をする。そんな不遇な顔を見て、秀は子供ながらに、侑里に何か声をかけるべきなのではないかと考えた。だが、頭で実行しようと思っていても言葉が上手く口から出てこない。内心焦りながら、いつの間にか侑里が再開していた皿洗いを見つめていると、縁側の方から剛典の大きな声が聞こえてきた。

「おおい。坊主、いるかあ。いるならちょっと来てくれ」

 二人で声が聞こえた方に勢いよく目線を向ける。

「おっと、ご指名だ」

 持っていた大皿をシンク内に置き、泡のついた手を綺麗に洗う。そして近くにある布巾で手を拭うと、そのまま入り口の方に軽い足取りで走っていく。

「後でな、坊」

 振り向き様に手を軽く振りながら離れていく背中を見て、大人しそうなイメージのある「百合」とは全然違うと秀は思った。

 侑里の姿が消え、再度部屋が静寂に包まれる。だが先程とは違い、人の話し声が遠くから聞こえている。リビングからだと内容までは分からないが、時々笑い声が聞こえてくるということは、あまり険悪な雰囲気ではないようだ。その状況で秀は今日やることを頭の中で考えていた。先日図書館で借りた本を読むか、それとも庭にいる魚の絵を描くか。そう考えながら、ふと先程まで侑里が立っていたシンク前を見る。

 そして秀の頭の中である名案が生まれた。





 秀がリビングのソファに座りながら読書をしていると、襖が開かれた。襖の先には侑里が立っていて、驚いた様子で秀に声をかけた。

「え、坊、もしかしてずっとここにいたの?」

 その言葉を聞いて秀はわざとらしく眉を片方だけ上げ、侑里を睨みつけた。あまり迫力は無い。

「いちゃ悪いの」

「いやいや、そんな事はございませんよ。お坊ちゃまのお好きなように」

 睨んだ姿を見て面白がったのか、まるで使用人のようなわざとらしい口調で侑里は答えた。そして仰々しくお辞儀をすると、そのままキッチンの方へと向かう。皿洗いの続きをするようだ。だが彼にはそれが出来なかった。

 何故ならシンクには皿が一枚も入っておらず、代わりに水切りかごが食器類で一杯になっていたからだ。本を読むフリをしてソファから侑里の様子を伺う。秀は侑里がどんな面白い反応をするのか、期待に胸を膨らませた。

「あれ、皿は」

「僕が洗った」

 秀が淡々と答えると侑里がゆっくりと顔を秀に向けて静止した。まるでホラー映画のワンシーンの様だ。その様子を本の隙間から見ていた秀が怪訝な顔をしていると、侑里が再び同じ質問を繰り返した。

「え、お皿は」

「だから僕が洗ったんだってば」

 同じことを言った侑里に、多少苛立ちを含んだ声で秀が答え、本を乱暴に閉じた。それと同時に、侑里は秀を見つめたまま、体を動かしてソファの近くに駆け寄っていく。気味の悪い行動を見て、秀は更に怪訝な顔をして体を強張らせた。もしかして皿を洗ったのがまずかったのだろうか。自分に降りかかる災難が予測できず、秀は思わず目を強く瞑る。だが次の瞬間、秀は侑里に強く抱きつかれて身動きが取れなくなっていた。

「な、なになになに」

「坊、すごいなあ。お前、良い子だよお」

 すごい勢いで抱きつかれて、秀は驚きが隠せなかった。確かに今まで、他の人から抱っこされたり、頭を撫でられたりすることはあった。だが、侑里からの接触は今までほぼゼロに近く、触れたとしても体に手が触れる程度だった。そのため、今のように密着してくるなんて小さな彼は考えもしなかったのだ。

 他の男性陣より若干柔らかく温かい体に包まれながら、秀はどこか懐かしく思えていた。以前同じような状況になったことがある、と直感で思い出す。だがそれがいつだったか、秀は思い出せなかった。

「ねぇ、苦しいんだけど」

 秀が軽く毒づきながら軽く体を押すが、侑里は我関せずとでも言うように頬を秀の頭にこすり続けている。だが毒づいた彼もそこまで悪い気はしなかった。

 しかし、秀はあることに気づく。もしこの場に剛典らが入ってきたら、どうなるのだろう。考えるまでもない。確実にからかわれる。やっぱり子供なんだなと笑うに決まっている。その様子が頭に浮かび、秀はすぐさま侑里の腕の隙間をするりと抜け、ソファを流れるように滑り降りた。そしてそのまま侑里から逃れるため、リビングの出入口へと向かう。

