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第27話 奇跡と、物理法則の敗北

 ニヴェア城での生活も、早数日が経過した。テオとの同室生活は悪くないし、食事も美味い。アリュールとの定期的な視察も順調だ。

 だが、俺の中に潜む英雄としての魂が、こう告げている。「平和すぎて退屈だ」、と。


「ふぁぁ……。暇だな」


 俺は広すぎるベッドの上で大の字になり、天井を見上げながらあくびを噛み殺した。こういう時は、小さい頃故郷である日本で見ていた娯楽が恋しくなる。確か、日曜の朝にやっていた、変身ヒーローものの番組があったはずだ。あれを見て、俺はよく必殺技の練習をしたものだが……。


(……あれ? なんというタイトルだったか?)


 ふと、記憶の糸を手繰り寄せようとするが、指先からスルリと抜け落ちていくような感覚に襲われた。番組名どころか、どんな主人公だったかすら、もやがかかったように思い出せない。背筋が一瞬、冷やりとした。


(……ま、些細なことか。過去を振り返らないのが英雄の条件だからな。それより今は、未来の話だ)


 俺は強引に思考を切り替え、ベッドから跳ね起きた。ただ寝ているだけでは体が鈍る。今日は一つ、この国の技術レベルを査定してやるとしよう。狙うは、第三王子ラファルの研究室。この世界における「魔法技術」の最先端がどのようなものか、俺の厳しい目でチェックしてやる必要がある。


 俺は身支度を整え、意気揚々と廊下へと繰り出した。


 石造りの廊下を、マント(代わりのシーツ)を翻しながら歩く。すれ違う兵士たちが、敬礼をしたり、遠巻きにヒソヒソと噂話をしたりしているのが心地よい。


「あ! ユウだー!」


 廊下の角を曲がったところで、鈴の鳴るような愛らしい声が響いた。小さな影がパタパタと駆け寄ってきて、俺の足にぎゅっと抱きつく。この国の皇女であり、俺が守るべき小さきレディ、イシュタルだ。


 「よう、イシュタル。今日も元気そうだな」

 「うん! ユウにあえてうれしい!」


 イシュタルは花が咲いたような笑顔で俺を見上げている。

 (ふむ、顔色も良いな。あの頃の原因不明の頭痛も、ここ数日はすっかり収まっているようだ。やはり、俺という『特効薬ヒーロー』がそばにいる安心感が、彼女の病魔を退けているのだろう)


 「ユウはどこいくの? たんけん?」

 「ああ、そうだ。この城の魔導技術を視察しにな。ラファルとかいう眼鏡王子の研究室へ行くところだ」

 「ラファルお兄様? わたしもいく! 一緒に行く!」

 イシュタルが俺の手を握り、瞳をキラキラさせてせがんでくる。

 「よかろう。姫のエスコートもまた、英雄の務めだからな」


 こうして俺たちは手を繋ぎ、ラファルの研究室がある区画へと向かった。  イシュタルは上機嫌で鼻歌を歌いながら、スキップ交じりに歩いている。平和な光景だ。


 「おや?」

 研究室の近くに差し掛かった時だ。  廊下の向こうから、俺の背丈ほどもありそうな、大量の書物や羊皮紙の山が、ふらふらと歩いてくるのが見えた。  いや、よく見ればその山の下から、華奢な足が生えている。どうやら小柄な人物が、前も見えないほどの荷物を抱えて歩いているらしい。


「あ、あわわ……お、落ちそうですぅ……」


 今にも崩れそうな資料の山から、情けない声が聞こえてくる。  俺たちがその脇を通り抜けようとした、その瞬間だった。

 「きゃっ!?」


 何もない平らな床で、その人物は盛大につまずいた。抱えていた資料が宙を舞い、バサバサという音と共に、廊下一面に散乱する。

 「うぅ……やってしまいました……」


 雪崩の中心でへたり込んでいたのは、栗色の髪を三つ編みにした、あどけない少女だった。ずり落ちかけた分厚い眼鏡を慌てて指で押し上げ、涙目になりながら周囲の惨状を見渡している。

 「あーあ、ちらかっちゃったね」

 イシュタルが無邪気な声を上げる。


(ふむ……。何もないところで転ぶとは。さては、俺から溢れ出る覇気オーラに当てられて足がすくんだか? あるいは、英雄である俺に対し、無意識に平伏しそうとしてバランスを崩したか……)


 どちらにせよ、俺のカリスマ性が招いた事故だ。ならば、手を貸してやるのが強者の慈悲というものだろう。俺は膝をつき、散らばった紙の一枚を拾い上げた。

 「大丈夫か? 名もなき眼鏡の乙女よ」

 「は、はいっ……! も、申し訳ありませ……ひゃっ!? イ、イシュタル様!?」


 少女は俺の顔を見て驚き、さらに俺の後ろにいるイシュタルに気づいて、飛び上がるほど仰天した。眼鏡の奥の瞳をパチクリとさせ、顔を青くしたり赤くしたりしている。俺は拾い集めた資料を整え、彼女に差し出す。心の中では「これぞ日本の伝統芸、レディファースト」とドヤ顔を決めながら、あくまで涼しげな微笑みを浮かべてみせた。


