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第3話 婚約者との邂逅①

 翌日の昼下がり、リリアーナ・フォン・エヴァンスは淡いクリーム色のドレスに袖を通し、屋敷の応接室で客を待っていた。昨夜は体調の不安から睡眠をよくとれず、朝も胸の痛みで数度薬を飲む羽目になったが、どうにか外見だけは取り(つくろ)っている。背筋を伸ばし、冷たい微笑を宿したまま静かに椅子に腰かけている姿は、昨日の夜会で見せた堂々たる態度そのままだ。


 今日の客人が、公爵家の嫡男アルベルト・レオンハルトだと聞かされたのは、今朝方のことだった。彼はリリアーナの婚約者という立場でありながら、二人が公的な場所以外で顔を合わせるのは久しぶりだ。社交界では、婚約は貴族間の政略や家柄の都合で決まることも多い。リリアーナとアルベルトの結びつきもまた、両家の望んだものであり、当人たちの関係が円満かどうかは二の次とされる傾向があった。


 しかし、リリアーナの「噂」が広まるにつれ、彼らの婚約を快く思わない人々が増えていることもまた事実だ。彼女が高慢で冷酷だとされる言動は、すでに王都でも知れ渡っている。そんな相手が公爵家の長男と結婚するなど、あまりに不釣り合いではないかと陰口を叩く者もいるのだ。実際、アルベルトはそのような声に対してどのように考えているのか――リリアーナ自身も正直なところ分からない。


 屋敷の外から馬車の到着を告げる音が聞こえてきた。執事と侍女の足音が近づき、扉が開かれると、アルベルトが姿を現す。すらりとした体躯に黒の上質な上着をまとい、髪には軽く整髪料を施してあるのか、清潔感のある身だしなみだ。彼の瞳は深い碧色を帯びており、昔から変わらない穏やかな輝きを宿している。幼い頃に一度だけ会ったときも、こんなふうに静かな優しさを感じさせる眼差しだった――と、リリアーナはぼんやり思い出しそうになる。


「久しぶりだね、リリアーナ」


 アルベルトの声は落ち着いているが、その口調からはどこか探りを入れるような微妙な空気が漂う。こちらを気遣うのか、あるいは噂に惑わされているのか。リリアーナは立ち上がって軽く礼をし、冷ややかに応接室のソファを勧めた。


「ええ、そうね。お忙しい中ご足労いただいて恐縮ですわ」


 その言葉にはどこか棘が含まれている。アルベルトは微かな困惑の色を浮かべつつも、促されるままソファに腰を下ろした。侍女が茶を運び込んでくると、リリアーナはちらりと侍女を見やり、淡々とした口調で礼を言う。侍女は彼女の機嫌をうかがうように足早に退出し、室内には二人だけが残った。


 しんと静まり返る中、アルベルトがやわらかな声で切り出した。


「昨日の夜会には、僕も行くつもりだったんだ。しかし急用で間に合わなくてね。君がずいぶんと目立っていたと噂で聞いたけれど……大丈夫だったのか」

「どういう意味かしら。私が何をしようと、あなたに心配されるようなことはしていないと思うけれど」


 きっぱりと斬り捨てるような口調に、アルベルトは視線を伏せる。それでも、何か言いたげに唇を引き結んでから、再びリリアーナを見据えた。


「リリアーナ、君の評判は知っている。だけど、僕には信じられないことが多すぎるんだ。昔、君に会ったときの印象とはずいぶん違っていて……。何があったのか、話してもらえないだろうか」

「私は変わってなんかいないわ。話すことなんてなにもない」

「そうは思えない」

「あなたがどう思おうと、私には関係ないわ。そもそも私たちは、両家の都合で婚約しているだけでしょう」


 リリアーナはそっけなく言い放ち、湯気の立つ茶を一口すする。アルベルトは痛ましげに彼女の瞳を見つめるが、その視線を真正面から受け止める気はさらさらなさそうだ。彼女は扇を持つわけでもなく、ただ片手でカップを支えたまま細い指を静かに震わせている。


