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第1話 鬼、故郷に還る

ラブコメって難しいですね

新作ですどうぞ。

 

 俺、八神宗介やがみそうすけ、二十四歳は、平穏を愛している。

 刺激も、名誉も、金もいらない。朝は定時に起き、波風の立たない職場で当たり障りのない仕事をこなし、夜は安アパートでコンビニ飯を食いながら動画を眺める。そんな、空気のように無味無臭な毎日こそが、俺にとっての理想郷だ。

 高卒で一度は道を踏み外しそうになった俺が、猛勉強の末に公務員の職を得てから二年。ようやく手に入れたこの平穏を、俺は何よりも大事にしていた。そう、今日、この瞬間までは。

「――八神くん。これ、よろしく頼むよ」

 目の前に、ずしりと重いファイルが置かれる。

 差し出したのは、俺が所属する都市開発部の小田切課長代理。その脂ぎった額と、人の良さそうな笑みの裏に隠された狡猾さを、俺は知っている。

「……なんですか、これ」

「ああ、例のベイフロント開発計画の見積書だよ。急ぎでね、今日中に先方に提出しなくちゃならんのだ」

 パラパラと中身をめくる。そこには、どう考えても市場価格の三倍はするであろう資材費や、存在しないはずのコンサルタント料が、さも当然のように記載されていた。典型的な、水増し請求という名の不正。そして最終頁の承認欄には、なぜか俺の名前が印字されている。

「課長代理。この承認印、俺じゃありません」

「ん? ああ、そうだったかね。まあ、細かいことはいいじゃないか。君もこのプロジェクトの担当の一人なんだから、責任を持ってだな……」

 ああ、そういうことか。

 この男、事が明るみに出た時のために、俺という若い鉄砲玉を生贄にするつもりらしい。

 俺の中の何かが、ぷつりと音を立てて切れた。

 顔を上げ、俺は二年ぶりに、封印していたはずの眼で目の前の男を睨みつけた。

「……おい、オッサン。俺が誰だか知ってて、そんなもん押し付けてんのか?」

「なっ……なんだね、その口の利き方は!」

 空気が凍る。周囲の同僚たちが、息を呑んでこちらを見ているのが気配でわかった。だが、もうどうでもいい。

「てめぇみてぇな小悪党のケツ拭くために、俺はここに来たんじゃねぇんだよ。消えろ。そのゴミと一緒に、俺の前から」

 ドスの効いた声は、我ながら久しぶりに聞いた。小田切課長代理は、俺の豹変ぶりに腰を抜かしたのか、尻餅をつきそうになりながら後ずさる。俺は立ち上がり、ファイルをその胸に叩きつけてやった。

「二度と俺の前にそのツラ見せんじゃねぇぞ、タコが」

 完璧だった。これで俺の平穏は守られた……はずだった。

 ◇

 数日後、人事部長室に呼び出された俺は、信じられない言葉を耳にしていた。

「――というわけで、八神くん。来月から、故郷の神鳴町役場に異動してもらうことになった」

 にこやかに告げる初老の部長。表向きは「君の能力を、より地域に密着した形で活かしてほしい」などと聞こえのいいことを言っているが、要するに左遷だ。あのクソ上司に反抗した結果が、これか。

「……なんで、よりにもよって神鳴町なんですか」

「ん? 君の地元じゃないか。故郷に錦を飾る、いい機会だろう」

 冗談じゃない。二度と帰らないと誓った、あのクソ田舎に?

 高校を卒業し、この都会に出てきてから六年。俺はあの町のことを一日たりとも思い出さなかった日はない。思い出すたびに、二度とあの場所には戻らないと誓ってきたのだ。

 だが、公務員の世界で人事に逆らうことは死を意味する。俺は「承知しました」と、蚊の鳴くような声で答えるしかなかった。

 ◇

 電車を二本乗り継ぎ、終着駅からはさらに一時間に一本のバスに揺られること四十分。

 懐かしい、だが思い出したくもない景色が車窓を流れていく。山と川に挟まれた、閉塞感のある盆地。ここが俺の故郷、神鳴町だ。

「終点、神鳴役場前ー」

 気の抜けたアナウンスと共にバスを降りる。ひんやりとした、緑の匂いが混じった空気が肺を満たした。

 目の前に広がるのは、俺が逃げ出した六年前と寸分違わぬ、いや、それ以上に寂れた光景だった。ほとんどの店のシャッターが錆びつき、人影はまばら。道のど真ん中を、猫が悠然と横切っていく。

「……終わってんな、この町」

 思わず悪態が漏れた。

 重い足取りで、古びた三階建ての役場庁舎に入る。ペンキの剥げた壁、薄暗い廊下。時の流れが止まっているかのようだ。

「ああ、八神さんだね。話は聞いてるよ。さあ、こっちだ」

 人の良さそうな初老の職員に案内され、地域振興課と書かれたプレートの前に立つ。

 最悪だ。町おこしだのなんだの、一番面倒くさそうな部署じゃないか。

「失礼しますよー。清川くん、新しい人が来たから」

「はーい!」

 課長の言葉に、奥のデスクから溌溂とした声が返ってきた。

 その声に、俺は心臓が嫌な音を立てるのを感じた。まさか。いや、そんなはずはない。同姓同名の別人だ。そうに決まってる。

 一人の女性職員が、書類の山を抱えて立ち上がる。

 ふわりとした栗色の髪。ぱっちりとした大きな瞳。高校時代と変わらない、整った顔立ち。

 彼女は俺の顔を見て、ぱちくりと瞬きをした。その大きな瞳が、次の瞬間、信じられないものを見るようにカッと見開かれる。

「や、八神……宗介……くん?」

 ああ、神様。俺はアンタを信じちゃいないが、今日ほど呪った日はないぜ。

 そこに立っていたのは、俺の高校三年間における最大の天敵。俺の青春時代のすべてを否定し続けた、クソ真面目な元生徒会長――清川紬、その人だった。

「……清川、紬……」

 俺の呟きは、絶望の響きを帯びていた。

 最悪の地で、最悪の再会。俺の平穏な日々は、今日、完全に終わりを告げた。


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