「あ、坊。ちょっと待てって」

 襖の前に立った秀が、侑里の声を聞いて足を止める。

「何?」

 幼い彼は体を動かさず、不機嫌そうに口を開いた。

「ありがとう」

 秀の小さな背中に向かって満面の笑みで侑里がお礼を言う。言葉の重みが秀の全身に圧し掛かる。秀は振り向きもせず、ただその言葉を聞き、無言で顔を伏せながらリビングを出て、ゆっくりと襖を閉めた。閉じられた襖の奥から「あー、もういけずっ」と侑里のおどけた甲高い声が聞こえてくる。

 秀は襖の前で立ちすくんでいた。そして先程言われた感謝の言葉を、何度も何度も頭の中に刻み込んでいく。

 何故なら手伝いを褒めてもらえたのは、彼の人生において初めてのことだったからだ。顔がにやけてしまうのを両手で抑えながら、秀は心の底から湧き出る喜びを全身で味わっていた。深呼吸をしつつ、昂る感情を落ち着かせながら秀は思った。

 次は何の手伝いをしようかな、と。





 午後十時二十七分。子供部屋から離れているリビングから笑い声が溢れ出る。溢れ出るといっても部屋の中にいれば微かに聞こえる程度で、普通に寝ている分にはそこまで気にならない声量だった。だが寝つきが良くなかったのか、秀はその微かな笑い声で目が覚めてしまった。微睡みの中で彼は用を足しに行こうと、年老いた動物のようにのっそり起き上がった。そして部屋を出てすぐ左横にあるトイレの中へと入ろうとする。その時、ふとリビングの方に目線を向けると、リビングの襖の隙間から光が漏れて廊下をうっすら照らしているのが分かった。そして秀はあることに気づく。

 こちらに背を向けて立っている人間がいる。

 侑里だ。よく見ると固定電話の受話器を手にしている。誰かと電話しているようだ。物音を立てずにゆっくりと近づく。廊下が暗いせいか、侑里は秀が近づいてきていることにも気づかないまま、相手と通話し続けている。

「いや、もう無理だって。関わりたくないというか」

「侑里さん?」

 秀の声掛けと同時に、侑里の肩が大きく揺れた。そしてぎこちない動きで振り向きつつ、手元の受話器を元の位置へと戻す。身体ごと秀の方に向き、引きつった笑顔で侑里は小声で秀に話しかけた。

「ぼ、坊。どうした、夜更かしか?」

「ううん、トイレ行こうとしたんだけど侑里さんがいたから」

 侑里につられて秀も小声で返答した。

「誰と電話してたの」

 侑里は一瞬、秀から目を離して再度目線を合わせて答えた。

「友達だよ。ほら、俺さ、スマホ持ってなくて。コレでしか連絡取れないんだ」

「ふーん」

 あまり興味が無さそうに秀は返答した。それに安心したのか、侑里は秀の肩を軽く掴んだかと思うと、くるりと体を反対に向けさせた。そして背中を優しく押しながら前進するように促していく。

「ほらほら、早くトイレ行かないと。おねしょしたらかっこ悪いぞ」

「しないもーん」

 そう答えつつ、秀は促されるままトイレへと近づく。トイレのドアの前まで行くと、侑里は秀の耳元まで顔を近づけ、小声で話しかけた。

「一人でできる?」

 柔らかい羽根のような侑里の声が、秀の耳から全身をかけてくすぐる。こそばゆい感覚に秀は不快感と腹の底からくる何とも言えない感情に苛まれた。

「当たり前じゃん。馬鹿にしないで」

 渾身の睨みを利かせつつ、秀はドアを素早く開け、勢いよく閉める。外から「ごめんて」という謝罪の言葉が聞こえる中、閉めた扉の内側で小さな彼は侑里の電話相手について考えていた。友人に電話するだけで何故あんなにもコソコソする必要があるのか。目を逸らす行為や二人にしか聞こえないほど小さな声で話す姿は、まるで何かを隠すために嘘をついている様にしか見えない。

 侑里は何か自分達には言えない秘密を隠し持っている。血は繋がってないにしろ、家族に嘘をつく侑里に、秀は少し納得がいかなかった。





 用を済ませた秀が扉を開けて自身の部屋に戻ろうとする。だが、何かが扉に引っかかっているのか上手く開かない。一度強く押してみるが少し隙間ができただけでビクともしない。何が起きているのか理解できないまま、不安げな表情で彼が恐る恐る隙間から外を覗くと、薄暗い廊下でも目立つ赤いマニキュアの塗られた白い手が目に入る。秀はその色に見覚えがあった。

