12話 星座のような日々を描いて
温泉は好きなんだが、なにがどう好きかというとちょっと難しい。
小太りのおっさんが「かーっ」と言いながら体重計に乗ったり、小さな子供が走るのを父親がたしなめたり、お爺さんが隅の椅子に座ってテレビを眺めていたり、なんというかその空間自体がけっこう好きなのだと思う。
国籍不問、立場不問、なにも纏わず、決して関わり合わず、自由にリラックスするという雰囲気が。
服を脱いで体を洗って、内湯に全身を沈める。タオルは頭の上。
風呂の中でなにかを考えるのは、少女漫画のヒロインだけでいい。男は黙って瞑想。揺れるお湯の流れを感じながら、脱力。
唯一考えるのは、だんだん熱くなってきたよォ!とか、まだまだのぼせないよォ!こんな程度で音を上げてしまうのかイ!みたいな。俺を鼓舞する色黒マッチョの精霊。地獄かここは。
脳内マッチョをロードローラーで圧殺して、露天風呂に移動する。ぬるめなので長く浸かっていられる。お湯の外に出た顔は外気にさらされ、風が心地よい。
雪の中の露天風呂、入りてえな。
旅でもしようか。一人旅。俺には向いてるかもしれない。
……でも、それは今じゃなくてもいい気がする。
なにかあるってわけじゃないけど。なにかがある日々だから。新しいことは勝手に始まるし、俺も始めるし、だからそういうのは、まだ。
いいかなと思うのだ。
◇
温泉から上がって髪を乾かし、外に出てもまだ誰もいなかった。そりゃそうか。女子は髪を乾かすのが大変だろうからな。
みんなで揃っていないのは残念だが、牛乳を飲むとしよう。こればっかりは湯上がりが一番美味いのでね。
と、思っていたら。
「ん」
視界の端に移る、ソフトクリームの文字。抹茶、いちご、バニラ、チョコ……味別の垂れ幕は風の無い室内で、ピンとその存在感を主張している。
…………ごくり。
この火照った身体に、ひんやり冷えたソフトクリーム。濃厚なバニラ。最高。
気がついたら手に握られていたコーン。仕方がないね。椅子に座ってゆっくり味わう。
上半分を食べ終わったところで、なにやら邪気を感じた。横を見ると、ほとんどゼロ距離に宮野が立っている。
「……トム先輩」
やべえ驚きすぎて声が出ない。とりあえず、落とさなくてよかったソフトクリーム。
「ボクは、頑張ったぞ……」
ふらっと倒れそうになりながら、俺の右横へ座る。ぐったり全身の力を抜いて、ゾンビみたいだ。シャンプーの甘い匂いは、この空間の誰もが身に纏っている。
「そ、そうか。頑張ったか」
「ああ。すごかったんだぞ。……マヤさんと水希さんは、とてもおお」
「待てバカ。そこから先は俺に言っていいことじゃない」
意識が朦朧としているのか、いつにも増して発言が危うい。うっかりとんでもない情報を手に入れてしまうところだった。
うん。俺はあの二人のどこがどうとかはちっとも知らないです。本当に。
「そうか。……トム先輩は男だったな。ふっ、気楽なものだよ」
「お前がなにを言いたいかはちっともわからんが、不思議なことにぶっ飛ばしてやりたいな」
「ボクや柚子くんは、己の貧弱さに」
「待てそれもダメだ。全部ダメだ。お前もうなにも喋るなアホ」
消さなきゃいけない記憶が増えたじゃねえか。
宮野は手で額を押さえて、小馬鹿にしたように笑う。その目はどこか遠くを見ていた。たぶん、俺の言葉は届いていない。
「トム先輩はいいな。そんな薄っぺらい胸でも生きていけて」
「こいつ……完全にトラウマになってやがる」
頭を抱えるしかなかった。こればかりは男の俺が共感してやれるものでもないし、笑ったところで肯定できるものでもない。
試してみようか? ははっ。俺は貧乳のが好きだぜ。次に話す相手は弁護士になるな。
打つ手なしの八方塞がり。仕方がないので、ソフトクリームをぱくぱく。コーンがうめえ。コーンだけ売ってくれないかな。
最後の一かけを口に入れたところで、正面にふらっと小柄な幽霊が現れた。幽霊じゃ無かった。中学生。
「先輩……」
目から光を失って、こちらも完全にノックアウトされた様子。宮野が先に来ていなかったら、恐怖で叫んでいたかもしれない。
「俺だけお化け屋敷に来たのかな」
「いえ、こっちも十分怖かったですよ……まさかあんな」
「もうなにも言わないでくださいお願いします俺はこれ以上罪を重ねたくないんです」
自分よりずっと小さな相手に懇願する。
「はは……ところで先輩の好きな小学生って、どんな感じなんですか?」
「できればその話題は帰ってからがいいんだけど」
「ダメです」
「ダメかぁ」
目がマジだった。マジですか。公共施設でその話題扱わなきゃダメっすか。俺たちに注目している人は、今のところ警備員くらいしかいなそうだけど。うん。なら大丈夫かな(?)。
口頭で説明するのは憚られるので、スマホで画像検索して見せる。
「この子」
「これが先輩の初恋の相手ですか」
「そんな歪んだ初恋はしちゃいないよ?」
オーソドックスに保育園の先生でした。普通なのかは知らん。
「……そうですか」
やはりどこか遠い目で、じいっと画面を凝視。大丈夫かな。大丈夫だよな。大丈夫だと思います。信じる者は救われる。
「許します」
「俺はなにを許されたんだろう」
本当に話題、繋がってるよね。
