第9話 消えゆく影①
あれほど堂々と「婚約破棄」を申し入れたリリアーナは、その後、王都の華やかな社交から急速に姿を消していた。もともと噂に事欠かなかった彼女の名は、今や「突飛な言動のあとに雲隠れするなんて、やはり常軌を逸している」とまで評されている。しかし、アルベルトはその評判を鵜呑みにせず、彼女の本心を知る者として、いてもたってもいられない日々を過ごしていた。
先日、エヴァンス伯爵夫人との面会を終えてからというもの、アルベルトはリリアーナの近況を探るため、あらゆる手段を模索し始める。しかし伯爵家に直接足を運んでも、門前で「お嬢様は体調がすぐれず、会うことはできません」と断られるだけで、奥へ通されることはない。屋敷の侍女たちは形だけ「申し訳ありません」と頭を下げるが、アルベルトには彼女たちがリリアーナを案じていることが痛いほど伝わってきた。
噂によれば、リリアーナは急激に体調を崩したらしく、外出はおろか人前にもまったく姿を見せないという。社交界の一部では「ついに懲りて引きこもったのだ」などと冷やかす声もあるが、アルベルトはその言葉を耳にするたび苦々しい思いを抱く。彼女が本当に周囲から逃げようとしているのは、自身の病を隠し、みんなに悲しみを与えないためだと分かっているからだ。だからこそ放っておけない。
ある日の昼下がり、アルベルトは意を決して伯爵家近くの喫茶店を訪れた。ここは伯爵家の使用人たちが時々立ち寄る店らしい。もし何らかの形でリリアーナの様子を知っている者がいるなら、話を聞けるかもしれない。そんなわずかな望みにすがって、アルベルトはこぢんまりとしたテーブルを確保し、店員が給仕する紅茶に口をつけることなく待った。
どれほど待ったころだろうか、店の扉が開いてローブをまとった初老の男性が入ってきた。見覚えのある佇まいに、アルベルトは思わず立ち上がる。その人は、リリアーナの主治医であるクレイグ・ハーヴェイ――先日、王宮での会話を立ち聞きしてしまった当人だ。
「先生、少しお話を伺えませんか」
クレイグは驚いたように目を見開いたが、すぐに店内を見回し、人目につかない一角を選んでアルベルトと向き合った。周囲に客はいるものの、幸い誰も彼らに特別な興味を抱いてはいないようだ。アルベルトは軽く息を整え、できるだけ穏やかな声で話し始める。
「リリアーナのことを教えてください。今、彼女はどうしているのですか」
クレイグは一瞬困惑の表情を浮かべたが、やがてアルベルトの真剣さを悟ったのか、声を落として答えてくれる。
「お嬢様は、最近ますます体調を崩されていて、医師としても心配しています。痛みが強く、夜も眠れない日が続いているようで……」
「そうですか……。先日、伯爵夫人からも少し話を聞きました。彼女の病は、本当にそんなにも重いのでしょうか」
アルベルトが必死に言葉を探しながら尋ねると、クレイグは神妙な面持ちでうなずく。
「お嬢様の病は、幼少のころから悪化の一途をたどっています。私が何度も治療や安静を勧めても、『余計な世話だ』と突き放されるのが常です。これはご存じかもしれませんが、彼女は本来、とても優しい方なのです。だからこそ、あえて冷淡に振る舞い、周りを遠ざけようとしているのでしょう」
「あなたも、そうお考えなのですね」
「ええ。お嬢様は自分の死を誰にも見届けさせないために、人を近づけないのだと思います。どれほど痛む身体を抱えていても、かたくなに助けを拒む。ご両親ですら、その壁を破れません」
その言葉に、アルベルトは息が詰まるほど胸をかき乱される。確かにリリアーナは誰の手も借りようとしない。それどころか、むしろ自分から「嫌われよう」と行動してきたのだ。
「もし……彼女はこのまま屋敷に閉じこもっていても、状態は良くならないのですよね」
「そうです。病は進行を止めることが難しく、仮に治療を行っても完治は期待できません。ただ……私は、お嬢様に心の支えとなる人が現れれば、多少なりとも精神的な負担を和らげられると思うのです。それだけでも病状の進みを遅くできる可能性があります」
クレイグの声には悲痛な願いがこもる。医師として、病を治し切ることはできなくとも、リリアーナが苦しみを軽減し、生きる希望を捨てずにいてほしい――その思いをアルベルトは痛いほど感じとった。
「先生、お願いします。どうか彼女との面会を仲介していただけませんか。僕は、どうしても彼女と話をしたい」
アルベルトが頭を下げると、クレイグは戸惑いながらも真剣なまなざしを返してくる。
「わかりました。私も協力いたしましょう。ですが、いつまで屋敷にいらっしゃるか……。いや、実は一度、ご自宅にいない日があったのです」
「いない日?」
「ええ。ご家族にも告げず外出された様子で、しばらくして戻られたのですが、どこへ行っていたのかは誰も知らない。このところ、お嬢様はときどき独りで外に出られるんです。どうやら伯爵夫人は、それを心配して侍女たちに捜させたらしいのですが、気配すらつかめなかったとか」
アルベルトは思わず身を乗り出す。リリアーナは衰弱している身でありながら、どこかへ出かけている。それは何のためなのか。彼女が人知れず行う何かがあるのだろうか。
「もし、またリリアーナが屋敷を抜け出すなら、僕が後を追います。勝手な行為かもしれませんが、彼女の体調を考えれば、野放しにはしておけません。先生、何とか情報をもらえませんか」
「はい、できる限り。それと……お嬢様を説得するのは、容易ではないでしょう。どうか、うまく声をかけてあげてください」
クレイグが深々と頭を下げると、アルベルトも強くうなずいて別れを告げる。喫茶店を出るころには、日差しが傾き始めていたが、彼の心は焦りに満ちていた。リリアーナがひっそりと屋敷から離れ、どこかで倒れていたらどうするのか。その不安が、冷や汗のように背筋を伝っていく。




