9話 ボクの話
帰り道をのんびり歩きながら、彼女の言葉は紡がれた。
「小さい頃、ボクには夢があった。それは、父の跡を継ぐことだ」
「…………あー」
なるほど。というか、そういうことかと。
どこか腑に落ちるものがあった。
俺の持っていた印象と、実際に受けた感触の間にあった、矛盾染みた違和感。その穴が満たされるような感覚。
矛盾。
それもそうだ。
宮野悠奈は、嘘をついていた。
意図してか、意図せずかは知らないが。今日の昼。ここに来るまでの道中、俺の質問に違う言葉を返して。
俺が嘘をつかせてしまった。とも言えるかもしれない。
父側なのか、祖父側なのか。と聞いてしまったから。
本当は、そんなことはちっとも大切な部分ではなかったのに。まったく見当違いのことを問うて、彼女に嘘をつくだけの隙を与えてしまった。
誤魔化したいと思ってしまう誘惑を、俺がしたのだ。
「くれたもんな。チョコ大福」
「そういうことだ。ボクは別に、父を憎んでもいないし、方針で対立しようとも思っていない。ただ、跡を継ぐだけの自信や能力がないのだ。それを偽った」
ぬるい夜風に当てられて、宮野は微睡むような表情をする。
「男のように、あるいは父のように強くなりたかった。そういうふうに育てられた、というのはあるが、間違いなくボクの願いでもあったのだ。だから文句は無かったし、そのように振る舞おうとした。運動も勉強も、素行も生活習慣も、すべてで一番を目指した」
男らしく。という目標がズレていったのだろう。
夢だったものはいつしか、彼女を縛る鎖となった。
「小学生の頃はよかった。誰よりも勉強ができたし、運動だって自信があった。でも、中学からはダメだった。少しずつ一番が取れなくなって、なにもかも一番にはなれなくて、取り戻そうとして……」
視線は遠く。
自らの過去を客観視して、切り離すように。そっと。
「気がついたら、ボクにはなにも残っていなかったよ」
なにも。というのは、どこからどこまでなのか。
勉強か、運動か、あるいは友人か。そのすべてなのだろうか。
わからない。相変わらず、言葉だけじゃなにも伝わりやしない。
だけど、その喪失は。その時彼女が失ったものは、かつての彼女にとってすべてと言えるものだったのだろう。
「限界だった。だから父に対して、嘘をついた。先代の『朧堂』のほうが好きだったと。そう言って対立して、逃げるように遠くの高校を受験して、穂村荘に住んだ。それが、ボク――宮野悠奈という人間なのだ」
どこかの家の夕飯の匂いがして、まったく知らない場所なのに、どこか懐かしさを覚える。のどかな田舎道には、そういう空気が流れている。
アスファルトの石をつま先に引っかけて、横断歩道に転がしてみる。
「まあ、いいんじゃないか。別に」
「いい、とは?」
「逃げたの、間違ってないだろ」
「そ、そんなことあるはずないだろう!? ボクは嘘をついたんだ! 逃げるために嘘をつく。こんなに卑劣なことがあるか!」
「まあな。正しくはないよ。そこは反省すればいい」
叱って欲しい。か。
誰かに怒ってもらって、断罪されたい。そうやって楽になりたいんだろうけど。
「でもさ、大変だったんだろ。一生懸命頑張って、でもダメで、自分は才能ないって何度も思わされて」
「…………辛かったけれど、そんなもの言い訳にはならない」
「辛いのは言い訳じゃない。理由だ。俺たちは勇者じゃないんだし、別に逃げたって世界は滅ばない」
RPGが好きだ。世界を救う英雄を率いて、敵を討つ。そのストーリーが好きだ。
だけど俺は、絶対にそんな立ち位置になりたくない。だって重いじゃん。負けたら人類が滅亡するとかさ。胃に穴が空いて髪の毛抜けて、中盤くらいで鬱になるね。
「宮野が無事でよかったと思うし、逃げてきたから会えたんだろ。俺たち」
「そんな……そんな甘くていいわけがないだろう……」
「いいんだよ。甘く緩くだらしなくが俺のモットー。厳しいことは、他の誰かが勝手にやってくれる。というか、お前なら自分でできるだろ」
それを優しさと呼ぶのかはわからない。厳しさが必要なこともあるだろう。
だけど俺にとって、その時は今じゃない。俺はあくまで俺として、自分の中にある物差しで行動する。
「叱るならあれだ。よくも俺とお前のお父さんを二人きりにしたな。めちゃくちゃ気まずかったんだぞあれ」
「あぐっ」
手首にやんわりスナップをきかせ、ショートカットの頭にチョップ。
「……そのことに関しては、本当に、本当に申し訳ないと思っている」
「深く反省しろよ。コミュ障を気安く放り出すな。一歩間違ったら野垂れ死ぬんだからな」
「了解……」
「あともう一個!」
「なっ、はい! いかがした!」
指を立ててはっきりと、これだけは伝えねばと気合いを入れて。語調が強くなってしまってせいで、宮野は背筋を正し、一気に緊張した表情になる。
「お前のお父さん、いい人だと思うから。たぶん、なんか誤解してるんだと思う。以上!」
「え、え、え?」
「俺が言うことはもうない! わかってることもない! 解散! 残りは自分でやれ!」
「あ、うん。はい……わかった!」
「じゃあ俺、先帰るから。ちゃんと話して解決して、明日戻ってこいよ」
「え? 帰る?」
「うん。帰る」
「ええっ!?」
直輝くんに会ったときは、なんか勢いで一泊しようかなとか思ったけどやっぱ無理だわ。あのお父さんと話したり、お母さんに詰め寄られたらストレスマッハで死ぬ自信がある。嫌いとかじゃないんだけどね。俺、コミュニケーション苦手ピーポーだからさ。
「男を実家に泊めるの、人生でも一大イベントなんだぞ。だからそういうのは、ちゃんと相手を見つけたときにやれ」
友達だからオッケーとか、そういう年齢でもなかろう。年齢差でもない。たとえ両親に許されたとしても、なんかね。俺が許したら終わりみたいなところがあると思います。
俺は責任取れないので帰る。以上。
「…………わかった」
「本当か?」
「うむ。……たぶん。だから、その時が来たら――」
轟々と風が吹く。隣をトラックが過ぎたせいだ。音がかき消され、一瞬の静寂。
「ん?」
「いや。なんでもない」
小さく肩をすくめて、宮野は笑う。
その笑い方はどこか冗談めかしていて、俺の苦手な、戸村真広ってやつの笑い方に似ていた。
◇
帰りの電車に揺られながら、ぼんやり車窓を眺めた。真っ暗でなにも見えやしない。流れる街灯の色だけが変わって、ときおり車のテールランプが彩りを添える。
間違いを犯すことは、当然よくないことだ。
けれどそれは過程の話であって、結果ではない。
どれだけ理想とかけ離れた道を辿っても、今いる場所を肯定できるのならば。
その過程は、辿ってきた道は、果たして間違っていたと言えるのだろうか。
俺にとって必要な道。払うべき代償。あるいは対価。
そういう類いの、自己肯定をしてみる。
いつか彼女がこうやって、彼女の生き方を肯定できるように。
まずは俺が、自分を認めてやろうと思う。