 「気にするな。俺の前に立つ者は、皆すくみ上るものだ。……怪我はないな?」

 「は、はい……!あ、あと、荷物お持ちします!」

 少女――セレスは慌てて手を伸ばしてきたが、俺はそれを制した。

 「構わん。どうせ行き先は同じだろう? ラファルの研究室だな」

 「は、はい……。どうしてわかったんですか?」

 「ふん、英雄の勘というやつだ(というか単純に、こんな大量の魔導書を運ぶ場所などそこしかないだろう)」


 俺は資料の山を軽々と抱え上げると、先導するように歩き出した。

 「ユウ、ちからもちー!」

 イシュタルが俺の腰のあたりに抱きつきながら嬉しそうに言う。セレスは

 「うぅ、申し訳ないです……」

 と恐縮しながら、小走りで俺たちの後をついてくる。


 研究室の重厚な扉を開けると、そこには薬品独特の鼻をつく匂いと、何かが煮えるような音が充満していた。部屋の中央には巨大な実験台があり、無数のフラスコやビーカーが所狭しと並んでいる。


 「……チッ。また安定しないか」


 実験台の奥で、ラファルが不機嫌そうに舌打ちをしていた。彼は白衣のような長いローブを羽織り、目の前のフラスコを睨みつけている。その紫色の瞳には、疲労と苛立ちの色が濃く滲んでいた。


 「ただいま戻りました、ラファル様! その、資料をお持ちしました!」

 セレスが声を上げると、ラファルはこちらを振り向いた。そして、俺とイシュタルの姿を認めると、驚いたように目を見開いた。


 「イシュタル? それに……なぜそこに異物までいる?」

 ラファルは冷ややかな視線を俺に向けた。

 「勝手に入ってくるなと言ったはずだが、ユウ。ここは神聖な探求の場だ。君のような非論理的な存在がいていい場所じゃない」


 手厳しい挨拶だ。だが、俺は気にせず資料を机の上にドンと置いた。

 「そう邪険にするな。今日はイシュタルと共に調査しに来てやったのだ。それに、お前の可愛い助手が廊下で行き倒れていたのを、この俺が拾ってやったんだぞ」

 「い、行き倒れてなんかいません! ちょっと転んだだけで……!」

 セレスが顔を真っ赤にして抗議する。


 「ラファルお兄様、だめだよ。ユウはいい人だよ!」

 イシュタルが頬を膨らませてラファルに抗議する。妹にそう言われては、さすがのラファルも強くは言えないようだ。彼は小さくため息をつき、再び手元のフラスコに視線を戻した。

 「はぁ……。わかったよイシュタル。だが、触っちゃだめだぞ。危険な薬品もある」


 フラスコの中では、青い液体がブクブクと泡を立てている。

 「それで? 何をそんなに苦戦しているのだ? 天才の俺に言ってみろ」

 俺が横から覗き込むと、ラファルは煩わしそうに手を振った。

 「君には関係ない。……『星雫草ホシシズクソウ』の抽出だ。この草の薬効成分は熱に極端に弱い。直火だとすぐに成分が変質してしまうし、火を弱めれば抽出が進まない。この微妙な熱加減の調整に、もう三日も徹夜している」


 「へぇ、そんなことで悩んでいるのか」

 俺は鼻で笑った。 「そんなことだと? 君にこの繊細さが……」

 「貸してみろ」

 俺はラファルを強引に押しのけ、実験器具の前に立った。


 「おい! 何をする気だ!」

 「見ていろ。これが俺の故郷に伝わる、古代の秘儀だ」


 俺は近くにあった一回り大きなビーカーに水を張り、火にかけた。そして、お湯が沸騰し始めたところに、星雫草の入ったフラスコをゆっくりと沈める。

 いわゆる湯煎ゆせんだ。チョコレートを溶かす時などに使う、初歩中の初歩である。


 「なっ……!? 水を媒体にするだと!?」

 ラファルが驚愕の声を上げた。

 「水は沸騰しても一定の温度(100度)以上にはならない。こうすれば、急激な温度変化を防ぎつつ、全体を均一に温めることができる。……どうだ?」


 数分後。フラスコの中の青い液体は、濁ることなく澄んだまま、キラキラと輝く結晶のような粉末を底に残し始めていた。完璧な抽出だ。


 「わあ、きらきらしてるー!」

 イシュタルが目を輝かせて歓声を上げる。


 「……馬鹿な。あんなに苦労していた温度管理が、ただの『水』ひとつで解決するなんて……」

 ラファルは呆然とフラスコを見つめている。横にいたセレスが、眼鏡を輝かせて身を乗り出した。 「す、すごいですユウ様! まるで奇跡きせきみたいです!」


「奇跡、か」

 その言葉に反応したのはラファルだった。彼はフラスコを手に取り、複雑な表情で俺を見た後、静かに、しかし断固とした口調で言った。

 「セレス、訂正したまえ。これは奇跡などではない」

 「えっ……? でも……」

 「この世界に、無から有を生む奇跡などという都合の良いものは存在しない。あるのは等価交換と、物理法則のみだ。……この男がやったことも、水の特性を利用しただけの、極めて論理的な物理現象に過ぎない」


