第16話 最後の願い②
その日の昼過ぎ、予定より早くエヴァンス伯爵と夫人が宿に到着した。顔には憔悴の色が濃く、娘の衰弱を思うだけで胸が張り裂けそうな表情だ。伯爵夫人はリリアーナの部屋へ飛び込むように駆けつけ、久しぶりに顔を合わせた娘の姿に声を詰まらせる。
「リリアーナ……こんなに痩せて……苦しかったでしょう。ごめんなさい、もっと早く来ればよかった」
「お母様……そんな、謝らないで。私が……勝手に距離を取っていたんだから」
ベッドに横になったまま、リリアーナはか細い声で応じる。伯爵夫人は娘の手を握りしめ、侍女に目配せをして薬や水を用意させる。部屋の一角には伯爵とアルベルト、クレイグ医師が控えており、全員のまなざしがリリアーナに集中していた。
「お嬢様……少し熱が上がっています。寝ているだけでも辛いでしょう。楽に呼吸できる体勢を……」
「ええ……ありがとう。……でも、ちょっとだけ、話をしてもいい?」
リリアーナは苦痛に耐えるように息を整え、顔を上げる。周りの者が焦りを滲ませる中、彼女は唇を震わせながら静かに口を開いた。
「私……最後にどうしても見たいものがあるの。幼い頃……まだ病状が軽かったころ、父様に連れて行ってもらった小さな湖……覚えてるかしら」
伯爵は一瞬、言葉を失ったように眉を寄せたが、すぐにうなずく。子どものころ、リリアーナを少しでも外の空気に触れさせようと連れて行った湖があった。遠くない場所だが、道中に起伏があり、今の彼女にとっては容易ではない。
「あの湖……湖畔に広がる野花がすごく綺麗で、まるで生まれ変わったみたいに心が弾んだの。もう一度、見てみたいって……ずっと思っていたの」
「リリアーナ、それは……大丈夫か。今の体で道中を耐えられるのか?」
伯爵夫人の言葉に、リリアーナは弱々しく苦笑した。苦しさの中でも、最後の願いを懸命に語る瞳には、揺るぎない決意が映っている。
「無理を言ってるのはわかってる。先生やみんなの苦労も……承知しているわ。けど、もしもう時間がないなら、最後にどうしても見たいの。それが私の……わがまま、最後の願い」
「わがままだなんて……。お嬢様が望むなら、私たちも尽力いたします」
侍女の一人が涙を浮かべながら力強く言う。クレイグ医師はため息をつき、伯爵夫妻をちらりと見やった。
「移動には馬車を使うしかありません。多少の揺れは覚悟しないといけないし、急変のリスクも伴います。それでも行かれるおつもりですか」
「それでも、行こう」
アルベルトが即答するように前に出る。その強い意志は、伯爵夫妻の胸をも打った。伯爵は娘の望みを叶えるためにこそここへ駆けつけたのだと、改めて気づいたかのように深くうなずく。
「娘の願いなら、私も叶えたい。途中で何があっても構わん。お前が行きたいと思うなら、父としても協力しよう」
「ありがとう……父様。母様も、ごめんなさい、また無理を言うわね」
母は深い悲しみに耐えるような面差しで、けれどきっぱりと答える。
「あなたの見たい景色なら、私たちは全力で支えるわ。だから、どうか無事に戻ってきてちょうだい」
こうして、リリアーナの最後の願い――幼き日に訪れた湖への小さな旅が決まった。クレイグ医師は大きく難色を示したが、本人の決意と家族の熱意に押し切られた形だ。もちろん、その道中で何かが起きる可能性は高く、それに備えて万全を期す必要がある。
翌朝、急ぎ用意された馬車が宿の前に止まり、侍女たちがクッションや毛布を持ち込み、車内をできるだけ快適にしようと懸命に動いていた。クレイグ医師は薬箱と医療道具を抱え、万が一のときの対応を考えている。伯爵は自ら馬車の調整を確認し、道中の水や非常食、休憩場所を用意させる段取りを指示していた。
「皆がこんなに動いてくれるなんて……。やっぱり私、みんなを煩わせているんじゃないかしら」
体を起こし、部屋から車いすに移ったリリアーナは、申し訳なさそうにつぶやく。アルベルトは傍らで彼女の肩を支え、優しく微笑んだ。
「君のために動くのを、誰も面倒なんて思ってないよ。むしろ、みんな君が少しでも幸せを感じられるようにって、思ってくれてるんだ」
「……そう、なのかな」
「そうだよ。だから遠慮しなくていい。僕もみんなも、君が笑ってくれるなら、それが一番嬉しいんだ」
リリアーナはその言葉にわずかに目を伏せたが、唇にかすかな笑みを浮かべる。自分が死に向かっている事実は変わらないけれど、その終わりに向かう道すがら、これだけ多くの人に支えられているということが、胸に温かさをもたらした。
やがて準備が整い、クレイグ医師や侍女、伯爵夫妻、そしてアルベルトが馬車の周囲に集まる。リリアーナは最後の力を振り絞るかのように、周囲の腕を借りて馬車へとゆっくり移動し、柔らかな座席へ深く身を沈めた。苦しそうな呼吸の合間に、それでも安堵の笑みをこぼす。
「……準備万端みたいね。じゃあ……行きましょうか」
その言葉に、馬車の御者が短く返事をして鞭を軽く振る。周囲に見守られながら、車輪はゆっくりと回転を始めた。いつ止まってもおかしくない心臓を抱え、リリアーナは最後にどうしても見たい景色がある。その想いに突き動かされた一行は、清らかな湖を目指して出発する。
まだ暗い影が色濃く残る道のりの先に、果たして何が待っているのか。死にゆく身を抱えた彼女にとって、これが本当の最後になるかもしれない。それでも、リリアーナは馬車の窓から差し込む陽射しを受けながら、わずかに笑みを浮かべていた。
「湖か……。本当に、もう一度行けるなんて思わなかったわ」
彼女の横でアルベルトが手を握る。伯爵夫人も後方の席で涙をこらえながら娘を見守っている。誰もが不安と願いを抱え、車輪の音に耳を澄ましていた。重苦しい空気に沈みきらないのは、愛と祈りがその場に満ちているからだろう。
こうして、命のともしびが危うく揺れる中、リリアーナの最後の願いを叶えるための小さな旅が始まる。先行きは決して明るいとは言えない。それでも、彼女にとってはかけがえのない大切な時間になるのは間違いない。




