第11話 共鳴する心①
雲間をこじ開けるように雷鳴がとどろき、空を切り裂く閃光が一瞬だけ大地を照らす。暗闇の中、アルベルトはリリアーナを腕に抱えながら、雨の降りしきる夜道を必死に馬を走らせていた。倒れかけた彼女を何とか救い出そうと、最寄りの村外れにある小さな宿屋を目指している。先ほどからリリアーナは微かにうなされるような声を上げるものの、意識ははっきりせず、ぐったりと身をゆだねているだけだ。胸の奥まで冷えていくような雨が、なおも絶え間なく二人を叩きつけていた。
どうにか木造りの簡素な宿屋にたどり着くと、音を聞きつけた宿の主が驚いた様子で扉を開ける。アルベルトは一刻を争う思いで事情を説明し、ふさわしい部屋と暖を求めた。館の主は慌てて暖炉の薪に火をつけ、粗末ながらも急いで寝台を整えてくれる。リリアーナをベッドに横たえるとき、アルベルトは雨水に濡れきった彼女のドレスが冷たく身体に貼りついているのを改めて感じ、胸が痛んだ。
宿の主の妻が粗末なタオルを何枚も差し出し、アルベルトは礼を述べると、ふと彼女たちに遠慮がちに頼み込んだ。
「乾いた衣服を分けてもらえませんか。彼女の体が冷え切っているんです」
「分かりました。うちの娘の古着でよければ……。できるだけ暖かいものをお持ちしますから、少しお待ちくださいな」
宿の主の妻はそう言って急ぎ足で台所のほうへと消えた。アルベルトは濡れそぼったマントを脱ぎ捨てると、リリアーナの身体をタオルで丁寧に拭き始める。冷えた指先や頬は氷のように冷たく、時折小さく咳き込む様子に、彼の心臓は締めつけられるような痛みを覚えた。
「しっかりしてくれ。まだ……まだ終わったわけじゃないだろう」
呼びかける声は震えを帯びる。これまでリリアーナにどんなに強く拒絶されても、決して動じないよう心に決めていたアルベルトだが、今は違う。彼女の命の儚さに、直面せずにはいられなかった。
やがて宿の主の妻から借り受けた服を着替えさせると、アルベルトは暖炉の熱で温めた毛布をそっとリリアーナに掛ける。頬に触れると、ほんの少し体温が戻り始めたようにも思えるが、安堵するには早い。しばらくはこのまま側で見守るほかない。
そのうちに、一つの激しい咳がリリアーナの口から漏れ、アルベルトは慌てて彼女の肩を支える。乾いた布で唇を拭いながら、「リリアーナ、分かるか。僕だ」と声をかけると、瞼の裏で意識が揺れるのか、小さく身じろぎした。
「……ん、アルベルト……?」
かすれた声でそう呼ばれた瞬間、アルベルトの胸に少しだけ安堵が広がる。彼女は自分の名前を覚えている。それだけでも希望になる気がした。リリアーナは薄く目を開き、天井を見つめながら浅い呼吸を繰り返している。
「大丈夫だ。もう安心していい。ここでゆっくり休めば……」
「……なぜ……」
力のない声が少しずつ大きくなり、アルベルトを見上げる視線が揺れる。白い頬にはまだ火照りが残り、汗と雨水が入り混じった額がほのかに蒸気を立てている。
「なぜここまでして……あなたは……」
「放っておけるわけがないだろう。さっきも言った。君がどれほど遠ざけようとしても、僕は君を助けたいんだ」
リリアーナはうわ言のように唇を動かしながら、視線をそらそうとする。しかし体に力が入らないのか、そのまま枕に沈み込み、声だけを振り絞る形になった。
「死ぬのよ、私は……。治らないし、余命だって……ないに等しい。こんな私に……なぜかまうの……。あなたは……将来を約束されてる立場じゃない……」
「確かに、僕は公爵家の跡継ぎとして将来を期待されているだろう。でも、それが何だ。君を見捨てて、自分だけ未来を歩むなんて考えられない」
その言葉を聞いた瞬間、リリアーナは涙をこぼしかけるが、必死に瞳を閉じてそれをこらえようとする。咳き込みながらも、どうにか冷静を保とうとしているのが痛いほど伝わる。
「私は……もう、諦めているのよ。いくら頑張っても治らない病なんて……どうしようもないじゃない。痛みも恐怖も耐えられないほど味わってきたのに……もう、これ以上、何を求めろというの」
「生きてほしい。僕と一緒に、生きる方法を探そう。先生も言ってた。完治は難しいかもしれないが、少しでもよくする道はあるって」
「……うそよ。そんな希望を抱くほど、私は強くないわ。いっそ……何もかも嫌われて、誰の記憶にも残らずに消えられたら、そのほうが……」
そこまで言いかけて、リリアーナは苦しそうに咳き込む。アルベルトは慌てて彼女の背中を支え、倒れないように姿勢を保つ。溢れる涙が頬を伝い、とうとう彼女は声を震わせながらうめくように言った。
「怖いの……生きるのも、死ぬのも……全部怖い。あなたを傷つけるのはもっと怖い……」
「怖いなら、頼ってくれ。どうか僕に、君のそばにいることを許してほしい。君がどんなに絶望しても、支えになるのが僕の役目だ。そうしていたかったんだ、本当はずっと」
アルベルトの言葉に、リリアーナの瞳から涙が落ちる。仮面を外すことを拒んできた彼女が、今はもう気力も尽きて、素のままで思いを吐露しているようだ。小さく震える唇を見つめながら、アルベルトは彼女の手をそっと握りしめる。
「……アルベルト……あなたは……本当に……変わらないのね。昔から……優しすぎる」
「君だって、そうだろう。周りを傷つけないように自分を追い込む、そんな優しさを見せなくていいんだ。だって、僕は辛くても君を見守る覚悟を決めてるから」
リリアーナはしばし言葉を失ったまま、アルベルトの手の温かさを確かめるように指を動かす。その仕草からは、死を望んでいるように見せながらも本当は生きたいと思う、そんな矛盾を抱える心が伝わってきた。
「……本当に、あなたは諦めないのね」
「ああ。僕は諦めない。君が生きられるように、どんな方法でも探す。たとえそれが小さな延命だとしても、君に残された時間を少しでも伸ばすために力を尽くしたい」
その言葉は決意の炎を宿していた。リリアーナは伏し目がちに、しかしどこか戸惑いを含んだ目つきでアルベルトを見やる。雨の湿気と暖炉の熱が重なり、室内には篭ったような熱が漂っていた。




