第11話 最終奥義、ただしペン書き
敵の軍と思われる集まりは、血のように赤黒く、見る者の不安を煽るような歪な獣の紋章を禍々しげに掲げている。
獣じみた鬨の声、女子供の悲鳴にも似た絶叫、そして剣戟の甲高い音、鎧が擦れ合う鈍い摩擦音、それらがそこら中で鳴り響き、戦場特有の狂騒曲を奏でている。
その喧騒の中心へ、アリュールはまるで戦場の女神のごとく、銀閃を振りまきながら颯爽と飛び込んでいった。
(そうだ、俺もシルヴァンを助けるためだ! ぐずぐずしてはいられない!)
(選ばれた英雄として、この世界で与えられたであろう魔法の力を、今こそ示す時ではないか!)
ふと、古典的ながらも確実な効果を期待できそうな魔法が頭に浮かんだ。
(そうだ、まずは基本中の基本、水を操る魔法で敵の視界を奪い、アリュールの援護をするのが定石だろう! よし!)
俺は右手を敵兵に向け、大きく振りかぶり、確信を込めて叫んだ。
「ウォーター!」
……シーン……
何も起こらなかった。手からは一滴の水も、湿気すらも感じられない。
(おかしい。なぜだ? 選ばれた英雄であるこの俺が、初級魔法の代表格であるウォーターすら使えないとは、一体どういうことだ!?)
しばしの混乱の後、俺の脳裏に1つの光明が差した。
(いや、待て! そう焦ることはない。この世界では、俺が知る魔法の法則とは発動条件が根本的に異なるのかもしれない!)
(例えば、特定の複雑な詠唱文言や、高度な精神集中による魔力制御、あるいは希少な触媒が必要とされる可能性も大いにある。そうだ、きっとそうに違いない!)
(俺ほどの英雄に選ばれた存在が、才能の欠片もないなんてありえないのだから! これはきっと試練なのだ。神が与え給うた、俺の内に眠る計り知れない真の力を引き出すための、最初の、そして重要なステップなのだ!)
(考えてみれば、この世界に来てからまだ何の修行も、魔法の練習すらしていないのだからな! いきなり伝説級の魔法が使えなくて当然と言えよう!)
(むしろ、この程度のことで諦める俺ではないと、天はこの俺の器を試しているに違いないのだ! よし、まだだ、まだ俺は諦めんぞ!)
思考を巡らせているまさにその時、俺の甘い考えを打ち砕くように、前方から隙を狙っていた棍棒持ちの男二人が、獣のような雄叫びを上げながら同時に襲いかかってきた。
絶体絶命かと思われたその瞬間、再びアリュールが疾風のごとく現れ、目にも留まらぬ剣閃で俺の前に立ちはだかり、男たちの攻撃を的確に弾き返してくれた。
(くっ……! せっかく俺の隠された力の一端を示そうと思ったのに、これでは守られてばかりではないか! 英雄としての面目丸つぶれだ!)
その刹那、俺の背後から新たな敵の気配を感じた。
油断していたわけではないが、完全に不意を突かれた形だ。
「ユウさん! 申し訳ありません、そちらをお願いできますか!? こちらは私がなんとかしますので、それまで何とか時間を稼いで逃げてください!」
アリュールが悲痛な叫びにも似た声で指示を出す。
(この絶体絶命、四面楚歌の状況で逃げろだと!? 無茶を言ってくれる!)
(だが、アリュールがそう言うのなら、何か考えがあるのかもしれない……いや、ここは俺が英雄としての資質を示す時だ!)
とにかく時間を稼がねばなるまい。
俺は必死に走りながら、万能アイテム収納スペースである学生鞄の中を漁った。
すると、高校時代に使っていた、くたびれた学生手帳と、使い慣れたボールペンが指先に触れた。
これだ!
俺はそれらを掴み出すと、学生手帳のメモページを勢いよく開き、ペンを走らせた。
そこに描き出すのは、かつて俺が夜を徹して読み耽った伝説的漫画『異世界転生したら魔王だったけどスローライフ希望』の主人公が、幾度となく絶体絶命のピンチを覆し、敵を殲滅してきたという、あの伝説の『終焉を告げる禁断魔法陣』!
記憶を頼りに、一気にそれを描き上げる。
(間違いない、この魔法陣だ! この世界に召喚された俺が、この学生手帳を偶然にも持っていたのは、全てはこの時のため! この一撃に、俺の英雄としての全てを賭ける!)
「最終奥義! 天地鳴動、万物終焉の刻!!」
俺は渾身の力で、そう叫んだ。
先程同様、魔法的なエフェクトは一切起こらなかった。肩透かしもいいところだ。
しかし、その瞬間、俺の鬼気迫る表情と、学生手帳から放たれる(と俺だけが強く信じている)圧倒的な魔力のプレッシャーに気圧されたのか、背後の男は一瞬、その凶暴な目を大きく見開き、動きを止めた。
まるで、見えざる何かの力によって金縛りにでもあったかのように!
(効いている! やはり俺の英雄としての覇気、そしてこの禁断魔法陣のオーラは本物だ!)
しかし、相手も歴戦の戦士。何も起こらないと悟ったのか、あるいは俺のハッタリを見抜いたのか、すぐに獰猛な笑みを浮かべて再び棍棒を振りかぶってきた。
だが、その時にはもう遅い。
俺が稼いだ(と信じたい)貴重な数秒の間に、アリュールが先程の敵を瞬く間に片付け、振り向きざまに投げた短剣が、その男の胸に見事に突き刺さった。
男は短い呻き声を上げ、崩れ落ちた。
再び、人の命が目の前で消えた。
やはり、何度体験しても、人の死というものに慣れる日が俺に来ることはないのかもしれない。
胸の奥が冷たくざわめく感覚は消えない。
しかし、シルヴァンを助けるため、そして真の英雄になるためにも、この血塗られた道すらも乗り越えなくてはならないのだと、俺は改めて強く、強く実感したのだった。