14話 スタートラインは彼方
五月の終わり。
七瀬柚子は、一つの目標をこの日に据えていた。
朝六時半に起きて、顔を洗って寝癖を直し、制服に着替えて髪を結ぶ。小さい頃から続けていて、やめ時のわからなくなったツインテール。最近、ある人物のせいでますますやめられなくなった髪型。
実際の年齢よりも低く見られがちな彼女には似合うのだが、当の本人はそれが不満でもあった。
(大人って、……遠いなぁ)
中学校という空間においては、彼女は三年生。最も上の年齢にあたるのだが、ここでは逆だ。彼女の次に若い宮野悠奈でさえ、二つ歳が離れている。
一番関わりのある大学生、戸村真広に至っては、五つだ。
ニュース番組を見ていれば、十歳差以上のカップルは実在するし、芸能人だったらそれがむしろ普通みたいな風潮はあるけれど。実際問題、このくらいの年代ではそういう話にすらなりはしない。
(でも先輩って、年下のこと……嫌いじゃない、よね? ……って)
パン、と乾いた音。両手の平で頬を叩いて、気持ちを引き締める。
そういう気持ちは、まだだ。
まだ持っちゃいけない。蓋をしていなきゃいけない。
じゃなきゃきっと、勝負にすらならないから。
胸に手を当てて、少し早い鼓動を抑え込む。
立派な大人に近づくと決めた。なりたいものを見つけた。だから、そこにたどり着くために努力をしたい。している。
机の上に積み重ねられたテキストは、今日までの軌跡だ。数冊手に取って、鞄にしまう。
いつか。
その場所にたどり着けたとき。彼女の打ち立てた目標が果たされたとき。
その時にやっと、スタートラインに立つのだ。
下に降りて朝食を摂り、一番に家を出る。
高校入試を控えた全国の中学生による力試し。
模擬試験に向かって、少女は一歩を踏み出した。
◇
学校について準備をして、復習をしていると時間はすぐに過ぎた。
五月末のこの時期、ほとんどの生徒は部活動の仕上げで忙しい。真剣に勉強に向き合っている生徒は稀で、柚子はいわゆるガリ勉的な立場だった。
最も、真剣にやっている本人はそんなことを気にする余裕もない。
誰にどう言われようが、彼女の価値が変わらないことを知っているから。
時間になって、問題用紙が配られる。解答用紙つきで、薄いのに奇妙な圧がある。
両手を膝に載せて、深呼吸して目を閉じる。
思い返すのは、真広との会話。
『緊張しない方法? いや、緊張はするよ。俺なんか手が震えて字が書けなくなるし。だけど、緊張しても点は取らなきゃいけないからね』
開始の合図は鋭く、一斉に動き出す気配。柚子はまだ、目を開けない。
『周りに合わせる必要はない。一分一秒が勝負ってのは事実だけど、落ち着いて問題を解くことにはそれ以上の価値がある』
呼吸をする。緊張で、周囲の動きで惑わされそうなリズムを、自分のものにしていく。
『ゆっくりでいい。整ったら、目を開けて』
そっと鉛筆に手を伸ばす。落とさないように握って、消しゴムを手元に引き寄せる。
視界は思ったよりも広い。恐怖はあるけれど、呑み込まれはしない。
開始から二十秒。ようやく柚子は問題用紙をめくる。一枚、二枚、三枚……最後まで、めくりきる。
『解き始める前に、全部をざっと確認。解けそうな問題と、解けない問題に仕分ける』
解答中には冷静さを失ってしまうから、最初に行うのだ。この時間は社会で、やはり一二年生の分野はまだ学びきれていない。
空欄は多くなる。そのことは悔しい。けれど、
『できない問題は、後で俺に聞けばいい。君がするべきことは、解ける問題を確実に解いてくることだよ』
そんなことで、あの人は柚子を見限らない。
その優しさに、応えたい。
開始から三分。解答用紙へ、最初の答えを書き込んだ。
一方その頃、戸村真広は。
五本の指を講義室の机に食い込ませ、柚子の無事を祈りながら黒板を睨んでいた。