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第18話 永遠の別れ②

 彼女がこの世にもういないという事実を受け止めるには、あまりにも時間が足りなかった。たしかに死は彼女を苦しみから解放したのかもしれないが、アルベルトの胸には「生きてほしかった」という願いが残り、その喪失感に心が(きし)む。愛し合いながらも運命の病に引き裂かれた現実は、彼の身を押し潰すほど重く、打ちひしがれる以外にどうしようもなかった。


 外は夜の深みを増し、部屋の中だけが別世界のように沈痛な空気に包まれている。まだ人の形を留めたリリアーナの身体は、呼吸も鼓動も失い、戻らぬ存在となった。それでも一目見れば「今にも目を開けそうだ」と錯覚しそうで、アルベルトは信じがたい喪失に立ち尽くすしかない。


 伯爵夫人は娘の髪を優しく撫で、ふとアルベルトを見上げると、小さく言葉を(つむ)いだ。


「最後まで……あの子と一緒にいてくれて、ありがとう。あなたがいてくれたから、あの子は……こんなにも穏やかな表情なのね」


 リリアーナの顔は痛みが消え、まるで安らかな微笑を(たた)えているかのようだった。生前には誰も悲しまない死を望んでいたはずなのに、これほど愛に包まれて息を引き取った――その事実が、アルベルトの胸を締めつける。


「僕は……一生、リリアーナを忘れられません」


 アルベルトの声は(ふる)え、涙がとめどなく(あふ)れる。伯爵も黙ってうなずき、娘の冷たくなった手を見つめている。生まれつき病弱だった娘が、こうして誰かに深く愛され、仲間や家族に見守られて旅立ったのだ。母親としてはそれを「せめてもの救い」と信じたいが、苦しみを伴う胸の痛みは消えない。


 クレイグ医師はふるえる手でリリアーナの瞳を閉じ、唇を噛みしめた。長年治療を施してきた患者を救いきれなかった無念がこみ上げると同時に、最期に彼女が大切な人たちに囲まれていたことに、どこか報われる思いもある。侍女たちは娘の寝衣を整え、冷たくなりつつある手を最後まで包んでやろうとする。その仕草には、深い哀しみと、守りたいという意志が宿っていた。


「これで……お嬢様は……本当に痛みから解放されたのかもしれないわ」


 一人の侍女が声を(ふる)わせながらも、そう呟く。伯爵夫人は涙を隠さず「そうよ」と返した。アルベルトも、彼女の苦悩が終わったなら安らぎを願いたいと思うものの、「もっと一緒に生きてほしかった」という未練がどうしても拭えない。愛する人を喪った現実が、あまりにも切なく胸を苛む。


 伯爵夫人は娘の体にかけられた毛布をきれいなシーツへと替えようとする。その動きを見たアルベルトは、リリアーナの髪や肌をそっと()でて、最後の別れを名残惜しむように唇を寄せた。窓の外では風がそよぎ、木々がかすかな音を立てている。今この部屋だけが、リリアーナの形見を抱いた聖域となっているようだ。


「リリアーナ……ありがとう。本当に、ありがとう……」


 アルベルトはもう言葉にならない声を漏らす。伯爵夫人や侍女たちも涙をこらえきれず、娘の身体を見つめながら肩を(ふる)わせる。伯爵は壁に手をつき、ただ「娘よ……」と喉を詰まらせる。クレイグ医師は深く目を閉じ、静かに祈るようにして立ち尽くす。


 かつては誰にも悲しまれずに死にたいと願っていたリリアーナだが、今まさに、多くの愛と涙の中で永遠の眠りについた。彼女が本当に求めていたのは孤独ではなく、最後に見せた穏やかな微笑こそ、ずっと隠されていた「本当の優しさ」の表れなのだと、見る者すべてを泣かせながら示している。


 アルベルトは胸の奥で、痛みが焼きつくような感覚を抱えながらも、リリアーナの手をそっと離す。その手はもう呼びかけに応えず、冷え始めたまま静かだ。伯爵夫人は娘の名を呼びつつ、(かな)しみの波に襲われるように泣き崩れ、伯爵も肩を(ふる)わせる。侍女たちは互いに寄り添いながら涙を流し続ける。


 まるで時間が止まったかのような沈黙が訪れ、夜だけが深まっていく。長い闘病を経て、愛に包まれながら去ったリリアーナの身体は、痛みも悩みももう感じない。彼女をくるんでいた毛布がわずかに揺れ、そこに残る温もりも次第に失われていく。アルベルトはそんな変化に抗うこともできず、ただ見守るばかりだった。


 亡骸を前にしても、なおアルベルトの心は「生きているかもしれない」と幻想を捨てられない。けれど厳然たる事実がある以上、リリアーナの魂は手の届かない彼方へ旅立ったのだ。


 夜が更け、室内の灯がわずかに揺らめく中、アルベルトは瞼を閉じて歯を食いしばる。「行かないでくれ、リリアーナ」と幾度も心の中で叫ぶものの、その想いは彼女に届かない。すべてを包む沈黙の中、彼女が安らかな微笑を浮かべていることで、なおさら悲しみは深くなる。