矮小な男子大学生の疑問を置き去りにして、七瀬さんは左隣に座る。
挟まれた俺は最近でも五本の指に入りそうなほど気まずく……いや、最近のに比較したらまだマシだな。最近の俺、基本的に気まずいので。むしろ今は空気が美味いまである。変態的な意味じゃないです。
「はぁ……」
「ふっ……」
両隣から重いため息。やっぱ気まずいわ。
「二人とも、ソフトクリーム食べる?」
「食べたいぞ」
「食べます」
「生き返った」
「生き返らざるを得ないだろう。前進だけが人生だ」
「そうですね。いつまでもくよくよしてはいられないので」
「本音は?」
「ソフトクリームと聞いたらなにもかもどうでもよくなった」
「悠奈さんと同じです」
若干恥ずかしそうに口を尖らせる二人。
「ま、そんなもんだよな。どの味がいい?」
「買ってくれるのか?」
「あー。マヤさんたちにはナイショね。ほら、二人は後輩だから」
というよりは節度を知っているから。マヤさんと古河にスイッチが入ったら、俺の預金通帳が一瞬で底をつく。怖いんだよなあの二人。ナチュラルに食い殺されそうなところあると思います。
「先輩が先輩っぽくしてるのって、新鮮です」
「ああ。トム先輩が先輩風を吹かせている。なかなかの暴風だ」
「宮野は抜きでいいんだな?」
「ごめんなさい! ちょっと口が滑ってしまったのだ!」
「本当にちょっとか……?」
けっこうな切れ味だったぞ。心の弱いやつだと、二度と後輩に先輩らしいことができなくなるくらい。俺の心は強くないけど、けっこう打たれ強いほうではある。
「で、何味?」
「とちおとめがいいです」
「抹茶をお願いしてもいいだろうか」
「ん。オッケー」
恩を売るとか打算とかではなく、単純にそういう気分になることもある。自分を慕ってくれる後輩というのは、無条件で可愛がりたくなるものなのだ。
マヤさんと古河はサウナを満喫しているらしいし、暇つぶしにこれくらいのご褒美はあってもいいだろう。
にしても自分だけ手持ち無沙汰というのは退屈なもので。
『トルコアイス 必勝法』と検索してみる。ヒットゼロ。
ワザップにもないところを見ると、あのトルコ人たちはバグを用いても攻略できないらしい。あとで書いておこうかな。コーンを一回渡された時点でデータリセットして女性を選択してニューゲームしてセーブ(これを絶対にやってください)した後に電源を切ると左手にトルコアイスゲット!
人生にデータリセットなんてないとかいうマジレスは受け付けてません。強く生きて。
残る二人が出てきたのは、ソフトクリームが無くなって少しした後だった。彼女たちのサウナが異様に長かったのか、先に出た三人がのぼせやすいのか。真相は闇の中。
二人はへろへろの状態で牛乳を片手に持ち、清々しい表情でそいつを飲み干した。
「ぷはぁっ。最高ね!」
「この一杯のために生きてるよねえ」
まーたおっさん増えたよ。
「待たせて悪いわね」
「いいですよ。なんとなく、予想できてましたから」
「そ。じゃあご飯食べて帰りましょうか。今日は全員奢ったげる」
「わお」
不意打ちの気前の良さにびっくりする。そういえばもう、夕飯にはいい時間だ。帰ってからでは遅くなる。
生姜焼き定食、めっちゃ美味しかったです。
◇
温泉に入って夕飯も食べて、すっかり満足した体で夜風を受ける。
「んー。いい風っ」
大きく伸びをしてマヤさんが言えば、さらにもう一陣の風が吹いた。
山の空気はしんと冷えて、肌の熱をさらっていく。
古河はマヤさんと同じように手を伸ばし、宮野は静かに目を閉じ、七瀬さんは長い髪を整え。
そんな彼女たちを、俺は見ていた。
風が止んだのを見計らって、そっと置くように言う。
「星も綺麗ですよ、ここ」
天の川とまではいかないが、それでも普段の街から見るのとは違う。紺碧の空にちりばめられた光は、確かな輝きで星座を描く。
「本当ですね」
「うむ」
「綺麗だねえ」
「そうね」
たぶん。俺たちがここにいることに、大した意味はない。俺たちが今日こうして温泉に来たことにも。
だけどいつか、振り返ったときに。昨日と今日を、今日と明日を結んだときに感じるのだ。確かな連なりを。絵画のような、明確な意味を。
「また、皆で来ようね」
古河が言った。願うような言葉に、全員が頷いた。
こんな約束を、いくつもしたい。
だけど足りないんだ。まだ足りない。ふとした瞬間に、足下に絡まる泥のような記憶。鏡の向こう側にいる、疲れ切った表情の男。諦めきった指先。歩むことをやめ、陽だまりのような場所に腰を下ろした足。
勇気だなんて言ってみたけれど。そうじゃない気がする。もっと根本的に、俺には向き合わなきゃいけないことがある。拾うべき過去がある。そこから逃げていたら、この先には進めない。勇気ってやつは、その向こう側にあるものだ。
疲れは癒えたか? 自分に問えば、少しはマシになったと心が返す。そうかい。それはよかった。
だったら俺も、前へ進もう。
進む季節に、置いていかれないように。
夏 2章『投げ捨てることだって、簡単じゃなかったけれど』に続きます。
いつも読んでくれてありがとうございます。長くなる気がしますが、きっちり最後までやり切ろうと思うので、もう半年ほどお付き合いください。