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第2話 仮面の下の素顔①

 夜会をあとにして馬車を降りると、リリアーナ・フォン・エヴァンスは漆黒の夜空を一度見上げてから、自らの館へゆっくり足を運んだ。扉を開けて出迎えたのは、執事と侍女たち。誰もが彼女の気分を害さぬよう、丁重に声をかけることを控える。かつてはもう少し気さくに挨拶する者もいたが、今や伯爵令嬢としての威厳と名高い「冷酷さ」がすっかり館の空気を塗り替えていた。


 奥まった廊下を進み、白い扉を開けると、そこに待っていたのは彼女の主治医であるクレイグ・ハーヴェイだった。古くからエヴァンス家に仕えている医師で、壮年に差しかかった穏やかな人物だ。彼はリリアーナの姿を見るなり、夜会帰りにもかかわらず顔色が悪いことに気づき、申し訳なさそうに口を開いた。


「戻られたばかりのところ失礼いたします。お加減はいかがでしょうか」


 クレイグが問いかける声には、仕事上の冷静さよりも、彼女を案じる響きのほうが強く含まれている。それもそのはず、彼はリリアーナの深刻な病状を最もよく知る人物だからだ。彼女は答えずに扇を軽く畳むと、部屋の一角に用意された椅子へ静かに腰を下ろす。衣擦れの音が小さく響き、広い室内にこもった空気をかすかに揺らした。


「平気よ。大したことはないわ」


 そう言ったものの、リリアーナの声にはやや疲労の色が滲んでいる。夜会の最中こそ、あれほどの冷たさと孤高をまとうことができたが、その代償としてはかなりのエネルギーを消耗する。それに、彼女の身体は日々衰弱しているという事実が、確かな痛みと倦怠感をもたらしていた。


「少し検査をさせていただければと思いますが、よろしいでしょうか」

「かまわないわ」


 リリアーナがそう答えると、クレイグは手早く器具を取り出し、脈拍や呼吸音を確認し始める。伯爵家の古い肖像画が並ぶ室内には、落ち着いた調度品が置かれているが、彼女にとってはここがもっとも息苦しい場所でもあった。治療のための薬瓶や書類が常にそばにあり、自分の病と向き合わざるを得ないからだ。


「胸の痛みはいかがです。最近は強まっていませんか」

「ここ数日は、そう変わらないと思うわ」

「そうですか。ただ、見たところ熱が少しばかり高いようです。夜会で無理をされたのでは」

「……あの程度、無理に入るかしら」


 鼻先で笑いながらも、その声音にはどこか張り詰めたものが感じられる。クレイグは彼女の瞳を(のぞ)き込むようにしばし沈黙する。リリアーナが本当の状態をどこまで自覚しているか――彼女自身が一番知っているだろうが、医師として聞き出すべきか逡巡しているようだ。


「実は先日、改めてお身体の検査結果をまとめたのですが……」


 クレイグが切り出すと、リリアーナは言葉をかぶせるようにゆっくりと息をついた。彼がどんな報告をしようとしているのか、先刻承知だと言わんばかりの態度だ。


「余計な説明なら結構よ。どうせ、時間が限られているという話でしょう」

「……ええ。実を申しますと、以前にもお伝えした見立てより、やや早いペースで症状が進行している印象があります。薬も効きづらくなっているようですし、あまりご無理をなさらないように」

「承知しているわ。もっとも、伯爵家の娘として夜会を欠席し続けるわけにはいかないの。周りがどう騒ごうと、私がこうして出席していること自体が必要なのよ」


 その声には決意とも執着ともつかない、不思議な響きが混じる。クレイグは痛ましげな顔をして、それ以上の言葉を飲み込んだ。患者本人が望まぬ限り、強い制止はできない。彼女の行動が社交界にどう影響するかは医師の専門外だが、少なくとも身体がもたないという事実だけは否定できないのだ。


「とにかく、今宵はお休みになってください。明日、また改めて診察いたします」

「ええ、ありがとう」


 リリアーナがさりげなく礼を口にすると、クレイグは深く頭を下げて部屋を出ていった。扉が閉まると同時に、彼女はほんの少し肩の力を抜いて息を吐く。夜会での完璧な「仮面」を維持した後は、このひとときが何よりも辛い。誰からも見えない場所で、病の苦しみを実感しなければならないからだ。


「……馬鹿げているわね」


 そうつぶやいて立ち上がり、着替えのために自室へ向かおうとする。すると、廊下の先で待っていた侍女がやや落ち着かない表情を浮かべて駆け寄ってきた。


「お嬢様、失礼いたします。少しだけお時間をいただけませんでしょうか」


 どこか躊躇(ためら)いがちなその言葉に、リリアーナは眉をひそめる。普段なら、侍女が率先して声をかけることはない。彼女の不興を買いたくない気持ちが先に立つからだ。何か特別な事情があるのかと思い、「聞くだけならいいわ」と短く返す。


「実は、伯爵様と伯爵夫人様が、今日はお嬢様と少しお話ししたいと……」

「両親が、わざわざ?」


 その言葉にわずかに心を乱されたリリアーナだったが、すぐに冷静な表情を取り戻した。両親と顔を合わせること自体は珍しくないが、彼女の病に関してはほとんど触れようとしないのが常である。そんな二人があえて話がしたいと言うのは、何か事情があるのだろうか。


「わかった。少し待ってもらってから行くと伝えて」

「かしこまりました」


 侍女が慌ただしく去ったあと、リリアーナは自室へ戻ってドレスを脱ぎ、軽いローブに着替える。夜会でのきらびやかな衣装から解放されると、肩が多少楽になったように感じる。けれども、どれほどドレスを脱いだところで、彼女の身体を(むしば)む病からは決して解放されないのだ。


 簡単に髪をほどいて、鏡に映った自分を見つめる。瞳には疲労の色が濃い。頬もわずかに()せてきたように感じる。もう少し若い頃は、もう少しだけ血色が良かったと記憶しているが、今はその面影さえ薄れつつあった。


「でも、それでいいのよ。どうせ長くは持たないんだから」


 リリアーナは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。もし自分がいつか命を落としたとしても、周囲がそれを悲しまずに受け止めてくれるなら、こんなにも楽なことはない。だからこそ、彼女は他人に嫌われるように振る舞っている。それが、誰にも同情されたくない、そして死後に心を痛めてほしくないという彼女なりの防御だった。

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