7話 気に入っている
宮野さんはふっと力を抜く。抱えた重荷を下ろすように、ほんの一瞬。だが確かに、影を落とす瞳。
「面白い話でもないから、詳しく言うつもりはないが。そういうことなのだ。ボクにとっては、女子と話すことは難しい」
「……そうか」
「ただ安心してほしいのは、恋愛対象は女性ではないのだ。――ああ、これはトム先輩には関係のないことだな」
「まあ、うん」
どちらでもないってところだろうか。百合宣言をされても、根本的なところでは俺に関係ない。
紅茶の中から、俺が俺を見つめてくる。その目は無感動で、眠たそうにのっそり瞬きをする。
向かい合う少女は席を立ち、コップを片付ける。
「すまない。珍しく素で話してしまった」
爽やかな表情で、洗練された動作で背を向ける。
だけどもう、その仕草が本物ではないことを俺は知っている。
……知っているから、なんだ。なにも変わりゃしないだろう。俺は俺で、宮野さんは宮野さんだ。干渉は必要なだけ。プライバシーは絶対。
つまり俺のすべきことは無い。
問われれば道は示したい。だが、深入りするのは違う。
そうだよな。
そう思う。
正しいかどうかは、知らないけれど。
◇
大学の講義はまばらで、朝からの日もあれば昼からの日もある。小中高に比べて自由度はあるので、工夫すれば午前休を作ることもできる。
平日の朝から休めるなんて最高だね。大学生。なってよかった。
「夏休みは八月と九月がほとんど全部で、冬休みこそ二週間程度なものの、春休みが二月三月と二ヶ月分ある。もちろんゴールデンウィーク対応の週休二日制。大学生――素晴らしい環境だよ」
「…………」
透明なグラスに入ったオレンジジュースを飲みながら、七瀬さんがじいっと見つめてくる。テーブルを挟んで、静かなファミレスの中。
デートじゃないよおまわりさん。ちょっと待っておまわりさん。違うからおまわりさん。あれですよ、血は繋がってないけど一緒に住んでる女の子でおまわりさん! 誘拐じゃないから! 監禁もしてないからね!
などと心の中でシミュレーションをしつつ、ぼんやり外を眺める。
「休みすぎじゃないですか?」
「まあでも、他の大学生はバイトにサークル、部活に恋愛、酒タバコ、パチンコスロットと忙しいらしいからね」
「急に先輩がちゃんとした人に見えてきました」
「どうだか」
若さ故の過ちというものは、若くなければ犯せない。間違いを犯すべきだ。とまでは言わないけれど。もっと大人になってから、取り返しのつかない失敗をするよりは――いや。
十八歳を超えてからの過ちに、取り返しのつくものなんてそうそうない。大学生だから大丈夫なんてのは、都合のいい解釈だ。
指の間に挟んだシャーペンを踊らせる。
「まあ、俺のことはどうだっていいんだ。問題は七瀬さんの高校受験なわけだが」
そう。今日の話題は大学生のニートな人生ではない。
七瀬さんの高校受験についてだ。
「する。ってことでいいんだよね」
「はい」
「わかった。なら、それに合わせて進度を組まないとね」
紙の上に目標を設定。ひとまず、得点は総合で六割以上を目指す。全教科でだ。口で言うほど簡単なことじゃない。
「テストを定期的にやって……解説は教科ごとに絞って…………理科は要点をまとめたプリントを作るからそれで…………社会は、教科書とテキストで暗記…………英語、英語と数学…………は、一緒にやろうか」
視線を上げると、ぽーっとこっちを見る七瀬さんと目が合う。
ぱっちりした目に、幼い顔。愛らしいツインテールと、小さな手。何度か瞬きをするが、口は閉じたまま。
「不安かい?」
「いえ。逆です。……心強いなって」
「光栄だね」
「冗談じゃないですよ。本気で思ってます」
そう言われて、自然と流すような口調になっていたことに気がつく。
「わかってるよ」
「そうですか。なら、いいんですけど」
そう言った七瀬さんはどこか不満げだ。そういう表情は珍しくないのだが、相変わらず理由はわからない。
今日は外で勉強してみたい気分なんです。ダメですか? と聞いてきたのでファミレスに来たのだが。
やはり難しい。現役女子中学生。ハイパー難易度だ。
だが、そんな状態も勉強を始めれば一変する。真面目な少女はすぐに集中して、理想的な生徒へと姿を変えるのだ。
運ばれてきたケーキを食べながら、数学の説明をする。
十二時になって、昼ご飯を食べて、俺は大学へ行く時間になる。
「それじゃ、また後でね」
別れようとしたところで、きゅっと袖を掴まれた。
七瀬さんは肩よりも低い場所にいて、きゅっと口を結んだまま立っている。
「?」
「先輩は、宮野さんのこと……どう思ってますか?」
「面白ヒューマン」
「ふざけてます?」
「いや、これは本気」
あんなにぶっ飛んだやつはそういない。ちょっと色々あるようだけど、それを差し引いても楽しいやつだと思う。
「でも、どうして宮野さん?」
「二人は仲が良いなと思って――と、とと、嫉妬とかじゃないですからね!? 勘違いされると困ります!」
「…………なんも言ってないけど」
空いた手をぶんぶん振って、その間にも袖は放さない。器用なことをするなぁ。
少女は「こほん」と咳払いして、息を整える。
七瀬さんはいつもこうだな。急にあたふたして、息を整えて、でもまたあたふたする。見ていて飽きないし、友達がいないとも思えない。
だけど俺たちは、みんながそうだ。
古河だってあんなに明るいのに、大学で人といるのを見たことはない。
宮野さんも女子と喋るのは苦手だ。
マヤさんは……友達、いるのかなぁ。大人の社会はわからない。
そしておそらくは、俺も。彼女たちから見れば、ぼっちには見えないのだろう……本当にそうかな。わからない。俺だけ特殊ケース? まあいいか。
誰もが不器用で、見ているのがむず痒い。
「不思議なんです。どうして先輩は、こんなに簡単に人と仲良くなれるのか」
「陽キャだからかなぁ」
「怒りますよ」
「ごめんなさい」
ちょっとふざけただけなのに。
「宮野さんと仲良くしたいなら、話しかけてみたら? きっと上手くいくよ」
「……はい。あ、そろそろ時間ですよね」
「ん。そうだね」
「ありがとうございました。また後で」
頭を下げて踵を返し、小走りで去って行く。角の向こうに消えたのを見送ってから、俺も歩き出す。
すべてを解決する魔法は、どこかにあるのだろうか。あるいは単に俺がもっと――。
「なーんでこんなこと考えてんだろうな」
頭を掻いて苦笑い。
人と関わらないでいたから、今の環境にやってきた。その結果がこれだ。関わりの中に、自分で入っていっている。
本当は一人が寂しかったのか?
そんなことはない。一人は楽だ。じゃあ、なぜ。
気に入っているのだと思う。あの場所を、あの場所にいる人たちを。
だから俺は、彼女たちに笑っていてほしい。
まあ、なんだ。
ちょっと動いてみるかね。




