10話 いつか、その言葉の先へ
「うむ。……たぶん。だから、その時が来たら――」
〝また一緒に、来てはくれないだろうか。”
宮野悠奈が無意識に言おうとしたそれは、トラックの音にかき消され、ほとんど自覚も無いまま風に流れる。
どうしてそんなことを言おうとしたか、なんて疑問すら抱かないほど。
それは僅かな、一瞬の感情。
なにせ彼女にはまだ、解決するべき問題が残っていたのだから。
◇
真広が穂村荘で「古河、オデ、ハラヘッタ……ンゴ」とふざけているちょうどその頃、悠奈は父親と並んで縁側に座っていた。
口数の少ない父と、折り合いの悪い娘。その組み合わせは、ある意味大学生よりも絶望的だ。
暗闇に溶けた庭木を眺めながら、悠奈は思う。
(誤解、か。いったい何をどう誤解しているというのか)
戸村真広という人間にそれなりの信頼を置いている彼女だが、その点に関しては疑問だった。もちろん、真広の発言が的外れだという可能性もある。
だが、だったらもっと自信がなさそうに言うはずだ。彼がそういう人であると知っているから、あの断言にはそれなりの根拠があるのだろうと思った。
「さっきは、すまなかった」
ぽつりと、父親が呟いて。小さく頭を下げた。自然に悠奈も頭を下げる。気持ち、父よりも低く。
「いや。ボクも取り乱してしまって……ごめんなさい」
父に謝られるのが嫌だった。
正しいと信じていたものが、過ちを認めるとき。その背中を見つめる悠奈はどこか、薄暗い気持ちになる。
さっきだってそうだ。
二人で話したとき、父は彼女に謝罪した。
「厳しく育てて、すまなかった。もっと普通にすればよかったと、反省している」
その言葉は、なによりも彼女を否定する言葉だった。
今の悠奈が間違った存在だと、そう言われているようで。カッとなって飛び出してしまった。
今でも、そのことは怒っている。許せる発言ではないと思う。
ただ、その一方で。
父を憧れにして、それがいつしか重荷になって、逃げるために嘘をついた悠奈は。彼女がそのことを伝えて、謝ることも同じように。
父のこれまでを、否定することなのではないだろうか。
そんな意図はなくとも、言葉にすれば刃だ。否応なく傷つけてしまう。
呑み込むことが必要なのだ。謝れば楽だが、謝っても救いにはならない。少なくとも、今は。
だから悠奈は目をちゃんと開き、父のことを見つめた。
「ボクは、今の自分に満足しているよ。ダメなところは多いけど、後悔はないんだ。……本当に」
「……そうか」
少しの沈黙。父は相変わらず自信なさげに、
「悠奈はずっと、父さんの跡を継ぎたいんだと思ってた」
「思っていたよ。でも、たぶん無理なんだ。――失望させて申し訳ない」
「失望?」
「しただろう。ボクは父さんの期待に応えられなかったのだから」
「失望…………ああ、そうか。だから悠奈、お前はそう思ったから、……失望なんてしていない」
「それは、期待もしていなかったから?」
悠奈の問いに、父は首を横に振る。
「父さんはな、嬉しかっただけなんだ。娘と同じ夢を見られることが。――だから、勝手に喜んで、悠奈を傷つけたんだろう」
「違う! それは違う!」
どうしてこんなにすれ違うのだろう。
一緒に暮らして、同じ時間を生きていたはずなのに。お互いが勝手に自分の責任だと思い込んで、いつしか大切な思い出を泥に沈めた。
「楽しかった。嬉しかった。ボクだってそうだったんだ!」
頭の中がぐちゃぐちゃになって、気づけば涙が流れていた。
父のことを誇りに思っていた。『朧堂』を守って、工業化を進めて。それでも父だけは、和菓子職人であり続けた。味を守るために、再現ではなく、継承するために。
その背中を追うことは、楽しかったはずなのだ。
思い出が溢れて、けれどそれを表すだけの言葉は、まだその手にはなくて――
みっともないくらいに、少女は泣いていた。
言葉は力不足だ。いつだって取りこぼす。ならば、零れたぶんを別の言葉で補おう。補いきれないぶんは、また別の言葉を重ねよう。
決意の中で流す涙は、振り返った苦しみは、きっと無駄じゃない。
「……ありがとう。父さん。ボクのことを、育ててくれて」
宮野悠奈は悩み続ける。
けれどその目は、光を見ている。




