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第2話 仮面の下の素顔②

 支度を整えて廊下に出ると、侍女の案内で父母のもとへ向かう。二人は書斎に並んで座り、リリアーナの到着を待ちかねたように顔を上げた。エヴァンス伯爵と、その夫人。伯爵はもともと寡黙な性格で、夫人も社交界では温厚な淑女として知られている。しかし、二人とも娘であるリリアーナの病を前にしては、どう接していいか分からない戸惑いを抱えていた。


「夜会、お疲れだったろう。体調は大丈夫か」


 伯爵がまず問いかける。娘を気遣う声色なのだが、リリアーナにとってはそれがかえって胸を締めつける。自分のために、父が言葉少なに不器用な心配をしている姿を見ると、彼女の決意が揺らぎそうになるからだ。


「問題ありませんわ。余計な噂を流す(やから)もいたでしょうが、気にするほどのこともございません」


 伯爵が言いたかったのは、体調面のほうであって社交界の噂ではないらしい。言外のズレを感じつつも、伯爵は顔を曇らせて口をつぐむ。すると、かわりに夫人が控えめな声で話し始めた。


「リリアーナ、あまり無理をしないでちょうだい。あなたの身体のことを最優先に考えても……」

「母様。それでも私はエヴァンス家の娘。社交に出ないわけにはいかないのですわ。分かっていらっしゃるのでしょう」


 その剣幕に夫人はさらに言葉をのみこむ。リリアーナはほんの少しだけ表情を和らげて続ける。


「私には私のやり方がありますの。どうか余計な口出しはしないでいただけますか」


 彼女の強がりを知りながらも、両親は何も言えないでいる。もともと娘を愛しているからこそ、その強情さを否定しきれないのだ。伯爵などはむしろ、リリアーナの「誰にも寄りかかりたくない」という意地を感じ取ってしまい、どう対処すべきか迷っているのだろう。娘の意志をくじけば、かえって心を痛めさせるかもしれない。かといって、見守っているだけでは病が良くなるはずもないというジレンマがある。


 沈黙が落ちる中、リリアーナは視線を本棚へ向けた。古めかしい背表紙がずらりと並び、どれも伯爵家の歴史や政治関連の書物だ。普段なら資料を読み漁るなどの手段もあるが、今夜はその気力も湧かない。書斎の重苦しい雰囲気が一層彼女の心を塞ぎ込ませる。


「父様、母様。私に必要なことは理解してくださっていますわね」


 やや強い調子で言ったその瞬間、伯爵夫妻が小さく息を飲むのをリリアーナは見逃さない。両親がどんな答えを持っているかを、彼女は内心望んでいるのか。それとも期待していないのか。


「……そうだな。お前の好きにしなさい」


 伯爵は短くそう告げて、夫人に視線を投げる。夫人もまた何かを言いたげに口を開きかけたが、最終的には「夜も遅いですし、あまり長く起きていらしては体に障りますわ」とだけ声をかけた。ひとまずはリリアーナの意向を尊重し、これ以上干渉はしないという意思表示なのだろう。


「では、おやすみなさい」


 深く礼をすることもなく踵を返したリリアーナの背中を、両親は苦しそうな表情で見つめていた。彼女の身体や心の痛みに手を差し伸べたいのに、どうにも届かない。愛しているからこそ、かえって過干渉になるのを恐れ、わずかに距離を置いてしまう。そんなもどかしさが、この家には何年も積もっている。


 再び自室に戻って扉を閉めた瞬間、リリアーナは小さく息を吐き、ベッドへ身を投げるように横たわった。薄いローブ越しにも、自分の胸の鼓動が弱々しく脈打っているのが分かる。どこか深いところに重い痛みを感じ、彼女はそっと目を閉じた。


「それでも……私は、こうするしかないの」


 夜会で嫌われる行いを重ねるのは、好き勝手に生きたいからではない。むしろ、自分がいつかいなくなった後、誰からも惜しまれない存在でありたいという願いがあるからだ。死を目前にしていると知れば、周囲は自分に憐れみを向けるだろう。自分を思うあまり悲しみを大きくする人間が出てくるかもしれない。それだけは避けたい。それが彼女の本心だ。


 その一方で、限界を感じる夜もある。冷静に「嫌われ役」をこなしているように見えても、本当はただ必死に自我を保っているだけ。死の恐怖に(さいな)まれ、それを紛らわせるように周囲を遠ざけているのだ、と誰も知らない。もしほんの少しでも誰かが手を差し伸べてくれたら、どれだけ楽になれるか――そんな甘えを、彼女は許せないでいる。


 ベッドのそばのテーブルには、クレイグが常備薬として用意した小瓶が置かれていた。体調が悪化した際に飲むよう勧められているが、最近は効き目が薄れたのか、服用しても痛みが完全に引くことは少ない。リリアーナは小瓶を手に取り、その中身を見つめる。乳白色の液体がわずかに揺れて、(かす)かな薬草の香りを漂わせた。


