第6話 新たな火種
その夜、キヨさんの駄菓子屋の店先は、ささやかな祝宴の会場と化していた。
長机に並べられたのは、近所の主婦たちが持ち寄った惣菜と、キヨさんが振る舞ってくれた瓶ビール、そして大量の駄菓子。発電機の轟音も、降りしきる雨音も、もうない。静かな夜の闇に、老人たちの陽気な笑い声が響いていた。
「誠! お前さん、大したもんじゃ!」
「紬ちゃんも、よう頑張ったねぇ」
権爺やキヨさんに代わる代わる褒め称えられ、俺は照れ隠しに「俺は何もしてねぇ」とそっぽを向き、紬は「いえ、皆さんのおかげです…」と恐縮しきっている。
「宗介さん、昔みたいでカッよかったッスよ! まさに鬼神のようでした!」
目をキラキラさせて尊敬の眼差しを向けてくる龍二に、俺は「うるせぇ、二度とやらねぇ」と缶ビールを呷ってごまかした。
宴の最中、俺と紬は、ほとんど目を合わせることができなかった。
あの薄暗い倉庫で見た、彼女の涙。そして、俺が晒してしまった、封印していたはずの過去の姿。お互いに相手をどう見ていいのか分からず、ぎこちない空気が流れる。
「あ、あの、八神さん…ビール、注ぎます」
紬がおずおずと俺の隣に来て、ビール瓶を傾ける。だが、その手は緊張で微かに震えていて、俺のグラスを通り越してテーブルにビールをこぼしそうになった。
「わっ!」
「おっと…」
俺は咄嗟に彼女の手首を掴んで、グラスに注がせる。触れた肌が、やけに熱く感じた。
「…さんきゅ」
「い、いえ…」
顔を見合わせた瞬間、紬は茹でダコのように真っ赤になって俯いてしまった。心臓が、妙な音を立てる。
◇
酒が回り、すっかり上機嫌になった権爺が、昔を懐かしむようにポツリと呟いた。
「今回の祭りも良かったが…昔の『神鳴祭』は、もっとすごかったんだがなぁ…」
神鳴祭。かつてこの町で最も盛大に行われていた、雷神を祀る祭りだ。山から神輿を担いで町を練り歩き、夜には花火も上がったという。だが、担い手不足と予算難で、もう十年以上も行われていない。
その言葉を聞いた瞬間、紬の目がキラリと光るのを、俺は見逃さなかった。
「神鳴祭…! それです! 次の町おこしは、お祭りの復活です!」
来た。俺の胃が、再びシクシクと痛み出すのを感じる。
「おい、待て! eスポーツ大会の何倍も大変だぞ!」
俺の制止の声も虚しく、紬の頭の中は、すでにお祭りのことでいっぱいになっているようだった。
打ち上げが終わり、帰り道が同じ方向になる。気まずい沈黙の中、先に口を開いたのは紬だった。
「あの…八神さん。今日は、本当にありがとうございました」
小さな、しかし芯の通った声だった。
「……別に。お前の涙がうざかっただけだ」
ぶっきらぼうにそう答えるのが、今の俺の精一杯だった。
◇
翌日、役場に出勤すると、空気が明らかに変わっていた。
すれ違う職員たちが、俺に向ける視線に、ほんの少しの敬意が混じっている。町を歩けば、老人たちから「誠ちゃん、この前のあれ、面白かったよ」「次はいつやるんだい?」と気軽に声をかけられた。
「神鳴シルバーズ」は、解散せずに存続することが決まったらしい。
俺が望んだ「平穏な生活」からは、日に日に遠ざかっていく。だが、不思議と、今の状況も「悪くない」と感じ始めている自分がいることに、俺は戸惑っていた。
役場の廊下で鉢合わせた田畑組合長は、まだ面白くなさそうな顔で俺を睨みつけてきたが、その視線に以前のような刺々しさはなかった。町の空気に、逆らえなくなってきているのだろう。
そんな、平和な午後のオフィスだった。
一本の外線電話が鳴り、課長が受話器を取る。
「はい、神鳴町役場、地域振興課です……ええ、はい……」
最初はにこやかに対応していた課長の声が、徐々に上ずっていく。
「神鳴町一帯の、土地の買収……? 大規模なリゾート開発、ですか?」
その言葉に、俺と紬はハッと顔を見合わせた。
電話を切った課長が、血相を変えて俺たちの元へ駆け寄ってきた。その顔は、興奮で紅潮している。
「八神くん、清川くん! 大変だ! 東京の大企業が、この神鳴町に巨大なリゾート施設を造りたいと言ってきたぞ! これで、この町も安泰だ!」
手放しで喜ぶ課長とは対照的に、俺の胸には、冷たい何かが広がっていた。
直感が、警鐘を鳴らしている。そんなうまい話があるわけがない、と。
その胸騒ぎを裏付けるかのように、物語のラストで何が起こるのか、俺はまだ知らなかった。
ただ、神鳴町を見下ろす峠道に、一台の黒塗りの高級セダンが停まり、車窓から町を眺める男が、不気味な笑みを浮かべていたことなど、知る由もなかったのだ。
俺の、そして俺たちの、本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。