第14話 穏やかな時間①
翌日の朝、宿屋の窓から差し込む陽光が、優しい金色のベールを室内に落としていた。夜半まで降り続いた雨はすっかり上がり、川面を渡る風がどこか穏やかに感じられる。
リリアーナは寝台からゆっくりと身を起こし、アルベルトの顔を見上げた。ここ数日の療養で体力は少し戻り、顔色もいくらか明るくなっている。もっとも、深い部分に潜む病の影が完全に消えたわけではないが、こうして朝を迎えられるだけで、彼女には奇跡のように思えた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
宿屋の狭いテーブルで一足先に朝食を整えていたアルベルトが、微笑みを浮かべながら彼女に声をかける。彼が見守る中、リリアーナは薄いショールを肩に掛けて立ち上がった。
「ええ、ぐっすりと。体が軽いといえば嘘だけど……こんなに目覚めが穏やかなんて久しぶりかもしれないわ」
「よかった。ゆっくり食事して、少し体を動かしてみる? 天気も良いし、近くの庭を散歩しようか」
彼の提案に、リリアーナはわずかに躊躇したあと、静かに頷いた。宿屋の裏手には小さな庭があり、宿の主人が趣味で草花を育てているらしい。体力が戻った証として、ほんの少し散歩できるなら、自分にとって大切な一歩だと思えたからだ。
「わかったわ。ゆっくりなら歩けるかしら。ちゃんとあなたに寄りかからなくても大丈夫そうなら、少しだけでも外の空気を感じたい」
「もちろん、無理はしないように。僕が付き添うよ」
そう言ってアルベルトは軽く伸びをして、リリアーナの傍に寄る。二人で用意された朝粥と温かい茶を口にしながら、あまり多くは語らない。それだけで、昨晩までの重苦しさや戸惑いは薄れ、気持ちが通じ合っているのを感じられた。
食事を終え、支度を整えたあと、リリアーナはアルベルトとともに宿屋の裏手へと移動する。そこには手狭な庭が広がっており、薔薇やハーブが雨に洗われて生き生きと葉を広げていた。小道の端に据えられたベンチにはまだ少し水滴が残っているが、陽射しが当たる部分は乾き始めている。
「ここ、綺麗ね。こんなに花が咲いているなんて、知らなかったわ」
リリアーナの声は、小さな驚きと喜びを含んでいた。これまで彼女は王都の社交界で華やかな衣装を纏いながらも、自然の中でゆったりとした時間を過ごす機会は少なかったのかもしれない。病を隠そうと無理をしていた日々は、心に余裕を作れなかったのだ。
「見て。あの花は、昨日の雨をたっぷり含んで、まるで輝いてるみたいだ」
アルベルトが指さした先には、朝露が葉先から滴っているスイートピーが柔らかな色合いを放っている。その光景にリリアーナが目を細めると、ほんのりと微笑みが浮かんだ。
「本当ね……こんな静かな時間があるなんて、思いもしなかったわ」
「君はいつも忙しく振る舞っていたからな。外で自然を眺めるなんて機会、作れなかったんじゃないか」
「うん……ずっと、誰かに見張られるような気がしていたの。悪評を演じるためにも、自分で自分を追い込んでいたのね」
リリアーナが呟くように振り返ると、アルベルトは穏やかな眼差しで彼女を見つめる。誰もいない庭で、ただ草木の香りと風の音が二人を包む。リリアーナはその静かな空気に浸りながら、かつての自分が見失っていたものを思い出すように深呼吸をしていた。
「どうかな、まだ立っていられそう? 無理しないで、座って休もう」
「あら、もう少し歩けるわ。せっかくここまで来たんですもの、あのベンチに行ってみたい」
そう言って、リリアーナはアルベルトの腕を借りながら、小道をゆっくりと進む。足元がまだ心もとないが、彼がしっかりと支えてくれる安心感がある。数歩ずつ踏みしめるたびに、身体の重さと胸の奥の鈍い痛みを感じながらも、彼女は自分が生きている実感を噛みしめる。
やがて小さなベンチに辿りつくと、アルベルトはハンカチで軽く水滴を拭き取ってリリアーナを座らせた。朝の爽やかな空気が頬を撫で、鳥がどこかでさえずり合っている。彼女は肩で息をしながら、花々の色彩を静かに目で追っていた。
「これだけ穏やかだと、私……まだ生きられるような気がしてしまうわ」
「そう思うなら、なおさら生きてほしい。さっきみたいにゆっくり歩くのも、一緒にいろんな景色を見るのも、まだ終わりにしなくていい」
「でも、いつまで続くか分からないでしょう? 私の体は、またすぐに悲鳴を上げるかもしれない」
「それでも構わない。君が望む限り、僕は傍にいる。もし体調が悪くなっても一緒に対処していけばいいさ」
リリアーナは彼の言葉にかすかに頬を染め、視線を花壇へ戻す。彼女自身も今は心に落ち着きを取り戻しているが、完全に病が癒えたわけではないという現実は痛いほど分かっている。それでもこうして短い散歩に出られただけでも、大きな前進のように思えた。
「ねえ、アルベルト。もしも……私にもっと時間が残されていたら、あなたと一緒に何をしたいかしら。社交界の夜会でもいいし、馬車で遠出して景色を眺めるでもいいし……」
「なんでもいいんじゃないかな。君が行きたい場所に行って、君がしたいことをする。それを手伝わせてくれれば、僕も幸せだ」
「そう……実は、昔からずっと海を見てみたかったの。大きな水の境がどこまでも続いているって、想像もつかなくて。もし行けるなら……」
「そしたら、いつか二人で行こう。まだ体は万全じゃないから、すぐにというわけにはいかないけど、必ず連れていくよ」
リリアーナは思わず笑みを浮かべる。生きられないと思っていた自分が、いつの間にかアルベルトとこれからの夢を語っている。これがどれほど嬉しく、同時に切ないか。ほんの少し胸が痛むが、それさえも受け入れてみようと思えた。
ふいに、彼女はかすかに息をつまらせ、胸を押さえるようにして小さくうずくまった。足に力が入りづらいのか、体勢が崩れかける。アルベルトは慌てて彼女の肩に手を添え、支え起こした。
「大丈夫か? 痛みが出たのか」
「ちょっと……息が詰まっただけ。平気よ、これぐらい慣れてるわ」
そう言いながらも、リリアーナの額には薄っすらと汗が浮かんでいる。やはり長時間の外出は厳しいのかもしれない。アルベルトは苦しげな彼女の表情を見るたび、せっかくの幸せな時間が長く続かないことを痛感する。だが、その弱々しい姿こそが、彼女が懸命に生きようとしている証でもあった。
「ゆっくり深呼吸をして……落ち着いたら、部屋に戻ろうか。まだ無理は禁物だ」
「ええ……ごめんなさい、せっかく散歩につき合わせたのに」
「何言ってるんだ。むしろ僕は楽しかったよ。君が少しでも気分転換できたなら、それで充分」
リリアーナは、彼の言葉に力なく微笑んで、うなずく。確かに、ここまで歩けただけでも嬉しい。その一歩一歩が、自分がまだ生きているという感覚を鮮明にしてくれるのだと、彼女は改めて思う。