 ラファルは悔しそうに唇を噛み、それからフッと自嘲気味に笑った。

 「……だが、その発想はなかった。悔しいが、礼を言おう。おかげで研究が一歩進んだ」


 (ふん、物理現象だと? 素直に俺の超魔術を認められないとは、相変わらず頭の固い男だ)

 俺は心の中で苦笑しつつ、セレスたちの方を向いた。

 「見たか、眼鏡の乙女よ。そしてイシュタル。これが英雄の知恵だ」


 「は、はいっ! すごいです! ユウ様のこと、尊敬しちゃいます……!」  セレスは尊敬の眼差しで俺を見上げ、あろうことかメモ帳を取り出して「ゆせん、ゆせん……」と書き込み始めた。

 「ユウ、すごいすごい! 天才だー!」

 イシュタルもパチパチと手を叩いて喜んでいる。


 (クックック……。ラファルは手強いが、この助手と幼き皇女は随分とチョロ……いや、素直で良い子たちだな)


 俺は上機嫌になり、ふとポケットに入っていた「ある物」を思い出した。 「そうだラファル。ついでに、この薄汚い紙切れの意味を推定してもらおうか」

 俺は書庫で拾った、ミミズがのたうち回ったような文字が書かれた羊皮紙を取り出し、この前見た部分の裏をラファルに投げ渡した。


 「……なんだこれは? 随分と古い羊皮紙だが」

 ラファルは怪訝な顔でそれを受け取り、眼鏡の位置を直して凝視する。しかし次の瞬間、彼の表情が驚愕に変わった。

 「こ、これは……! 見たことのない文字配列だ。古代カイラ語……いや、それよりも更に古い原初の言語か? 解読不能だ……」


 「あん? 何言ってるんだお前は」

 俺は呆れて羊皮紙を覗き込んだ。

 「どこからどう見ても『黒き太陽が昇る時、星からの旅人が黄金の龍を目覚めさせる』って書いてあるだろうが。ただの厨二病全開のポエムだぞ」


 「は……? き、君にはこれが読めるのか……?」

 ラファルが信じられないものを見る目で俺を凝視する。

 「当然だ。俺の語学力インテリジェンスを舐めるなよ」

 (ふん、やはりこいつには芸術的センスが足りないようだな)


「……ユウ。君は一体……」

 ラファルが何かを言いかけたが、俺は「退屈しのぎにはなったぞ」と背を向けた。

 「ではな。また気が向いたら来てやる」


 こうして俺は、ラファルの研究室という新たな暇つぶし場所(拠点)と、二人の新たな信者を手に入れたのだった。

 上機嫌で研究室を出ると、廊下の窓の外はどしゃ降りの雨だった。遠くで雷も鳴っている。


 「む……。さっきまで晴れていたというのに、変わりやすい天気だな」

 イシュタルが「あーあ、あめだー」と残念そうに窓に張り付いている。

 これでは、城への帰り道で濡れてしまうではないか。俺は空を見上げ、不満げに鼻を鳴らした。


 「まったく、無粋な空だ。英雄である俺が、これだけの成果を上げて凱旋するというのに、泥水で足元を汚せというのか? ……ええい、鬱陶しい」

 

 俺が苛立ち交じりにそう吐き捨てた、次の瞬間だった。


 カッ!  と強烈な光が差し込み、分厚い雨雲が、まるで何かに恐れをなしたかのように急速に左右へと退いていった。ほんの数秒で雨は止み、雲の裂け目から黄金色の太陽がスポットライトのように俺たちを照らし出す。


「わあ! はれたー! ユウ、すごい! お空とお話したの?」

 イシュタルが無邪気にはしゃぐ。

(ふっ、偶然にしては出来すぎだな。どうやらこの世界の天候も、俺の機嫌を損ねるのを恐れたと見える。当然の配慮だ)


「ああ、そうだイシュタル。太陽も俺の引き立て役になりたかったのだろう」

 俺は満足げに頷き、乾き始めた石畳を歩き出した。  背後の研究室の窓から、ラファルが空を見上げ、

 「きょ、局地的な高気圧の発生……? いや、気象学的におかしい……ありえない……物理法則が……」

 と頭を抱えていることなど知る由もなく。

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