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第4話 波紋広がる社交の場①

 王都の朝は早い。昼間には人や馬車が行き交い、商店の軒先もにぎわうこの街も、明け方にはまだ静かな空気に包まれている。そんな中、貴族たちの情報は夜が明ける前から動き出す。侍女や従者の口を介して流れた噂話は、いつしか街角の社交サロンへと伝わり、貴族の屋敷に連なる使者を通じて増幅していくのだ。


 数日前、伯爵令嬢リリアーナ・フォン・エヴァンスが夜会で見せた高慢な態度は、すでに多くの人々の耳に届いていた。もともと彼女の悪評は王都に広がっていたが、ここにきてその勢いがさらに加速している。彼女が公爵家嫡男のアルベルト・レオンハルトと婚約しているという事実も手伝って、好奇の目は一層厳しくなり、あれこれと臆測を呼んでいた。


 昼下がりの王宮付近にある貴族向けの菓子店。そこでは朗らかな雑談を装いつつ、最新の社交界情報がこっそり交換されている。店の奥で茶を嗜む令嬢たちは、まるで自分はさほど興味はないという風情を装いながらも、「リリアーナが召使いを泣かせた」という噂を面白おかしく言い立てていた。


「聞いた? エヴァンス伯爵家の令嬢ったら、この間の夜会でも音楽隊の指揮者を困らせたそうよ。酷い言葉を浴びせたと噂になっているわ」

「ええ、それだけじゃないわ。侍女がうっかりドレスの裾を踏んだだけで、激昂して追放したんですって。なんて冷酷なのかしら」

「そんな女性が公爵家の婚約者だなんて、考えられないわ。アルベルト様もお気の毒に」


 たとえ事実でない誇張が混ざっていようとも、一度世間に広まれば修正は難しい。そればかりか、誰かがさらに刺激的な話を付け加えることで、噂はまるで独り歩きするかのように膨らんでいく。ときにまことしやかに語られる「彼女は結婚する気がないらしい」という根拠不明の情報なども、まるで既定路線のように扱われていた。


 そのころ、アルベルトは父である公爵の書斎を訪れ、進捗報告を求められていた。広々とした書斎は壁一面に豪華な蔵書が並び、窓からは王宮の一角を見下ろすことができる。奥の机に肘を置いている公爵は、白髪まじりの髪を整えながら、息子の顔を険しく見やる。


「アルベルト、お前は本当にあの令嬢との縁を結ぶ気なのか?」


 息子が少し前に夜会を開きたいと言い出したとき、公爵は反対しなかった。しかし、ここ数日でリリアーナの悪評がさらに広まる中、周囲から公爵家の体面を傷つけるのではと危惧する声が寄せられているという。公爵自身も、彼女が極端に高慢な振る舞いをしているのを耳にし、息子の将来を思えば心配は尽きない。


「ですが、父上。まだ彼女を誤解しているだけかもしれません。噂だけですべてを判断するのは早計ではないでしょうか」

「噂に尾ひれがついていることは承知だが、まったくの虚言というわけでもあるまい。お前も彼女と接してみて、気づくことはなかったのか?」


 公爵の問いに、アルベルトは答えに詰まる。先日リリアーナに会ったときの冷たい言葉が、彼の胸にはまだ生々しく残っていた。あれほど露骨に自分を突き放そうとする理由は何なのか。昔の優しかったリリアーナとはまるで別人としか思えない。その疑問があるからこそ、安易に婚約破棄へ傾くことに躊躇(ためら)いがあるのだ。


「……確かに、彼女の態度は変わってしまったように思います。ですが、あの日、彼女がほんの一瞬だけ優しげな表情を見せたように感じたんです。説明するのは難しいのですが、まるで仮面を被っているというか……」

「アルベルト、お前は甘い。仮面だろうと何だろうと、周囲への態度が悪いことに変わりはない。公爵家の者が伴侶に迎えるには、あまりに不安要素が多すぎる」


 父の厳しい言葉に、アルベルトは唇をかみしめた。周囲の評判を払拭するだけの材料が今のところ彼にはないし、本人から本心を聞き出すこともできていない。だからこそ、父の言葉を強く否定できず、かといって同調もできずにいるのだ。


「……近いうちに、もう一度リリアーナと話をしてみます。それから判断しても遅くはないでしょう」

「そうか。だが、一度家の意向を聞いてみろ。もし彼女との縁を切ると決断したときは、こちらから伯爵家に申し入れることになる。無駄に長引かせないほうがいい」

「承知しました」


 そう答えるしかないアルベルトの表情は曇っていた。公爵が言うように、リリアーナがこれほど世間から悪評を集める存在となるには、何かしらの事情があるはず。しかし、その根源が何であれ、現状では彼女に対するマイナスの評価は揺らぎそうにない。徹底的に人を遠ざけるあの態度が、彼女を救うどころかさらに追い込んでいるのではないか――そんな疑問が、アルベルトを苦しめていた。


 一方、エヴァンス伯爵家の館でも、ひときわ重たい空気が漂っている。侍女や執事が落ち着かない動きを見せる中、リリアーナはあえて傲然( ごうぜん)と振る舞うことを選んでいた。館の使用人が小さなミスをするたびに、それを見逃さずに叱責し、反論を許さない。わざと冷酷な表情を作り、周囲に怖れと緊張を与えているのである。


「何という体たらく。私の部屋を掃除するときは、もう少し注意深くやってもらいたいものね」


 彼女の非情な声が響くと、若い侍女はしゅんと頭を垂れて(ふる)える。実際、その侍女は掃除道具を少し乱雑に置いてしまっただけで、被害らしい被害は何もなかったのだが、リリアーナは過度に厳しい態度を取る。屋敷内でのそうしたエピソードが、またも王都に伝われば、「リリアーナはさらに冷酷になった」という噂が広まるのは必至だ。


 しかし、リリアーナの目的はまさにそこにあった。結婚前のこの段階で悪評を高めれば、高貴な家柄の者ほど自分との縁を望まず、いずれアルベルトも見切りをつけるだろう――それが彼女の計算だった。彼女が死という重荷を抱えている以上、周囲に愛着や同情を残すわけにはいかないのだ。


「さあ、さっさと片付けてちょうだい。私が見ている前で同じ失敗をしたら、ただでは済まないのだから」


 侍女を追い立てるような言葉を放ち、リリアーナはきびすを返して廊下を進む。絨毯(じゅうたん)を踏むたび、胸の奥に鈍い痛みが走るが、その苦しげな顔は必死に押し殺したままだ。もし体調の悪さを悟られたら、そこに付け込まれてしまうかもしれない。あくまで完璧な冷酷ぶりを演じ切ることが、彼女の自衛でもあった。


 ところが、その行動は伯爵夫妻や周囲の者たちをますます苦しめる。彼女が自らを偽っているのだと知る一部の侍女たちや、医師のクレイグなどは、声をかけたい気持ちを抑え込んで黙っている。エヴァンス伯爵夫妻は、せめて婚約だけでも円満にまとまればと考えているが、すでに状況は悪化の一途をたどっていた。

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