9話 空を飛べない鳥たちは
最寄り駅から電車で二十分揺られ、動物園までのバスに乗る。
休日ということもあり、園内は家族連れで賑わっていた。男女カップルもいるにはいるのだが、他のデートスポットに比べればずっと少ない。
だからなんだというわけではないが。ないはずだが、ちょっと落ち着く。遊園地とかじゃなくてよかった。
入り口のゲートをくぐって、真っ先に目に入るのはアフリカゾウ。
「わぁっ、すごい臭いだね!」
「感想がひでえ」
にっこにこの笑顔で鼻をつまむ。確かにすごい臭いではあるけれども。
「あとは大きい」
「サイズはついでか?」
「まあ、恐竜に比べたらねえ」
「お前はいつの時代から生きてるんだよ」
適当な冗談を言い合いながら、解説のパネルを読む。
ゾウの名前はハナ。長生きで、皆から愛されているんだとか。
「あ、餌やりするみたい」
顔を上げると、飼育員さんがやってくる。マイクに話しかけると、頭上のスピーカーから音が出た。
『今から、ハナちゃんにリンゴをあげたいと思いま~す』
明らかに小学生以下に向けた話し方で、注目する人もほとんどが子供だ。
だが、そんなことは関係ない。子供達に最前列を譲りながら、きっちり見えるスペースを確保。
「餌やりって、動物園のクライマックスだよな」
「さすが戸村くん。目の付け所がいいね」
最近は動画サイトでも見ることができる。しかし、現実の迫力にはどうしても敵わない。
ゾウの巨大な鼻がぐにゃりと丸まって、小さなリンゴを鼻先で包んで、口まで持っていって、巨大なアゴでむしゃむしゃ。
正直、めちゃくちゃあがる。俺の心の中のリトル戸村くんがはしゃぎまくっているのだ。心はいつまでも五歳児。
体は大人、知能も大人、精神は子供。
一番手に負えねえ。
餌やりが終わると、人だかりも散っていく。俺たちもそれに乗って、別のエリアへ。
「おっ、ゴリラさんじゃん」
「わぁ。強そうだね」
「だな」
「荷物、いっぱい持ってくれそうだね」
「二足歩行じゃないから厳しいのでは?」
背中にのっけても落としそうだ。
「あとあいつら、物投げるし。安全面でも、買い出し係は譲れんな」
「君はなにと張り合ってるの?」
それはもちろん、ゴリラに地位を奪われないように。
考えたらちょっと悲しくなってきた。なんで俺、ゴリラに自分の地位を脅かされそうになってるんだろう。
肩を落としながら次のエリア、猿山へ。
赤い顔をした毛むくじゃらが、山の至る所で動き回っている。複数の個体で固まっているところもあれば、単独で縄張りを主張しているようなもの、端の方で丸まっているもの。
押し込められた空間で、どこか窮屈そうに生きている。
別に俺は、動物愛護を主張するようなキャラではないし、そういう思想もない。
だから思うのだ。
「人間ってすげえよな」
「んー?」
「なんとなく思っただけだよ」
「そうなんだ」
柔らかい笑顔のまま、答になっていない返事に古河は頷く。
彼女のその無関心が心地よいと思う。適当なことを言ったとき、適当に流してくれる。
だから俺は風のように気まぐれに言葉を紡いでいられる。軽い冗談だって言える。
シェアハウスに誘ってくれたのが、彼女だったからついていったのだ。
優しい無関心は傷口に触れもせず、ただ見守ってくれるから。
そんなことを、考えた。
◇
喉が渇いたからと、売店で飲み物を買う。
どこからどう見ても普通のラムネで、味もラムネな『ゴリラムネ』と、どこからどう見てもペ〇シのロゴが入った機械から注がれた『ラッコーラ』を購入。
ゴリラが俺で、ラッコが古河。
ラッコーラは紙コップに絵が描いてあって、子供が喜びそうなものだった。
一方ゴリラムネに関しては、なにか演出があるわけでもなく、ただのラムネ瓶を手渡しされた。子供泣くぞ。
炭酸のうまい季節になってきたな。と思う。
つらつらと人の少ない場所を選んで回りながら、そろそろいいかと思って切り出す。
「――で、今日のこれはなにか、そろそろ教えてくれないか?」
「今日のって?」
質問を質問で(以下略)!
