第4話 波紋広がる社交の場②
そんな中、ある日の午後にアルベルトが不意に伯爵家を訪ねてきた。突然の来訪に、執事は一瞬慌てたが、アルベルトの真摯な態度を見て客間へ通す。そこにリリアーナが姿を現したのは、ほんの十数分後のことだった。白いドレスをまといながらも、彼女の顔は明らかに不機嫌そうな影を落としている。
「ごきげんよう、アルベルト様。まさかこんな急にお越しになるとは思わなかったわ」
その言葉には歓迎の色は皆無で、むしろ邪魔者を見るかのような冷え冷えとした響きがある。アルベルトは苦い顔をしながらも、彼女から目を逸らさずに答えた。
「急に押しかけてすまない。少し話がしたくて来たんだ」
「お話? もし婚約解消の申し出なら、喜んで聞かせていただくけれど」
「……どうして君はいつもそうやって話を逸らすんだ」
アルベルトがぎこちなく苦笑すると、リリアーナはソファに腰を下ろし、侍女が用意した茶には手をつけずに脚を組む。まるで彼を睨むかのように視線を走らせている。執事や侍女が同席しようとしたが、アルベルトの意向もあって二人きりの応接になった。
「逸らしてなどいないわ。そもそも、あなたが私と話す必要なんてあるかしら。噂通りの冷酷な女性と婚約するのが嫌なら、何もかも破棄すればいい。それだけのことではなくて?」
「確かに、周囲はそう言っている。僕の父も含めて、君との縁を考え直せと勧められているよ。でも、僕はまだ確かめたいんだ。なぜ君はそんなに自分を傷つけるような態度を取り続けるのか」
アルベルトの問いには、微妙な思いをはらんだ沈黙が返る。リリアーナの胸はきりきりと痛むが、それでも表情を崩さない。しばしの後、彼女はわざと鼻で笑うように息をつき、言葉を投げつけた。
「自分を傷つけている? よく言うわね。私がどう振る舞おうと、あなたには関係ないでしょう。私は私の好きなように過ごしているだけよ」
「君は、本当にそれでいいのか?」
「ええ。私がどれだけ周囲から嫌われようと、一向に困らないわ。むしろ快適にさえ思っているの。だから、あなたも余計な感傷を持たないで。公爵家として大事をとって、私のもとを去りたいなら、それに越したことはないわ」
その言葉に、アルベルトの瞳が苦しげに揺れる。彼は近づいてテーブル越しにリリアーナを見つめるが、彼女はそっぽを向いてしまった。まるで、彼を突き放すことだけが目的のように見える。その冷淡さに、彼は混乱しつつも、ふとした瞬間に感じる違和感を拭い去ることができない。
実は先刻、使用人が落としかけた花瓶をリリアーナが素早く手で支え、割れずに済んだ場面に遭遇していた。後でその使用人を大声で叱咤したのは確かだが、あの一瞬、リリアーナはとっさに花瓶を守ろうと動いていたのだ。もし本当に無慈悲な人物であれば、花瓶など放置して使用人に責任を負わせればよかったはず。それを見てしまったアルベルトは、彼女があからさまに意地悪を演じているようにしか思えず、混乱しているのである。
「君は……何かを隠しているだろう。そうでなければ、あまりにも辻褄が合わない」
「あなたに教える義務はないわ。私の事情を探ろうとするなら、ただの時間の無駄よ」
リリアーナの声は突き放すようだが、アルベルトの胸には苦しいほどの疑問が残る。彼女が一瞬見せた優しさ。そして、わざと作り上げているようにしか思えない悪評。なぜそこまでして人を遠ざける必要があるのか。答えを迫りたい気持ちは強いが、その先には激しい拒絶があるだけだと分かっているからこそ、踏み込めない自分がもどかしい。
「わかった。今すぐ婚約をどうこう言うつもりはないけれど、僕は……」
彼が言いかけたとき、リリアーナは急に顔を背けて立ち上がった。まるで彼の言葉すら聞く価値がないというように、ドレスの裾を翻す。もともと体調がすぐれない彼女にとって、これ以上会話を続けるのは苦痛でもあるし、アルベルトとのやりとりが動揺を呼ぶことも避けたいのだ。
「出ていってちょうだい。あなたに費やす時間などないわ」
手厳しい追い払いの言葉に、アルベルトは二の句が告げないまま立ち尽くす。彼女の侍女が申し訳なさそうにドアを開けるのを見て、仕方なくその場を退出するしかなかった。
廊下を引き返すアルベルトを見送りながら、屋敷の使用人たちはどこかいたたまれない面持ちだ。彼女がわざと追い立てるように冷酷ぶりを演じていることを察する者もいるが、それを止める力は誰も持っていない。結局、彼は無念のまま馬車に乗り込み、エヴァンス伯爵家を去っていった。
その夜、王都ではさっそく「アルベルトがリリアーナのもとを訪れたが、ひどく冷淡に扱われた」との噂が駆け巡る。早い者は「もう婚約解消間近らしい」と言い始め、社交サロンの貴婦人たちは口々に「あの伯爵令嬢は常軌を逸している」と評する始末だ。アルベルトの父公爵にしてみれば、ますます息子の将来を案じる要因となるだろうし、リリアーナ自身の家名にも泥を塗る形となる。
そして当のリリアーナは、寝室で一人きりになったときにほんのわずかの弱音を吐きながら、次なる覚悟を固めていた。もし自分の死が近いのだとしたら、一刻も早く周囲を遠ざけ、アルベルトをはじめ誰にも未練を持たせないようにする。それこそが今の彼女にできる唯一の優しさだと思っているのだ。
「いずれ、こうするしかなかったのよ……」
かすれた声でそうつぶやいて枕に顔を埋め、こみ上げる涙を押し殺す。心臓の痛みは依然として胸を締めつけ、息苦しさまで伴うが、薬を飲んでどうにか朝を迎えねばならない。翌日も、また同じように高慢な伯爵令嬢を演じ続けることで、誰もが彼女を敬遠し、婚約解消の声を高めるだろう。
アルベルトの混乱と苦悩、リリアーナの歪んだ決意。それぞれの思惑がすれ違う中で、周囲の噂は絶え間なく燃え広がっていく。宵闇が深まるほどに王都の灯が揺れ、ほんのかすかな希望までも霞ませるかのように。彼女の病が刻む時間と、世間の容赦ない風評が交差し、二人の道は少しずつ離れ始めているようにも見えた。