「侑里さん?」

「ぴんぽーん。正解」

 扉の後ろに座り込んでいた侑里が立ち上がり、ドアノブをゆっくりと引く。

「びっくりした?」

 悪戯が成功したのが嬉しかったのか、侑里はにやけ顔で秀を見下ろす。

「別に」

 目の前にいる侑里の態度に少し腹が立ち、そっけなく答えながら秀は目線を上げる。秀の一言を聞いた侑里は猫のように目を細めながら、小さく笑っている。我が子を見る親のような優しさが垣間見える一方で、捉えた獲物を逃がさない容赦の無さも見て取れる。その目線に何となく違和感と気持ち悪さを覚え、秀は侑里とドアの隙間を抜け、そのまま部屋に戻ろうとした。

 だが侑里は足を壁へ勢いよく突き出し、秀の行く手を阻んだ。突然出てきた足に驚き、秀が肩を小さく揺らす。額から冷たい汗が流れる。生意気な態度を取ったことで蹴飛ばされるのではないかと思い、秀は息を吞む。だがそんな考えとは裏腹に侑里は慌てた様子で足をどけた。

「あ、ごめんごめん。ちょっと話したい事あって」

 眉間に皺を寄せながら口元を固く閉ざしている秀と目線を合わせるために、侑里は床に膝をつく。秀が彼の顔を見ると、昼の時に見た寂しそうな目をしていた。そして、秀の顔を見ながら申し訳なさそうに頼み始めた。

「さっきのさ、電話の事なんだけど。あれ、俊之さんたちには内緒にしてくれる?」

「おじいちゃん達に?」

「そうそう」

「なんで?」

 そう言われ、目線を上に向けて侑里は何か考え始めた。何と答えるか迷っているようで、次第に先程の秀と同じように眉間に皺が寄り、目線が泳ぎ始め、とうとう腕を組んで目を閉じてしまった。百面相をしながら唸る侑里を見て、秀はもしかしたら電話相手の正体が分かるのではと考えた。トイレの中でも考えてみたものの、自身の祖父にバラされるとまずい相手が一体誰なのかは、まだ子供である秀には思い浮かばなかったのだ。

「もう、会えなくなるからかな」

「え」

 一瞬、何を言っているのか秀は理解できなかった。侑里の口から突然出てきた言葉に秀は口をポカンと開け、瞬きを繰り返した。頭の奥の方が次第に熱くなっていくのが分かる。秀はもう一度侑里が言ったことを思い出し、頭の中で反復させるが一向に理解できない。

 会えなくなるとは、誰のことを指しているのか。まさか自分たちなのか。だとしたら一体どんな悪人と電話すれば、自分と会えなくなるのか。

 小さい彼の頭の中は、殊更に電話相手の事で一杯になった。

 だが悪魔のような一言を発した本人は特に気にした様子もなく、ただ微笑みを浮かべている。

「約束、できる?」

 自分の胸の前に差し出された彼の右手の小指と顔を、秀は交互に見比べた。

 逃がしてはいけない。何故こんなにも侑里に執着したくなるのか、秀にも分からない。だが決して逃してはならない。それだけは本能で理解していた。

 飛びつくように自身の小指を絡みつかせると、身体ごとどこかに飛ばす勢いで秀は自身の手を振り始める。

「絶対に言わないからねっ。男と男の約束だからね」

 子供らしくない熟語が秀の口から出てきたことで侑里がくつくつと笑い始める。

「そんな言葉どこで覚えたの」

「剛典さんが言ってた。それとさ、僕も侑里さんにお願いがあるんだけど」

 振っていた手を止め、息遣いを荒くしながら秀が侑里を見る。秀の何かを決意したかのような顔や視線に侑里は目を少々大きくするが、すぐにいつもの調子に戻り、秀の提案に快諾した。

「ん、もちろんいいよ。どんなお願い?」

 秀は侑里を力強く見つめたまま答えた。

「これからずっと、僕には嘘つかないで。絶対に」

「えっ」

 そんな子供の提案に驚きながら、侑里が手を引っ込めようとするが、秀の左手が侑里の右手首を掴んだ。少し乾燥した大人の肌の感覚が、秀の手のひらから伝わっていく。

 先程までの幼く可愛らしい様子に反して、目の前で突如として生まれた異様なまでの強引さに、侑里は戸惑いを隠せないようだ。侑里の喉元が大きく動く。どうやら緊張しているらしい。

