第6話 壊れゆく絆②
ちょうどそのとき、廊下の奥でガラスの割れるような音がした。驚いた使用人の声が響き、思わずアルベルトが「どうした?」と戸口のほうを振り返る。その隙にリリアーナは廊下のほうへ足早に向かい、何かを確認するように扉を開けた。
そこには偶然、公爵家の若い従者が落とした花器の破片が散らばっている。周囲の者たちが慌てて始末しようとする中、リリアーナの目がとある侍女の腕に留まる。破片を片付けようとして、侍女が小さく切ったのか腕から血がにじんでいた。侍女は必死に押さえながら「大丈夫です」と周囲に言うが、リリアーナはそのまま冷然と言い放った。
「大丈夫かどうか私が決めることよ。汚らしい血を垂れ流して部屋を汚しているじゃないの。公爵家の使用人ともあろう者が、みっともないわね」
思わず場の空気が凍りつく。侍女は「あっ」と口ごもり、慌てて出血を押さえて立ち尽くす。さらにリリアーナは畳みかけるように言葉を突き刺した。
「そんな手当もできないようじゃ話にならない。誰か手を貸してあげたら? 私には関係のないことだけれど、目障りだわ」
侍女たちが愕然とする中、アルベルトは遅れて廊下に駆け出してきた。その耳に飛び込んできたのは、リリアーナが侍女をあしざまに罵る声だ。あまりに冷酷な仕打ちに、彼は目を見開く。
「リリアーナ、何をしている! 怪我をしたなら助けてやればいいだろう!」
「あなたが助ければいいのではなくて? 私が手当てする義理なんてないわ」
わざと強い言葉を放つリリアーナの目元には、ほんの一瞬のためらいが浮かぶ。彼女自身、あの侍女が傷を負ったのを見過ごすなど本来はできない性格だ。しかし、ここで優しさを見せたら、アルベルトに付け入る隙を与える。そんな思いが、彼女の心をさらに冷たく縛りつける。
アルベルトはあまりの言動に怒りをにじませながら、侍女の腕をつかんで破片から遠ざけ、近くの従者に声をかける。
「すぐに医務室へ連れていってくれ! 包帯か何かで止血を!」
「は、はい、かしこまりました」
慌てた様子で侍女を連れ出す従者たちを見送ると、アルベルトはリリアーナに向き直った。その表情は怒りと悲しみが入り混じり、唇がわずかに震えている。
「どうしてそこまで酷いことを言うんだ。彼女は血を流していたんだぞ。お前には本当に心がないのか?」
「ないわよ。面倒なことに巻き込まれたくないもの」
「君がそんなはずない! 以前なら、迷わず手当てをしようとしたはずだ!」
「以前の私を知ってるなんて、ずいぶん思い上がりが過ぎるんじゃなくて?」
リリアーナはあえて侮蔑的な笑みを浮かべながら言い放つ。その瞬間、アルベルトの堪忍袋の緒が切れたように見えた。彼は拳をぎゅっと握り、声を震わせる。
「これ以上、君の態度を見ていられない。もしこれが君の本性だというのなら、もう……!」
「そう。あなたもやっと気づいたのね。なら、はっきり言いましょうか」
リリアーナは扇を手に取り、一歩近づく。ドレスの裾が床を引きずるように揺れて、彼女の横顔がさらに冷たげに映る。胸の奥の痛みを無理やり封じ込め、押し殺した声で決定的な宣言を口にした。
「婚約を破棄してちょうだい。私と結ばれるなんて、あなたにとっても不幸でしかないわ」
アルベルトは息を呑む。まさかリリアーナのほうからはっきり「破棄してほしい」と告げられるとは思っていなかったのだろう。侍女を救えと怒鳴った勢いは消え失せ、彼の瞳には絶望とも言える色が浮かんでいる。
「……どうしてそこまで……」
「理由なんてない。あえて言うなら、あなたが目障りなのよ。私は一人で気ままに生きたいだけ。婚約なんて重荷でしかないわ」
アルベルトは苦悶の表情でその言葉を受け止め、拳を開いたり握ったりしながら何度か口を動かす。しかし、適切な言葉が出てこないようだった。リリアーナの態度は、すでに限界を通り越した冷酷さを帯びている。それでも、彼は薄々気づいている――これは演技なのではないか、と。だが、確証がどこにもない。目の前の彼女は、悲しむ人を嘲笑うかのように振る舞っている。
「……わかった。君がそう望むなら、もういい。僕にも、もうどうしようもない。だけど覚えておいてくれ。僕はまだ、君が本当にそんな人間だとは信じられないままだ」
「あなたが何を信じようと勝手よ。でも、私と関わるのはここまでにしてちょうだい。お互いのためよ」
リリアーナはアルベルトを冷たく見据えたまま、踵を返す。廊下の先で使用人たちが小声で何かをささやいているのが分かるが、彼女は気にする素振りも見せず、そのまま足早に立ち去った。残されたアルベルトは、その場に立ち尽くすほかない。
しばらくして、アルベルトの耳に侍女のすすり泣く声がかすかに届く。彼はもう一度顔をしかめ、リリアーナの言葉を反芻するように唇を結んだ。彼女のあまりに非情な姿勢、侍女を傷つけても構わないという態度。いくら自分が昔のリリアーナを思い出しても、今の彼女を理解する術は見つからない。
「どうして、こんなにも遠ざけようとする……」
婚約破棄をリリアーナの口から明言された今、アルベルトはもはやどうすることもできない。自分の父に報告すれば、家同士の話は一気に破棄に向かうだろう。それが彼女の狙いだったのかと思うと、怒りと悲しみが入り交じった想いが胸を突き刺す。
屋敷の外へ戻るとき、アルベルトはもうリリアーナを追いかける気力もなかった。扉の閉まる音が静かに響いて、そこにいた使用人すらも声をかけづらい様子だ。思わず下を向き、馬車へ向かう足取りはまるで重りを引きずっているようだ。
こうして、二人は事実上の決別状態となった。王都の噂好きたちは「ついにリリアーナが婚約破棄を願い出た」「アルベルトが激昂して邸を飛び出した」など好き勝手に囁き合い、物語は一段と大きく動き始める。リリアーナの心中には、言い知れぬ痛みと罪悪感が渦巻いていたが、それでも自分の選んだ道を歩むしかないと信じ込もうとしている。
「私は、このままでいい」
それが本当の救いになるのかどうか、答えは誰にも分からない。
ただ、確かなことは、彼女とアルベルトとの間に築かれた繋がりが、今は深く断ち切られつつあるということだけだった。




