第5話 親たちの会談②
会談の後、公爵は伯爵を丁重に送り出す形をとったが、伯爵の足取りは重く沈んでいた。帰りの馬車の中で、伯爵は窓の外に広がる賑やかな王都の街並みをぼんやりと眺める。どんなに活気に満ちた景色でも、今の彼には灰色に見えるような気がした。
「リリアーナ、お前は本当にそれでいいのか……」
心の内で思わず声を漏らす。もしリリアーナの病の真実を公爵に伝えれば、同情や支援が得られる可能性はあるかもしれない。しかし、リリアーナ本人がそれを決して望まないだろうし、伯爵家の名誉のためにも伏せておかなければならない事情がある。何より、リリアーナが「誰にも悲しまれずに去りたい」と願っているとすれば、その思いを踏みにじることになる。
館に戻った伯爵を出迎えた夫人も、緊張した面持ちで夫の顔をうかがう。夫の憔悴した姿からすべてを察したのだろう。夫人も小声で尋ねる。
「どうだったの……」
「最悪の事態はまだ先延ばしになったが、いずれ同じ結論に行き着きそうだ。公爵様もご子息の将来を思えば、婚約解消に傾くのはやむを得ないことだ……」
夫婦は息を揃えて沈黙する。娘の孤独な戦いと、その戦いの向かう先にあるであろう婚約解消という結末。伯爵家にとっては、名声を守るための婚約だったはずが、今や噂が逆風となってのしかかっている。かといって、娘を無理やり説得すれば彼女の心は壊れてしまうかもしれない。
「私たちには、どうすることもできないのかしら。リリアーナは何もかも背負い込んで、あんなふうに乱暴な真似ばかり……」
夫人が小さく涙を浮かべる。それを見て、伯爵も胸が苦しくなる。娘への深い愛を抱えながらも、その思いにまったく応えられない自分に苛立ちさえ感じていた。どこかで一縷の望みを繋げられればいいが、リリアーナの意志は固く、病の進行も日を追うごとに厳しさを増している。伯爵は唇をかみしめ、しばし俯いたまま動かない。
その夜、エヴァンス伯爵家の廊下には冷え切った風が流れる。リリアーナは父母と顔を合わせることなく、自室にこもっていた。伯爵は娘と話し合おうと何度か思ったが、部屋の扉を叩く勇気が出ない。結局、娘を孤立させたまま時が過ぎてゆく。
「公爵様が再び動く前に、何とかしないと……」
伯爵は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。親として娘を見放すつもりはない。だが、娘がいつまでたっても心を開いてくれない限り、どうしようもないのが現実だ。公爵家との結びつきを維持できれば、リリアーナが少しでも自分の将来について考え直すチャンスがあるかもしれない。むろん、娘の病を治す手立てがあればそれに越したことはないが、主治医クレイグの見立ても芳しくはない。
暗い部屋の中でただ時間が経つのを待つよりほかないという焦燥感が、伯爵の胸をかき乱す。遠くで夜警の足音が響き、家臣が灯りを消して回る気配を感じたころ、伯爵はようやく立ち上がった。今夜はもう何もできない。せめて眠りにつき、明日こそ娘と話せる隙を探そう――そう思い、静かな足取りで廊下を進んでいく。
けれど、その先に待ち受けるのは、噂に煽られたさらなる争いかもしれない。伯爵家と公爵家の間に横たわる溝、リリアーナの病がもたらす陰り、そして彼女が信じる“誰にも悲しまれないようにする”ための孤独な行為。あらゆる歯車が噛み合わず、伯爵の背中はますます重たく沈んでいく。
夜の帳が降りる中、彼は心の底で娘を案じながら、その思いを誰にも吐露できないまま自室へと消えた。その背には、公爵との会談で突きつけられた「破棄」の予兆がじわりと染みついているようだった。いずれ婚約が解消となれば、リリアーナは本当に全てを失い、かつ彼女の望む「無関心」を得るのかもしれない――その可能性が、闇のように伯爵の胸へと入り込んでいった。