「これも、いつまで役に立つのかしら」


 ささやきながら、彼女は瓶をそっと置き直す。こんな薬に頼らずとも、すべてを受け入れられる強さがあればいいのに、と考えてしまうが、それは無理な話だ。いくら心を決めても、病そのものは意志だけで克服できるわけではない。むしろ、迫り来る苦しみにどう立ち向かうかが、彼女の心を蝕んでいく。


 気づけば、窓の外がわずかに明るみを帯び始めていた。長い夜会と、両親とのわずかな対話。それだけで身も心も疲れ果ててしまうのだから、己の弱さを痛感する。わずかな睡眠でもとらなければ朝が来てしまうが、仮に眠れたとしても痛みは消えない。日は昇り、再び「高慢な伯爵令嬢」の顔を演じる一日が始まるのだ。


「……少しだけ。少しだけ、今は何も考えたくない」


 そう思い、リリアーナは薄暗い室内で瞳を閉じる。瞼の裏には、どこか遠い場所へと歩き去りたい衝動があるのを感じるが、この屋敷を出るわけにもいかない。彼女をかろうじて引き留めているのは、家名の重みと、ほんのわずかな家族への想い、そして何より――自分の死が引き起こすかもしれない苦痛から周囲を守りたいという、一種の優しさだった。


 優しさと呼ぶにはあまりにも(ゆが)んでいるかもしれない。嫌われてしまえば誰も悲しまないだろうという、身勝手な理屈なのだから。けれど、その理屈だけが今の彼女を支えている。病と闘う気力よりも、むしろ「周囲を突き放す」ほうが彼女にとっては生きがいに等しいのだ。それが、リリアーナ・フォン・エヴァンスが自分に課した、奇妙で孤独な使命でもある。


 耳をすませば、部屋の外で小声で話す侍女たちの気配を感じる。きっと彼女たちは、リリアーナの様子がいつも以上に悪いのではないかと心配しているのだろう。だが、彼女たちがいくら思いを寄せても、彼女はそれを受け取る気はない。もし情に絆されたら、死が訪れたとき、また誰かが悲しむかもしれないと考えるからだ。


「……大丈夫。私は、こんなの慣れてるわ」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいてみても、胸の痛みは消えない。夜会であれほど冷淡にふるまった直後に、こんな弱音を吐くなど滑稽(こっけい)だ。だけど、せめてこの瞬間だけは仮面を外してもいいだろう。誰も見ていない部屋の中で、誰も立ち入らない闇の中で。


 そう思うと、リリアーナは苦しげに顔を(ゆが)めた。涙が出そうになるのを必死にこらえ、枕に顔を埋めて浅く呼吸をする。痛みに耐えるのは慣れているが、悲しみに耐えるのはまだ難しい。何度繰り返しても、死の足音に追いつかれそうな恐怖は、彼女を見えない場所から(むしば)んでいくのだ。


「……なぜ、こんなことになってしまったのかしら」


 だが、その答えを誰に求めるわけでもない。過去を嘆いたところで、病が治るわけでもなく、余命が延びるわけでもない。ならば今、自分にできる最善を尽くすしかないと、再び自らを奮い立たせる。最善とは何か――それは周囲の誤解を買ってでも、自らを孤立させること。誰にも惜しまれない存在になること。それが、彼女の決断であり、信念だった。


 やがて窓の向こうが白み始め、薄明かりが部屋のカーテンを通して色づかせる。いつのまにか浅い眠りに落ちかけていたリリアーナは、ゆっくりと目を開けた。頭痛が(かす)かに残るが、動けないほどではない。隣室には侍女が常に控えているだろう。部屋を出れば、彼女を心配する者と、彼女を遠巻きに恐れる者が入り混じっている。


「今日もいつも通りでいい。……嫌われていれば、誰も泣かない」


 ほんの少し(ふる)える声でそうつぶやき、リリアーナはベッドから起き上がった。身体を動かすたびに胸の奥が鈍く痛むが、それを顔に出すことはしない。かすかな頭痛も全身の倦怠感も、朝を迎えれば再び完璧な仮面をかぶるのだ。それが彼女の日常であり、死まで続く孤独な闘いでもある。


 部屋の扉に手をかけるとき、彼女は一瞬だけ思い返す。もしこの病が見つかることなく、普通に笑い合える生活を送れたのなら――それはきっと、誰にもわからない夢物語に過ぎない。ならば考えるのはやめよう。そう自分を戒めるように首を振って、扉を開いた。


 今日という一日がどんなに苦しくとも、痛みがどれほど激しくとも、彼女は決して弱音を吐かない。それが、自分自身を守るための術でもあり、周囲を傷つけないための逃げ道でもある。リリアーナ・フォン・エヴァンスは冷酷な微笑を(たた)える「伯爵令嬢」として振る舞い続ける。どんなに孤独を抱えていても、誰にも気づかれないように――そう心に刻み込みながら、彼女はまた一歩を踏み出すのだった。

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