うっかりキラークイーンしそうになったが、しかし。こてっと首を傾げる古河は、本当にぽかんとしている。
「…………」
気まずい静寂。
「ええっとだな。なんか最近、けっこう俺のこと見てなかった?」
あかんこれめっちゃ恥ずかしいやつだ!
俺の自意識過剰感がやばい! 違ったらどうしよう!
「あー」
「お、思い出せそうか?」
「うんうん。思い出したよ。戸村くんと遊ぶの、楽しくて忘れちゃってた」
なにそのスマイル可愛すぎるんですが。
忘れちゃってたじゃねえよキュン死するぞ?
まったく。俺みたいな萌え豚には破壊力が高すぎる。ここが部屋だったら三十分はのたうちまわってたね。お外なのでどうにか精神を保つ。
「バレちゃってたかー」
ふわふわした足取りで、古河は柵に体重を預けた。
なんの因果か、ペンギンのエリアだ。
「あれで気がつかないほうが難しいだろ」
密着しない程度の距離を取って、俺も並ぶ。
「戸村くん、いろいろあったんだってね。永谷園くんから聞いたよ」
「そんなお茶漬けみたいなやつじゃないだろ。ハセ、な」
あいつもつくづく余計なことをする。中途半端なため息が出た。
不快でも、愉快でもない。ただなにかをリセットするために必要な、一拍ぶん。
「あいつ、なんて言ってた?」
「俺たちのせいで、戸村が人づきあいを避けるようになったんじゃないかって」
「あいつの言いそうなことだ」
「なにかあったの?」
「いろいろあったし、なーんにもなかった」
俺とあいつらは、語っても語りきれないくらいには一緒にいた。だけど、語りたいと思える思い出はなんにも残っちゃいない。
それだけだ。
「人づきあいを避ける……か」
「そんなふうには見えないけどねえ」
「内弁慶ってやつなのさ」
ちゃんと向き合おうとか、関わろうとする相手はずいぶん限定的になった。もっと端的に言ってしまえば、誰と関わるかを選ぶようになった。
「それで……心配してくれたのか」
「うーん。ちょっと違うかも」
逡巡はほんの少し。すぐに答を見つけて、彼女は言う。
「友達のことをなんにも知らないのは、寂しいからだよ」
「…………」
懐かしい響きだ。
どこか遠くて温かい。懐かしくて笑ってしまう。
「お前は本当にいいやつだな」
雪の日、ケーキをくれた。
心が壊れてしまいそうなときに、軽い気持ちで手を伸ばしてくれたから。
世界はそんなに悪いところじゃないよと、その笑顔が教えてくれたから。
「でも大丈夫だよ。だって俺には、楽しい同居人がいるから。それに、ハセは自分のせいだって言うけど、俺にだって非はあった。いいやつなんだよ、あいつ。運が悪くて、噛み合わなかっただけでさ」
そこについていくだけの協調性を、俺は持っていなかった。
だから俺は、ペンギンなのだ。
高く飛ぶことだけが、鳥の幸福ではない。青い水の中にだって生きる道があることを、教えてもらったから。
なにも後悔しちゃいない。
この場所を誇ればいい。今の在り方を信じたい。
最近は、特にそう思う。
「そっかぁ」
どこか満足げに、古河は微笑んだ。
「じゃあ、余計なお世話だったかな?」
「いや。誰かに心配されるってのは、嬉しいもんだよ。ありがとな」
素直にお礼を言って、それがなんだかおかしくて、俺たちは笑った。
それからは普通に、残りのエリアを回って。古河が気になっているランチを食べてから帰った。
恋愛の「れ」の字もなかったことを、ここに報告しておく。




