第11話 共鳴する心②
やがて、リリアーナは苦しそうに息を吐きながらも、「何て愚かなんだろう」と小さく呟く。自分の意思に反して、彼の申し出を拒みきれない。それが嫌なのか嬉しいのか、彼女自身も判断がつかない様子だ。
「私……もう少しだけ、あなたに甘えてみたい……でも、苦しめたくない……その狭間で、ずっと怖がっていただけなの」
「それでいい。どんなに矛盾していても、今はそれが本当の君の心なんだろう? 僕は全部受け止めたい。君が心の奥に隠していた言葉を、聞きたかった」
「……聞かせる価値なんてないわよ、どうせ大して変わらない。死が迫ってることに、変わりはないんだから」
「死が近づいているなら、なおさら残された時間を一緒に過ごさせてくれ。僕にはそれが必要なんだ。君と僕、両方にとって……」
そう言って、アルベルトはもう一度リリアーナの手を強く握った。冷えきっていたはずの指先に、ほんのりと血の通う温度が戻りつつある気がする。彼女の表情にも、一縷の期待が忍び込んでいるのかもしれない。
「あなたが、そう言うのなら……少し……だけ。私はもう逃げる力もないし、あなたを遠ざける気力も……残ってないから」
「それでいい。今はゆっくり休んで。あとは僕が手配する。医師にも連絡を取って、一番適切な療養先を探すから」
「……療養……そんなもの、どこまで意味があるか分からないわ」
「たとえ意味がなかったとしても、最後の瞬間まで君が生きるのを諦めないように、僕も諦めない。それだけは信じてくれないか」
リリアーナは微かな笑みを浮かべた。まだ涙が頬を伝っているものの、その笑みには苦しさとともに、ちょっとした解放感が混じっている。彼女にとって、こうして弱音を吐くこと自体が初めての安らぎだったのかもしれない。
「……ありがとう、アルベルト。あなたがそこまで言ってくれるなら……もう少しだけ、頑張ってみる」
耳を疑いたくなるほど穏やかな声色が、アルベルトの耳に届く。ずっと張り詰めていた彼女の仮面が、今ようやく外れかけているのだと実感する。もう一歩進めば、彼女の本当の心を知り、共に戦う道を切り拓けるかもしれない。
アルベルトは深く息を吐き、リリアーナの手を離さないまま暖炉の火をもう少し大きくする。宿の主夫婦は気を利かせて奥の部屋に引っ込んでおり、二人だけの静かな時間が流れる。大きな嵐が過ぎ去ったあとのような、ひと時の安寧だった。
「……もう一度言うけど、僕は諦めない。君を救う方法だって、なんとかして探してみせる。例えどんな奇跡に近い可能性でも追い求めるよ」
「あなたって、本当に……諦めが悪いのね」
リリアーナは目を伏せながらも、わずかに口元を綻ばせる。そこにあるのはあきらめだけでなく、アルベルトに対する温かな感情が見え隠れしていた。心を閉ざし続けた彼女だが、今や完全に拒絶できる余力はない。むしろ、彼の強い意志にほだされ始めているように見える。
「昔は……あなたが私を案じてくれたことがあった。その頃は、私も病を隠して笑っていれば、いつか普通に生きられると思っていた。けれど、そうじゃなかったから……」
「今から変えていける。いつかの夢は諦める必要はないんだ」
「夢を見て、裏切られる痛みは……もう嫌なの。わかってるでしょう?」
その問いかけに、アルベルトは小さくうなずく。確かに、リリアーナの立場で期待を抱けば抱くほど、病の進行や余命の短さに対する恐怖が増すのも事実だ。それを覆すのは容易ではない。
「それでも構わない。君が痛みを抱えるなら、僕も一緒に抱える。独りで背負う必要はない」
リリアーナは再び涙をこぼしそうになり、唇を噛んでそれを押しとどめた。暖炉の揺れる火が、二人の横顔を柔らかく照らす。アルベルトの決意は揺るぎなく、リリアーナに染み渡るように伝わっている。
「……今は、少し眠りたい。身体も辛いし、頭が回らないわ」
「分かった。しっかり休んでくれ。ここはしばらく借りて、明日の朝になったら先生に連絡を取ろう。伯爵家の人たちも心配している。……いいかい?」
「ええ……」
リリアーナはアルベルトの手を離し、深く息を吐いて目を閉じる。その顔には依然苦痛の影があるものの、少なくとも激しい拒絶や絶望が際立っていない。すがりつくような弱さを初めてさらけ出したためか、憑き物が落ちたかのように落ち着き始めている。
アルベルトは静かに立ち上がり、毛布を整えてから部屋の隅に腰を下ろす。ドレスの裾を脱いだ彼女が、少しでも呼吸しやすいように胸元を緩めるのを手伝い、汚れたタオルを片付ける。外の雨音は相変わらず強いが、室内は暖かい焔の明かりと、二人の呼吸だけが聞こえる平穏の空間へと変わっていた。
「リリアーナ……君が恐れるなら、何度でも僕が支える。どんなに無謀でも、僕が奇跡を探す」
小さく呟いた声は、うずくまる彼女の耳には届かないかもしれない。けれど、アルベルトの心は固い。いずれ訪れるかもしれない最期のときまで、共に生きることを誓う。たとえ病が治らなくても、彼女が孤独に死を選ぶことだけは絶対にさせない――その決意が、今の彼のすべてを支えていた。
かすかな灯りの中、リリアーナの静かな寝息が聞こえ始める。悪夢にうなされることなく、穏やかに眠れるのはいつぶりなのだろうか。アルベルトは一度息を整え、心を落ち着かせると、毛布をかけ直してからそっと彼女の手を握った。その手の平にほんのわずかでも温もりが戻ったことが、何よりの救いだった。
こうして、荒れ狂う雨の夜を乗り越え、リリアーナの弱音とアルベルトの決意が共鳴し合う。一緒に生きたい。死ぬ前に孤独を味わわせたくない――その想いが、二人の距離をぐっと縮めていく。まだ道は遠く、病がもたらす絶望は消えたわけではない。それでも彼らの心は、確かに交わり始めていた。自らを傷つけるように周囲を拒み続けたリリアーナの仮面は、もはやほとんど意味を成さないほどに外れかけている。
朝が来れば、また新たな試練に直面するかもしれない。伯爵家への対応や、リリアーナの本格的な治療方針、あるいは彼女自身の身体がどう反応するのか――問題は山積みだ。だが、それでもアルベルトの心は折れない。彼女を支える覚悟がある限り、どんな障害も乗り越えてみせる。その固い決意を胸に、彼はリリアーナの寝顔を見つめながら、深く静かに息をついた。
「諦めない。絶対に……」
そう呟いた彼の声は、小さな部屋に優しく響き、焔の揺れる明かりと共にリリアーナの耳にも届いたかもしれない。彼女の唇がほんの少しだけ動き、奇跡のように柔らかな表情が浮かぶ。雨の夜の苦しみを経て、二人の想いは今ひとつの光へと向かい始めている――。