 アルベルトはそんな彼女の姿を見て取ったのか、少しだけ表情を曇らせて声を落とす。


「確かに、家同士の取り決めで僕らは婚約した。けれど、かつて僕がまだ幼かった頃、君と一度だけ邸で遊んだ日を覚えている。あのときは……そう、君は少し体調を崩していたらしく、あまり長くは話せなかったけれど、すごく優しい女の子だった。僕が倒れた小鳥を見つけてしまって悲しんでいたら、君は泣きそうな顔で『手当てをしましょう』って言ってくれたじゃないか」

「そんなことがあったかしら」

「覚えていないのか?」


 アルベルトは少し落胆したように眉を下げる。その姿を見て、リリアーナは思わず息を飲んだ。実際にその記憶は彼女にもある。幼い頃、彼が訪ねてきたとき、怪我をした小鳥を一緒に助けようとしたあの日のこと。ただし、その思い出は今の自分とはかけ離れたほど穏やかな時間として胸に封じ込めているのだ。


「覚えていないわ。第一、昔の些細(ささい)なことなんて、いちいち気にするほど暇ではありません」

「そうか。……でも、君はあんなに優しくて純粋な人だったのに」

「そう見せかけていただけかもしれないじゃない。そんな古い話をいつまでも引きずるのは時間の無駄というものよ」


 リリアーナの声には冷ややかな棘が含まれている。アルベルトはそれに真っ向から反論するわけでもなく、ただ拳を軽く握って黙り込む。やがて、(うつむ)いたまま小さく溜息をついた。


「君が何を考えているのか、本当に分からなくなりそうだ。王都でも、君の噂は相当広まっている。高慢で冷酷な令嬢、配下の者に容赦なく当たり散らす女……。だけど、本当の君はそんな人じゃないと思いたい」

「ご親切にどうも。でも、公爵家の跡取りならもう少し大きな視野を持ったらいかが? 噂が真実かどうかを探るより、自分の立場にふさわしい相手を選び直すほうが賢明かもしれないわね」

「リリアーナ……君は、そうやって僕を遠ざけたいのか?」


 思わず絞り出すようなアルベルトの声に、リリアーナの胸が(きし)んだ。しかし、彼女は表情を変えずにカップを置き、ソファの背もたれに身体を預ける。まるで、自分の心にはまったく響かないというような態度だ。


「遠ざけるも何も、私たちの婚約は両家の都合で決まったことでしょう? あなた個人に特別な感情を抱く筋合いはないわ」

「それなら、なぜ昨日の夜会でもあんなに人を寄せ付けない振る舞いをしたんだ? 本来ならば、もっと良い縁談を望んでいる貴族もいただろうに」


 その問いに、リリアーナは眉をひそめた。アルベルトとしては率直な疑問を投げかけたつもりだろうが、彼女にとっては聞かれたくない核心をつかれた気もする。ここでうまく誤魔化さなければ、彼が深入りしてくるかもしれない。もしそうなれば、自分の病のことや本当の意図を探られる危険が高まる。


「私の態度が気に入らないなら、はっきり言えばいいわ。『こんな女との婚約は無理だ』と。そう言ってくれれば、私も清々するのだけれど」

「どうしてそんな言い方をするんだ。……君は本当にそれを望んでいるのか?」

「ええ、もし私との婚約を解消したいなら、遠慮なく。私は何の損もありませんから」


 そう告げると、アルベルトは明らかな苦悩をにじませ、言葉に詰まったようだ。リリアーナは内心で(かす)かな痛みを感じながら、しかし表面は徹底して冷淡を貫く。彼の表情を伺うと、子供の頃に見た純粋な優しさがまだ残っているのが分かる。だからこそ、彼女は罪悪感に似た感情がうずくのを感じた。

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