第15話 迫る運命の影②
しばしの沈黙の後、クレイグ医師は低い声で、だがはっきりとアルベルトに語りかける。
「今のところ、痛みをやわらげ、身体に負担をかけないようにするほかありません。それでも、いつか限界が訪れるやもしれません。お嬢様の意思を尊重しつつ、もし急変したら、すぐに知らせるようお願いしたいのです」
「……承知しました。僕もできる限りそばにいる。どうか何か打つ手が見つかったら教えてくれ」
「ええ。私も、奇跡のようなものを最後まで捨てずに探します。例え学説的に可能性が低くとも、足を止めるつもりはありません」
医師の意気込みと、アルベルトの強い意志。それはたしかにリリアーナの心を揺さぶっている。だが、その一方で「死の影が確実に近づいている」という事実が、この小さな部屋をじわりと包みこんでいく。いつまた発作が起きても不思議ではないし、呼吸が止まってしまう瞬間だってあり得る――そんな不安を誰もが抱えながら、彼女を支えるしかないのだ。
夜になり、医師や侍女たちが一旦退いて部屋に二人きりになると、リリアーナは苦しそうに息を吐き、アルベルトに小さく微笑んだ。
「あなたがいなかったら、私はとうに諦めていたと思う。死に怯えるよりは、誰にも悲しまれずに消えたほうがいいって、ずっと思っていたの」
「今は、そうじゃないんだろう?」
「少なくとも、あなたに見届けられるのも悪くないって……本気で考えるようになったのは事実。でも……。やっぱり、怖いわね。いつか心臓が止まるって考えると、呼吸が苦しくなるの」
それは自分の命を自覚する、どうしようもない恐怖。彼女が周囲を遠ざけてきた理由も、すべてはここに根ざしている。アルベルトはそんな彼女の弱音を肯定するように、静かに抱きしめる。
「怖いと思うのは当然だ。それを否定したりはしない。君が怖がるなら、僕も一緒に怖がる。もし最期の瞬間が来ても、君は一人じゃないよ」
「……ありがとう。あなたがそう言ってくれるだけで、もう充分すぎるくらい」
リリアーナは震える呼吸を落ち着かせるように、アルベルトの腕の中で目を閉じる。わずかに薬草の香りがするシーツや彼の衣服の匂いが、どこか安堵を誘う。だが、その安堵の底には確かな限界の足音が忍び寄っている。短い平穏のあとに、彼女の身体が再び悲鳴を上げるかもしれない。だとしても、二人は今さら離れられないほど強く心を結び合っている。
部屋の隅では、暖炉の火がくぐもった音を立てて揺れる。外の夜空には雲がかかり、星の光さえ見えにくい。そんな闇の中でも、アルベルトはわずかな希望の光を見逃さないように、リリアーナの呼吸に耳をすませていた。どんなに絶望が深まろうと、最後まで彼女の手を離さない。それが、今の彼にできる最大の誓いだ。
「大丈夫……僕がいる」
自分に言い聞かせるようなその囁きが、リリアーナの微かな耳に届く。彼女は浅くまどろみながらも、その言葉に応えるように弱い指先でアルベルトの袖を掴む。二人の間で交わされる意思は、もう言葉がなくとも伝わっているかのようだ。
しかし、この小さな宿での療養生活がいつまで続くのかは、まったく分からない。クレイグ医師の見立てによれば、いよいよ最終段階に近づいている可能性が高い。伯爵夫妻も必死に別の治療法や、他国から取り寄せる薬の情報を探っているが、決定打は見つからない。
そうした周囲の奔走をよそに、リリアーナ自身が死を受け入れかけているのも事実。アルベルトの強い意志で辛うじて引き止められているが、それも限界があるのかもしれない。無理やり生かされるよりは、穏やかな余生を送りたいという思いも、彼女の胸に根を下ろしているのだろう。
「もし、次に体が動かなくなったら……私はどうなるのかな」
そんな淡いつぶやきが、沈黙を破ってリリアーナの唇から零れる。アルベルトはそれに即答できず、眉を寄せて言葉を探す。だが、彼女は笑うように首を振った。
「嘘よ。そんなこと、聞いても仕方ないわね。眠りましょう、アルベルト。明日の朝、また同じ時間を迎えられたら、それだけで十分だから」
彼女の静かな諦観を見ながらも、アルベルトはわずかな希望を捨てきれない。小さく頷いて、リリアーナの肩にブランケットをかけ、瞳を閉じる。もしこの夜を無事に越えられたら、また一日一日を生き抜いていこう――ただ、それだけを願って。
死とわずかな生の狭間に揺れるリリアーナ。奇跡を信じながらも現実に足を取られて焦りを増すアルベルト。周囲の人々はその悲しげな姿に胸を痛め、何とか手を差し伸べようと奔走するが、有効な手立ては見当たらない。静かに迫り来る限界の足音は、もう間近まで響いているのかもしれない。
それでも、今はまだ、この宿の小さな部屋に二人の吐息が微かに重なる。温もりを分かち合い、同じ闇を見つめるとき、二人の心は一層強く結ばれる。だからこそ、その結末が近いのだと分かっていても、二人は手を離さない。たとえ残された時間がどれほど少なくとも、最後の瞬間まで共に歩むと決めたのだから――。




