5話 広大な世界の、ちっぽけな世間で
夕食後のダイニングは、俺と七瀬さんの勉強場所になることが多い。
一緒に勉強を始めてから、一ヶ月と半分ほどが経過。数学は図形を後回しにして、一次関数に突入。ペースでいえば、かなり順調と言えた。
英語は単語を中心にして、すれ違いざまにテストをふっかけたり。毎日少しずつ覚えてもらっている。
「勤勉な生徒を持つと、教える側は楽でいいなぁ」
「またそんなこと言って。先輩、楽してないじゃないですか」
「いや、そうじゃなくってさ」
俺のやることといえば、「ここやっといてね。わからなかったら聞いてね」というのがほとんどで、大部分は彼女に任せられている。
新しい単元は説明するし、質問があれば答えるけど。
どうしてこんなに楽なんだろう。
そう考えて、気がつく。
「あれだ。七瀬さんはわからない部分を理解するのが得意だから」
「わからない部分を理解……? なに言ってるんですか」
理解できなかったときの目、けっこう冷たくて怖いよね。女子のあれ、なんであんなに怖いんだろ。
「自分がつまずいた場所を言葉にするってこと。だから説明しやすいんだろうなって」
ただ首を傾げるのと、説明してほしい箇所を伝えてくれるのではまったく違う。
「あとは回答が丁寧だから、思考の過程が読み取りやすい」
「……そうですか。ええっと、他にはあったりしますか? その、継続しようと思うので」
小さく咳払いして、上目遣い。なにその最強セット。じゃんじゃん答えちゃうよ?
指を折って数えながら話すと、すっと身を乗り出してくる少女。
「字が綺麗で読みやすいし、だからといって書くスピードも悪くない。ノート作りに執着しないのもいいと思うし、なにより俺の授業を楽しそうに受けてくれる――最後のが、一番嬉しいかな」
「楽しそう。じゃないですよ」
「ならよかった」
小さく笑うと、七瀬さんも同じようにした。
あらかじめ決めた勉強の時間が終わると、こんなふうに雑談をする。引きこもりの俺と、ひとりぼっちの彼女には、そういう時間が必要なのだろう。
もっとも、最近は会話相手が増えてるし、右見ても左見ても濃いしでコミュニケーションは飽和状態なのだが。
この時間は減らしたいと思わなかった。
「ところでなんですけど、先輩は恋人がほしいと思ったりはしないんですか?」
古河の話があったからだろう。このタイミングでそれを聞かれるのは、ひどく自然な気がした。
「相変わらず、俺の心は2D小学生に奪われたまんまだなぁ」
「なんて反応すればいいんでしょう。それ」
「聞いたのは七瀬さんだよ」
「そうですけど……本気で言ってるんですか?」
「もちろん」
もちろん。嘘だ。
本気の恋なんかしないさ。2Dにも、3Dにも。
自己嫌悪ではない。他者への絶望でもない。ただ求めていない。それだけだ。
小学生は可愛いけどね。毎月一定の額が吹き飛ぶくらいには。
「先輩は先輩ですね」
「どういたしまして」
「会話を成立させてください」
「日本語って難しい」
肩をすくめながら、考えてみる。
恋愛って結局なんなんだろう、と。
初恋は経験済みだ。というか人生で二回か三回は恋に落ちた。そのときのことを振り返ると、羞恥心が破裂して爆死しそうになる程度には。
だけど。
あれがなんなのかを言葉にするのは、難しい。
純粋に相手が好きだとか、そういうものだけだったろうか。
彼女がいないと劣って見えるとか、あの子のことを好きでいなければならないとか、好きに決まっているとか、悪いところ全削除フィルターとか。
そういった数々の不純物をごちゃ混ぜにして、恋と呼んでいたのではないだろうか。
だろうか。じゃない。していた。
今になって思う。あれは偽物だったのだと。
自分を着飾るために求めていたのであって、それ以上ではなかった。
人は一人では生きていけない。それは事実だ。
だけど、人は一人で立てないといけない。
生きることはできなくとも、立つくらいはしないといけない。
せめてそれができるまでは、俺は。
人を好きになる権利すら、主張したくない。
◇
ところでところで。
長谷伸也という男を覚えているだろうか。
俺ですら記憶の最果てに流していた名前だ。今年に入ってからは、会話はおろか顔すら合わせていない。
だが、完全に忘れたわけじゃない。
去年――一年生の頃は、よく一緒にいたやつだから。
かつて俺がいたグループの一人。今はどうしているのか知らないし、興味もないのだが。
関わる気がなくとも、引き合わされるタイミングというのはあるみたいで。
なにを言いたいかというと、
古河にバイト友達が紹介した男は、長谷だったのだ。
そして長谷は俺と面識があり、さらに言えば俺は古河とシェアハウスをしている。
二人の間に挟まった俺。Q.E.D.されちゃいそうな位置関係。ドキドキするね。
「なんて、笑えねえなぁ。…………あーあ。だるいことになってきた」
世間がもっと広ければよかったのにな、と思う。