第8話 母の涙と娘の想い②
「けれど、その喜びは束の間でした。たぶん、あの子はすぐに考え直したのでしょう。あなたを近づけてしまったら、死ぬときにあなたを悲しませてしまうかもしれない……だから、初めから憎まれ役を徹底しようと決意したのだと思います」
伯爵夫人の言葉に、アルベルトは胸が締めつけられた。リリアーナが婚約者としてアルベルトと過ごす幸せを、いっときでも夢見たかもしれないのに、すぐにそれを否定してしまったのだろう。「自分は死ぬ身だから、あなたを巻き込みたくない」という悲壮な覚悟。あの冷酷な振る舞いは、愛情の裏返しだったのだ。
「ということは、あの冷たい言葉も……いや、婚約破棄を望むと言ったのも……」
「きっと、あなたに深く踏み込まれたくないのでしょう。私たち親ですら、どうにもできない壁を築いてしまって。あなたにまで望みを託したら、死ぬときに絶対に悲しむと分かっているから。あの子は誰よりも優しく、怖がりなのですよ」
伯爵夫人は苦しそうに両手を握り合わせ、そのまま声を震わせた。
「先日も、娘が夜会で大騒ぎをしたとか、侍女を泣かせたと耳にしました。それらの行為はすべて、周囲に嫌われるためのもの。自分が死んだときに、誰も泣かないように……そう、勝手に思い込んでいるのです」
アルベルトは、リリアーナがあらゆる気遣いを拒否している姿を何度も思い出した。確かに、そのすべてが「死の直前に誰も悲しまないため」だったとしたら、彼女はどれほど孤独だろうか。誰よりも優しいからこそ、誰にも愛されまいとする。その矛盾に気づけば気づくほど、アルベルトの胸は痛んで仕方がない。
「どうして……僕は、そんな彼女の心を少しも理解してやれなかったのか」
「いいえ、あなたのせいではありません。あの子が徹底して隠してきたのですから。けれど、私は正直、あなたならと思うのです。あの子が心を許せるのは、昔からの記憶を持つあなたかもしれない、と……」
「伯爵夫人……」
アルベルトが視線を上げると、夫人は涙を隠しきれないまま微笑みを作った。母親として娘を救いたい気持ちがありながら、娘の強い意志によって何もできない。だからこそ、彼女はアルベルトにすがるような瞳を向けているのだ。
「お願いです。娘をどうか……どうか救ってやってください。あの子が本当に望んでいるのは、死を受け入れることなんかじゃないはず……。ただ、周囲を悲しませたくないから、愛されることを拒んでいるだけです」
その言葉を聞いたアルベルトの中で、迷いは霧散していく。リリアーナが隠してきた本心――人を愛し、人に愛されたいという願い。そして、それをあきらめようとする強がり。彼女が自ら死を決めたわけではないにしろ、その死に向かう姿勢はどれほど寂しく、辛いものだっただろう。
「わかりました。僕が彼女を救います。絶対に、彼女の孤独を壊してみせます」
自分の言葉に偽りはない。アルベルトは確かな決意を滲ませて言い切る。伯爵夫人が瞳を潤ませながら、かすかにうなずいた。
「ありがとうございます……。あの子は本当は、誰よりもあなたの幸福を願っているはずです。自分が死んだら、あなたを悲しませる――それだけが許せないから、あんな冷酷な振る舞いを……」
「もう、彼女にそんな心配をさせたくない。僕は何とか、方法を探します。治療の可能性が低くとも、少しでも良くなるように……そして、もし時間が限られているなら、少なくとも最後まで一人で抱え込ませたりしません」
胸の奥に熱いものがこみ上げてきて、アルベルトは思わず歯を食いしばる。伯爵夫人は涙を拭い、改めて深く頭を下げた。
「ありがとう。本当に……。あの子は、今までずっと一人で闘ってきたのです。親である私たちでも、あまりにも強い『仮面』に触れることができませんでした。どうか、その壁を破ってやってください」
「お任せください」
アルベルトは静かに立ち上がり、夫人に礼を尽くす。そして、足早に部屋を出る前に、一瞬だけ振り返った。そこには、娘の命を案じる母の姿。リリアーナを見守ってきたその愛情の深さを思うと、彼女の孤独に心が引き裂かれそうになる。
だが、悲しんでいるだけでは前には進めない。彼女は死の準備をするかのように周囲を遠ざけ、強がりを貫いている。ならば、自分は彼女の道をこじ開けてでも救ってやる――そう強く思いながら、アルベルトはエヴァンス伯爵家を後にした。
邸の外へ出ると、早春の風がスッと頬を撫で、まばゆい日差しが彼の瞳を刺激する。まるで、これまでくすんで見えていた世界に一条の光が差し込んだかのようだ。リリアーナがどれだけ自分を拒んでも、その真意を知った今こそ彼女を救うための一歩を踏み出すべきだと、改めて決意をかためる。
「リリアーナ、本当に……死を覚悟しているのなら、なぜ最後まで一人で背負うんだ。僕がいるのに……」
アルベルトは呟き、天を仰ぐ。その瞳の奥には涙の一粒が浮かびそうになったが、すぐに強いまなざしへと変わる。悲嘆に暮れている暇はない。彼は、もう二度と失意にまかせて退くような真似はしないだろう。
「絶対にあきらめない。彼女がどれほど高い壁を築こうが、壊してみせる」
風に消える小さな決意表明。しかしアルベルトの中で、それは確かに燃え盛る情熱だった。あの冷たい仮面の裏に潜んでいる優しさと、死に抗うことすらあきらめかけている弱さを、彼はどうにかして救い出す。リリアーナが孤独な道を歩かなくても済むように――その想いが、彼の全身に力をみなぎらせる。
遠くで教会の鐘が柔らかく鳴り響く中、アルベルトは馬車に乗り込んだ。今はまだ行くあてが定まっているわけではないが、必ず彼女に再び会いに行く。そこでどんな拒絶の言葉をぶつけられようと、もう逃げ出したりはしない。痛みを知ったからこそ、彼女が突き放すその手をむしろ強く握るだろう。
そうして、リリアーナを「救いたい」という揺るぎない意思が、アルベルトの胸で燃え上がる。残された時間が短いかもしれないという現実も、彼の決意にさらなる焦りと力を与えていた。あの夜会での出会いからすべては始まった。その出会いが、今度こそ絶望ではなく希望へと変わる日が訪れる――アルベルトはそう信じて疑わなかった。




