第10話 初めての死線
馬車を降り、生い茂る草木を掻き分けながら、俺はアリュールの背中を追っていた。
鬱蒼とした森は、まるで日本の奥深くにある原生林、白神山地か屋久島のようにも見える。
太陽の光すら遮るほどの緑の濃さに、一歩でもアリュールと離れたら、たちまち深い森の迷宮に囚われてしまいそうだ。
足元は湿り気を帯び、土の匂いと草の香りが鼻腔をくすぐる。
「急いで砦に向かいましょう! 頑張ってついてきてください!」
前を走るアリュールが、振り返りもせずに俺に声をかけてくる。
まだ走り始めてからほんの数分しか経っていないはずなのに、俺の体は既に悲鳴を上げ始めていた。
心臓は早鐘のように打ち、肺は焼けるように熱い。
(おかしい。日本にいた頃は、持久力にはそれなりに自信を持っていたはずなのだが……これも異世界の重力とか、空気密度のせいだろうか? あるいは、敵軍の何らかの呪詛の類か?)
(まさか、アリュールの運動能力が規格外の化け物レベルだというわけでは……いや、あの重そうな剣を軽々と扱い、俺よりも圧倒的な速度で森を駆け抜ける姿を見ていると、それも十分にあり得る)
俺も最低限の荷物しか持っていないとはいえ、その差は歴然だ。
必死にアリュールの背中を追いかけていると、けたたましい鳥の鳴き声が森の静寂を破った。
その時だった。
アリュールの少し横の、深く茂った草むらから、突然、見慣れない男が飛び出してきた。
ニヴェアの兵士たちが身につけているような洗練された鎧とはかけ離れた、粗野で動きやすそうな革の装束。
屈強な肉体は見るからに鍛え上げられており、その手には、まるで伝説の巨人族が使うような、太く、節くれだった棍棒が握られている。
顔には獣のような刺青が施され、その眼光は獲物を捉える猛獣のように鋭い。
「ザルガンディアの人です! ユウさんは私の裏に隠れてください!」
アリュールは即座にそう叫び、俺を背中に庇うようにして、流れるような動作で剣を構えた。
その横顔は、もはやただの優しいお姉さんではなく、獲物を前にした孤高の戦士のそれだった。
(ほう、これが噂のザルガンディアの戦士か。なるほど、なかなか屈強そうではないか)
(ここで俺が隠れて、アリュールに華麗な戦いを見せてもらうのも悪くない。むしろ、この絶好の機会に、アリュールの実力、そして俺に対する忠誠心のようなものを見極めてやろうではないか!)
(もし彼女がこの程度の敵に手間取っているようなら、俺が奥の手、『無名神影流最終奥義・雀刺し』(ただの目潰し)で助けてやるのもやぶさかではないぞ!)
男は、アリュールなど眼中にないと言わんばかりに、その巨大な棍棒を俺めがけて振り被った。
風を切る音が鈍く響く。
まさにその時、アリュールが信じられない速さで俺の前に躍り出た。
彼女の持つ、美しく磨き上げられた剣が、まるで生きているかのようにしなり、男の振り下ろした棍棒をいとも容易く弾き飛ばした。
けたたましい金属音と共に、棍棒は大きく軌道を変え、近くの木に激しく叩きつけられた。
そして、その一瞬の隙をついて、アリュールの剣が男の胸へと深々と突き刺さった。
その動きはあまりにも速く、まるで時間が止まったかのようだった。
アリュールの強さを理解するには、この数秒で十分すぎるほどだった。
男の口からは、濁った血が堰を切ったように溢れ出し、苦悶の表情を浮かべたまま、その場に崩れ落ちた。
絶命したのだ。
日本で、平和な現代日本で生きてきた俺にとって、人の死をこんなにも間近で目にするのは初めてだった。
いや、両親の……そうだ、両親が事故で亡くなった時のことは、ぼんやりとしか覚えていない。
だから、記憶が確かな限りでは、今、目の前で起こったこれが初めての人の死だ。
鉄錆のような生臭い血の匂いが、森の湿った空気と混じり合って鼻をつく。
動かなくなった敵兵の虚ろな瞳が、まるで俺の心の奥底を覗き込んでいるかのようで、俺は咄嗟に目を逸らした。
生きた人間が、ほんの数秒前までそこにいた人間が、今はもう動かない。
その事実に、俺は言葉を失い、足が地に着かないような、奇妙な浮遊感に襲われた。
心臓がドクドクと嫌な音を立て、胃のあたりが氷のように冷たくなった。
これが、人が死ぬということなのか。
この先、この異世界で生きていく中で、俺は何度もこのような光景を目にするのだろうか。
その度に、俺は今と同じように衝撃を受け、立ち尽くしてしまうのだろうか。
俺は、この世界の残酷さに、いつか慣れてしまうのだろうか。
そんなことを考えていると、
「ユウさん! 何やってるんですか! ぼうっとしてないで、早く行きましょう!」
アリュールが、先程まで人が死んでいたとは思えないほど普段と変わらない、むしろ少しばかり急かすようなテンションで俺に呼びかけてきた。
彼女の瞳には、先程の戦闘の痕跡すら見られない。まるで、そこに落ちている男など、ただの道端の石ころか何かのように。
(アリュールは、この異世界の現実に、死というものに、もう慣れてしまっているのだろうか。その強さは、戦闘能力だけでなく、精神力にも裏打ちされているようだ)
アリュールに急かされるまま、俺は先程の男の死体を頭の片隅に追いやりながら、彼女の後を追った。
(アリュールやイシュタル、そしてこれから出会うであろう仲間たち……彼らには、こんな目に遭ってほしくない)
(この異世界で、笑顔で生きていてほしい)
(そのために、ニヴェアのために、この世界のために、俺にできること、いや、俺にしかできないことがあるはずだ。この力で、この知識で、必ずみんなを守ってみせる)
そう心に固く誓っていると、
「もうそろそろ砦の手前です! ニヴェアの軍の皆さんと合流して、砦の中にいるシルヴァン様を早く助けに行きましょう!」
アリュールが、前方に見えてきた開けた場所を指さしながらそう言った。
そこには、巨大な砦が夕焼け空を背景にシルエットを浮かび上がらせていた。
そしてその前では、夥しい数の人間たちが、武器をぶつけ合い、怒号を上げながら激しくぶつかり合っている。
その光景が、目に飛び込んできた。