11話 ハイタッチ
宮野の実家から帰った俺は、空腹を訴えるモンスターと化していた。健康的な時間に食べる。という方針の下、穂村荘の夕食は七時に設定されているのだ。
一人暮らしの頃は、夕食が日をまたぐことも多々あったが、今となっては健康生活。あの頃のように「最悪食べなくてもいいや」ではすまない。
っつうか古河のご飯を食べ損ねるとか、あり得ないわけだし。
シャワーを浴び、テーブルに準備された食事に手を合わせる。
古河がテーブルの向かい側にいて、用意してくれたのだ。本当に頭が上がらない。
「いただきます」
「食べて食べて」
柔らかく微笑んでくれると、それだけでほっとする。帰ってきたんだなという気分になる。
この感情は――信仰?
俺の中で古河という存在がどんどん大きくなっていく。ベクトルがおかしいことは置いておいて。
スープを一口。
「沁みる……」
野菜スープが美味すぎるのよ。
やはり空腹は最高のスパイス。愛情を凌ぐとはよく言ったもんだ。言っちゃだめだろとは思うけど。
「悠くんの実家、どうだった?」
「ん? あー、でかかったよ」
「歴史のある和菓子屋なんだってね。やっぱりあんこが違うのかな」
「あ、ごめん……そのへんはあんまり触れなかったや」
「なにしに行ったの!?」
「なにしに行ったと思ってたんだ!?」
本気で驚いた顔するじゃん。俺もびっくりだよ。
昨日いちおう言ったはずなのだが、もう一度、かいつまんで説明する。
「あのね、私はてっきり、戸村くんが和菓子のアドバイスをしに行ったと思ってたんだよ」
「戸村くんにそんな裏設定はねえよ。見えるものがすべてだ」
「家の問題って言ってたから」
「そんな規模を相手にしたら俺、吐血するぞ」
話を聞いた感じじゃ、家族経営というより会社だ。従業員の方々の人生なんて背負えるかよ。
……まあ、でも。
宮野のお父さんはそれを背負っていて、宮野はそれを背負うとした。
「そっかぁ」
「うん。なんかごめん」
今日のメインテーマがそれで、そのために残ってくれていたなら申し訳ない。俺はちっとも悪くない気がするけど、申し訳ない。
あれ、俺もしかして悪くない?
「ところでね。気になってるアイス屋さんがあるんだけど」
「話題転換の速度エグいな」
「あ、和菓子の話する?」
「元々あんましてないよな!?」
剛速球からの低速チェンジアップ。もしかしたら古河はメジャー投手なのかもしれない。古河って名前のピッチャー、ベテラン感すごい。
「いいよ。アイスの話題で」
「ありがとねー」
「どいたしましてー」
ぬるっとしたお礼にぬるっとした返事。緊張感が欠片もない。
一番情けない姿を見られているから、彼女の前で取り繕おうとは思わない。つまり今の俺は、普段の俺よりも更に無気力なパーフェク戸村。完成形に近づくほどダメになるってなに?
脱力した状態で、箸を進める。猫背にはならない。さすがにね。
そしてもう、ここからの流れも見切った!
「最近話題で、行ってみたいんだけど……」
「どんくらい離れてる?」
「車で三十分くらいだって」
「ふーん。じゃあ行くか」
「いいの!?」
「古河には世話になってるからな。それくらい、なんでもないよ」
恩を返せるなら、こっちからお願いしたいくらいだ。
「やったぁ。戸村くんは優しいねえ」
「照れるからやめろって……」
直球が一番威力高いんだよな。結局。
ため息。ほんの少し心に生まれた動揺を消すための、一拍。
「いつ行く? 平日?」
「そう。休みの日だと、あっという間に売り切れちゃうし、駐車場も停められないんだって」
「なるほどな」
「今度の水曜日、午後が休講でしょ。そこなんかいいかなって」
「おっけー。じゃあ、マヤさんに借りれるか聞くか」
「いいわよ」
「おわっ!」
突如割り込んでくる声。開く扉。
堂々と入ってくるマヤさんと、後ろからちょこちょこ着いてくる七瀬さん。
「車貸すから、行ってきなさい」
「ありがとーマヤちゃん。皆のぶんも買ってくるね」
「頼んだわよ。ラズベリーか宇治抹茶ね」
「らじゃらじゃだよ」
俺の心臓はびっくりでバクバクしているのに、古河はちっとも動じていない。なんだこいつの心臓。鋼でできてるのか?
胸を押さえていると、静かに七瀬さんが近づいてくる。
「お帰りなさいです」
「ただいまです」
「…………」
「…………なに?」
今日は沈黙が多いな。もしかしてそういう日だったりします? 沈黙の日。みたいな。縁起悪そうだなおい。
「どう、でしたか?」
「どう、とは」
「行ってきた感想です」
「あー。ええっとね」
家族の問題は、結局俺にはわからなかったし、わかっても語るようなものじゃない。ざーっと一日の記憶を漁って、七瀬さんに言えるようなものは。
うん。これだ。
「やっぱり、小さい子は可愛いなって思ったよ」
「先輩。また罪を重ねたんですか?」
「初犯すらまだだよ!?」
めちゃくちゃドン引きされた。
俺はいったいなにを間違ったんだろう。っていうか「また」ってなに?
「言い訳は弁護士と考えてくださいね」
「取り合って! 俺の話を聞いて!」
なんなんだこのカオス。まさに混沌。頭痛が痛いぜ。
ここに宮野が加わったらと思うと……想像するのも嫌になるな。
だけどなんか、笑っちまう。
◇
宮野が帰ってきたのは、翌日の昼過ぎだった。
帰ってきてすぐ、彼女は俺の部屋にやってきて、「トム先輩はエスパーなのか?」と真面目な顔で聞いてきた。
「だったらその道で商売やってるよ」
「それもそうだな」
「誤解、ちゃんと解けたか?」
「ああ。おかげさまで。ありがとう」
「どういたしまして」
真っ直ぐに俺のことを見上げる瞳は、いつにも増して迷いがない。伝える言葉がなくなってもなお、じっと見続けてくる。
「どうした? 俺の顔になんかついてる?」
「いや。なんでもないのだ。なんでもない……が、一つ区切りがついたから、なにかしたほうがいいのかなと」
「まーた難しいことを」
おかしくて笑ってしまう。宮野にとっては笑い事じゃないかもしれないけど、俺は笑うよ。
俺はそうやって、お前のことを肯定したいから。
「んじゃ、両手挙げろ」
「え、両手? あ、ああ」
「せーのでいくぞ」
「せーの?」
俺も両手を挙げ、宮野と俺の中間点を目指して、手を前に。
「せーのっ」
「せ、せーの」
手の平同士がぶつかって、乾いた音が鳴る。
「お疲れさん」
ハイタッチの後には、笑顔だけが残った。