 最後まで愛を拒まず、仮面を捨てたリリアーナは、その命を閉じるときまで優しい娘であり続けた。孤独な死を望んでいたはずなのに、こんなにも涙と温もりの中で息を止めた彼女を、もし本人が知っていたならば「幸せ」と言ってくれたのかもしれない。


 伯爵夫人はハンカチで涙を拭い、娘の額に静かにキスをする。伯爵は娘の手を握り、「娘の望む形ではなかったかもしれないが、せめて愛に包まれて旅立てたのなら、それがいちばんの救いだ」と、苦しく呟く。ふたりの想いが空しく溶け合うなか、アルベルトはリリアーナを愛した自分こそが、いちばん彼女を生へ引き留めたかったという悔しさに涙を浮かべる。


「リリアーナ……君は最後に幸せだったんだよな。僕は……どう言えばいいのか、分からないよ」


 小さく声を漏らすアルベルトに、侍女たちも視線を落として悲しみに沈む。かつて「嫌われ役」を買って出た令嬢が、こんなにも多くの人を涙させる――その姿こそが、リリアーナが本来いかに愛されていたかを証明していた。


 部屋の外では風が強まり、夜の闇が深く世界を覆うように広がっている。けれど、この部屋に漂う静寂には、深い愛と切なさが満ちていて、まるで時が止まっているかのようだ。アルベルトは再びリリアーナの手をとろうとするが、もう二度と返事をしてはくれないことを痛いほど知っている。


「リリアーナ……ありがとう。君がこの場所で生きた証は、ずっと僕たちの中に残る……」


 声を押し殺しながら(つぶ)いた彼の後ろ姿を、伯爵夫妻も侍女たちも見つめる。全員が涙に暮れていて、誰も慰めの言葉を口にできないが、その光景こそがリリアーナという少女の生を(たた)えていた。儚くも、愛されて惜しまれて死んでいったという真実こそ、彼女が遺したいちばんの遺産なのだ。


 こうしてリリアーナ・フォン・エヴァンスは永遠の眠りに就く。もはや声を上げることも、笑顔を向けることもできない彼女が、最後に見せたのはあまりにも穏やかな表情だった。かつて願った孤独な死からは遠く離れ、多くの涙と愛情に包まれての旅立ち――ある意味で、彼女が本当の意味で救われたのかもしれない。


 アルベルトは彼女の冷たい手をゆっくりと離し、頬をぬぐうこともなく涙を流し続ける。誰にも悲しまれないように、という願いは結局叶えられなかったが、それを嘆く人間はここにはいない。彼女の本心はきっと「愛されてもいい」と思い直したからこそ、その穏やかな表情を残してくれたのだろう。


 深い夜の中、息を詰めたまま嘆き続ける人々を取り囲み、静寂が降りてくる。部屋の片隅に揺れる炎が、小さな音を立てて消えようとしている。アルベルトはリリアーナの寝台を見つめ、繰り返し心の中で謝罪し、感謝し、そして愛を叫んだ。


 それは、どれほど続いたのか分からないほど長くも短くも感じられる時間。苦しみや孤独や後悔を経て、リリアーナが愛される道を選んだことを考えると、彼女の頬に浮かぶ痕跡のない微笑がどこまでも尊い。彼女にとっては、これが最良の終わり方だったのだと、みなが心に言い聞かせる。


 そして部屋の闇が一段と濃くなり、誰もが声を失ったまま祈りや涙に沈むうち、夜は静かに更けていく。リリアーナの物語は、愛を知ったまま途切れ、彼女を想う人々がその余韻を抱いて生きていく日々へ移り変わる。少し後になって伯爵夫人がふと見上げると、眠るように安らかな少女の寝顔がそこにあった。


 もう彼女は、この世界の苦しみも悲しみも感じない場所にいる。愛されなかった死ではなく、残された人の痛みと惜別(せきべつ)を背負わせるほどに深く愛し、愛された末の別れ――その結末が示すものは、苦しみばかりではないはずだ。そう信じながら、伯爵夫人も再び娘の髪を()で、「リリアーナ……」と(つぶや)き、涙を落とす。


 そして、アルベルトは胸を押さえて視線を落とし、「ありがとう……ありがとう……」と(つぶや)くように繰り返した。もう彼女の声は聞こえないが、きっと夜の深い闇の向こうで「わたしも」と返している――そんな淡い幻を抱きながら、彼らは永遠の別れを告げるしかないのだ。


 こうして、リリアーナのその姿は、生涯をかけた優しさと、最後に掴んだ愛の証に輝き、決して消えることなく人々の胸に刻まれる。もし彼女がこの光景を見下ろしているとしたら、きっと「ごめん」「ありがとう」「幸せだった」と笑ってくれるに違いない、と残された者たちは心で願う。


 深い夜の静寂の中、その部屋だけが何もかも置き去りにしたかのように動きを失い、ただ涙と祈りが満ちていた。リリアーナという名の花は、一度散っても、その種子を多くの人々の愛に残したのだろう。やがて訪れる朝日が、悲嘆の先にかすかな光を示唆しながら、静かにこの日を終わらせようとしている。

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