 だが秀は相手のことなどお構い無しに、大きく一歩踏み出して侑里に近づいた。こぶし一つ分の距離まで二人の顔が寄せ合う。傍から見たら、侑里が即通報されそうな状況だ。下唇を軽く噛みながら、侑里ができる限り顎を上に向ける。それを見た秀が小首を傾げた。

「侑里さん、なにしてんの? 話聞いてる?」

「あ、うん。聞いてる聞いてる」

 苦しそうな声をあげながら侑里は小刻みに頷いた。話を聞いている事を全力でアピールしたいのだろう。

「じゃあ約束、守ってね。僕も絶対守るから」

 秀はそっと両手を侑里から離すと、そのまま侑里の後ろを通って自身の部屋へと戻っていく。部屋に入る直前、侑里の背中に向かって秀が声をかける。

「おやすみ、侑里さん」

「あ、おやすみ。坊」

 ドアの隙間から小さく手を振りながら、秀は優しくドアを閉めた。だが、彼はそのままベッドに入る事はなく、ドアの傍で聞き耳をたてる。床が軋む音と服同士が掠れる音がドア越しにうっすらと聞こえる。そして、何かを思い悩んでいるかのような重い足取りが、次第に部屋から遠のいていく。

 侑里がリビングに戻ったのをドアの隙間から確認すると、秀はゆっくりとドアを開けて再び廊下に出た。襖を完全に閉められたせいか先程の廊下とは違って、より一層暗さが際立っている。音を立てないように忍び足で廊下を進み、固定電話の前に立つ。それから「りれき」と平仮名で書かれたボタンを押すと、ダイヤルボタン上部の画面が青白く光り、数字の羅列が表記された。どうやら発信履歴のようだ。今画面に表示されている番号が例の電話相手なのだろう。秀は発信ボタンを押すと、受話器を手に取った。

 何回かコール音が鳴るが、一向に相手が出る気配がない。流石に出ないかと思い、受話器を置こうとした瞬間、何か物音が受話器の先から聞こえた。

「おい、侑里。さっきどうしたんだよ、いきなり切れたけど」

 若い男の声だ。

「侑里? どうした、なんか」

「僕のだから」

 相手の声を遮るように秀が声を出した。

 リビングから呑気な笑い声が聞こえる。

 侑里ではない声や異様な雰囲気からか、向こう側にいる人間は一言も言葉を発さずにいた。無言のままでいる相手に痺れを切らし、秀が再び口を開く。

「あの人は僕のだから。絶対にあげないからね」

 秀はそう言い切ると、雑に受話器を置いた。そして再び発信履歴から、番号を表記させてダイヤルボタンの右上にある赤いボタンを押す。画面に「ショウキョシマシタ」という文が表示され、元の画面へと戻る。

 自身の発信履歴のみが消去されたことを再度確認すると、秀はリビングの方へ目線を向けつつ、自室へ物音を立てずに戻った。ドアを少しずつ開け、開いた隙間から部屋の中へするりと入り込む。徐々に扉を動かし、完全に締め切ったのを確認して、掴んでいたドアノブのレバーを優しく上げていく。レバーから手を離すと、ほぼ無音で戻ってこられたことに安心したのか、秀の瞼は次第に重くなっていった。小刻みに動く瞼を微かに開きながら、自身のベッドの中へ潜り込む。布団の中でほんのりと残っていた熱が母親のように秀を優しく包み込む。

 完全に瞼が閉じられた中で秀は、ある人物の事を思い出していた。

 彼の母親である。もう顔はおぼろげになってはいるが、侑里と秀のように毎日仲良く過ごしていた事を、秀は覚えている。柔らかくて、温かくて、甘い。そんな記憶だった。

 しばらくすると、頭の奥から侑里の顔が浮かび上がってくる。秀に笑いかける侑里の顔は、何となく本人には似ていない。だが、長くて柔らかい髪質はまさしく侑里のものだった。秀は手を伸ばして触ろうとしたが、一向に届く気配がない。

 このまま触れられずに会えなくなるのだろうか。

 このまま触れられずに、電話先の知らない他人に奪われてしまうのか。

 また、一人になるのは嫌だ。

 絶対に、絶対に、離したりするもんか。



 壁に掛けられた時計の音と共に小さな子供の寝息だけが、部屋全体に広がっていく。

 電気が付いて明るかったリビングも、いつの間にか暗くなっている。


 春の闇が家全体を包み込み、やがて皆を柔らかい夢の中へと連れて行った。

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