第15話 迫る運命の影①
宿屋での静かな日々が続く中、リリアーナの容態は見たところ安定しているようにも見えた。アルベルトが傍に付き添い、クレイグ医師の診察も小まめに行われることで、一時は信じられないほどの穏やかさが日常を彩っていた。だが、そんな安堵は長くは続かない。彼女の身体に巣食う病は、決して容易に退くものではなかった。
ある晩、アルベルトが軽い夕食を終えてリリアーナの部屋へ戻ってみると、彼女が胸を押さえてベッドの上で肩を震わせているのを見つけた。微かな痛みに耐える様子がうかがえ、彼は慌てて駆け寄る。
「どうした、また痛みが強くなったのか?」
呼びかける声にリリアーナは苦しげに息を吐きながら、必死に微笑もうとする。
「大したことじゃないわ……ちょっと……いつものが、ぶり返しただけ」
その言葉には、明らかな無理がにじんでいた。冷や汗を浮かべた額と浅い呼吸の乱れは、再び病がその牙をむき出している証拠だ。アルベルトは手近にあったタオルで彼女の額を拭いながら、急ぎクレイグ医師を呼ぶべく宿屋の者に声をかける。
「すぐに先生を呼んでくれ!」
その一報を受けたクレイグ医師は、夜分にもかかわらず大急ぎで部屋に駆けつけた。聴診器や薬の瓶を取り出しながらリリアーナの脈拍を測り、容体を確認する。その表情は、見ているだけで息苦しくなるほど厳しい。
「お嬢様、少し深呼吸を……。どうにも痛みの原因が広がってしまったようですね……」
クレイグ医師の言葉に、アルベルトは胸が冷たくなる。これまで優しい時間が続き、ほんの少し回復していたかに見えたリリアーナ。だが、その病根はじわじわと体を蝕むように進行していたのだ。
「先生、何か打つ手はないのですか?」
思わず声を荒げるアルベルトに対し、クレイグ医師は苦々しい顔で首を横に振る。
「手は尽くしています。今のところ強い鎮痛剤や薬草の調合で症状を緩和させることぐらいしか……残念ながら、根本を治す術は見つかっておりません。痛みを和らげ、体力の消耗を最低限に抑えるしかないのです」
「そんな……」
アルベルトが拳を握りしめる横で、リリアーナはかすかに笑みを作り、苦しそうに息を整えようとしていた。
「いいの……先生。こんなに動けただけでも、十分幸せをもらったわ。……無理に治すなんて、もう望んでない」
「お嬢様……しかし」
クレイグ医師は言葉を失い、リリアーナを見つめる。彼女の顔には、あきらめとも受け取れる静かな表情が浮かんでいるが、その裏でどんな思いが渦巻いているかを思うと胸が痛い。
そこへ、伯爵家から手紙を受け取った侍女がやって来た。伯爵夫妻はリリアーナの容態が芳しくないとの報に心を乱し、すぐにでも駆けつけたいと申し出ている。だがリリアーナは、苦しげな顔のまま首を横に振る。
「会いたいのはやまやまだけど……今こんな状態で、父様や母様を動揺させたくないわ。もう少しだけ……おとなしくして、落ち着いたら戻る」
「お嬢様、そのようなことを言っては……伯爵夫妻もご心配なさるばかりでは」
侍女の声は涙を含んでいる。リリアーナはそれを察して、小さく息を吐きながら微笑もうとするが、その笑みは痛々しいほど弱々しい。アルベルトは、そのやりとりを聞きながら辛そうな表情で彼女に向き直った。
「ご両親はもう十分に心配してる。君が限界に近いと分かれば、なおさら……」
「わかってる。だから、今度落ち着いたら伯爵家に戻るわ。変に騒いでほしくないだけ。……私の姿を見て、あの人たちがどんな顔をするか想像すると、少し……痛むから」
その言葉に、侍女は涙をこぼしそうになる。クレイグ医師も目を伏せ、黙り込んだ。リリアーナを傷つけないために何かできるのではないかと探しても、どの道、彼女の病が治る可能性は限りなく低いことを全員が知っている。
ただ、アルベルトだけは決して目を逸らそうとはしない。苦しそうに横たわるリリアーナの手を握り、声をかける。
「回復する可能性が低くても、僕はまだ諦めない。奇跡を探す。どんな療養法でも、どんな医術でも、手当たり次第に試してみよう」
「アルベルト……」
リリアーナがか細く彼の名を呼ぶ。以前ならば、そんな言葉は無駄だと拒んでいたかもしれない。けれど今は、彼のまっすぐな瞳を見つめて、否定する気力すら湧かないようだった。
「少しでも君が長く生きてくれたらって、願うのは、僕のわがままかもしれないが……」
そう呟く彼の声には、かすかな震えが混ざる。死が近いことを痛感するほど、彼は自らの願いを強くせざるを得ない。わずかな可能性にすがり、リリアーナを救う方法を探し出す。例え現実が厳しくても、最後まで希望を手放すわけにはいかない。
リリアーナの目尻から、ひと筋の涙が零れる。きっと彼の愛情が重たいとか、苦しいとか、そんな感情だけでは片付かないものを感じているのだろう。彼女はアルベルトの指を握り返し、拙い笑みをつくろう。
「本当に……ありがとう。私のために、そこまで動いてくれるなんて。正直、嬉しいわ。苦しいくらいに、嬉しいの」
「僕も、こんな形で君を追い詰めるのは苦しい。だけど……一瞬でも長く笑っていてほしいと思うんだ」
「わかるわ。私も、あなただからこそ、こうして弱音を吐ける。それが……私をまだ生かそうとしてるのかもしれない」
そんな二人のやりとりを見つめるクレイグ医師と侍女も、胸が詰まる思いだった。エヴァンス伯爵家からも使者が増派されるとの連絡があり、そちらでもさまざまな治療法を探しているらしい。人々の愛情と努力が一点に集まりながら、それでも病魔を根絶できない悔しさが漂っている。




