5話 勝ち ≒ 負け
「トム先輩。明日の夕方はお時間あるだろうか」
七瀬さんとの夜の勉強が終わり、リビングでのんびりしていた所に宮野が来た。ソファに座った俺を、後ろから覗き込む形だ。
少し伸びてきた髪は切らず縛らず、肩のところにちょんと載せている。眼鏡の奥の視線が、いつになく真剣だ。
それよりも、なんだ、今の質問。
まさか。
まさかとは、思うが。
「……俺の予定を、俺に聞いてるのか?」
「なにを驚いているのだ。予定は本人に聞くものだろう?」
「俺もそう思うよ」
俺の予定は俺に聞けと再三言ってきたが、いざ聞かれると妙に落ち着かないものだ。外堀を埋められ慣れてしまった結果、かえって丁寧にされると居心地が悪いというか……。なんだこれ、どういう心理?
「して、明日の予定は?」
「七瀬さんは夜だから、夕飯までならフリー」
「起床予定時刻は?」
「順調にいけば、13時」
「ふむ。ならボクの下校時刻には起きていそうだな」
「なんかすんの?」
ソファに座ったままで問うと、宮野はふいと視線を軽くそらした。若干機嫌を悪くしたようにも見える、珍しい仕草だ。
「ほら、沖縄で約束しただろう。戻ったら、二人で遊びに行こうって……」
「あぁ、したな。ちょっとダラダラしてたから遅くなっちまった。ごめんな」
「ダラダラして先送りとは、なかなかに前代未聞な言葉だな」
「ダラダラの優先度が高すぎるんだ俺。でも、忘れてたわけじゃないんだぞ。遅くとも来月公開の映画には誘おうと思ってたんだ」
「むっ、まさかそれは……全世界を熱狂させたインド映画の吹き替え版のことだろうか?」
「察しが良すぎるだろ」
信じられない速度で思考が一致するあたり、俺たちは本当に波長が合うのだろう。合う、というのはちょっと違うかもしれない。
なんとなく宮野なら――と思うようなことが、わかるようになってきた。たぶんそれは、お互いに。だからこれは、集合場所を共有できるようになった。みたいな感じなのだろう。
「では、そちらにしよう。明日のことは忘れてくれ」
「別にどっちも行けばいいだろ」
「なんと強欲な!」
「やめとく?」
「だが、それでいい!」
「せわしないな」
電動モーター搭載してんのかってくらい手のひらが回るやつだ。
「それで、明日はどこへ行きたいんだ?」
「目的地などない。ただの散歩さ」
「健康的だな。了解」
「では、また明日」
「おう。おやすみ」
「おやすみなさい。トム先輩」
ひらりと手を振って、宮野がリビングから出ていく。これで残ったのは、今夜も俺一人だ。みんな健康的で素晴らしい。この家の不健康は、俺が一手に引き受ける形だ。あるよね、そういうタイプの呪物。
一日の最後のニュース番組をぼんやり見てから、二階に上がった。
◇
夕方に宮野が帰宅して、そのまま二人で外に出た。なんてことはない散歩だ。
ただ歩く、ということはないにしても買い出しが二人の時はある。要するに、これもまた日常のありふれた光景だ。
九月の終わり。涼しい風に吹かれると、長袖が少しほしくなる。
「もうすぐ秋であるな」
「んな」
「味覚の秋であるな」
「……今、頭の中で古河が駆け抜けていった」
「うむ」
両腕にいっぱいの食材を抱え込んだ古河が、あっちこっちを爆走する姿。だが冷静に考えれば、彼女がそういう生き方なのは季節を問わない。
「トム先輩にとっての秋は、どんな季節なのだ?」
「ゲームのオータムセール、かな」
「なるほど。では冬は?」
「ウィンターセール」
「春は?」
「スプリングセール」
「夏は?」
「サマーセール」
「幅広いゲームを遊べるのだな」
「逆に宮野は?」
「秋は鍛錬の季節である」
「よしわかった。ほかの季節は言わなくていいぞ」
その先を手で遮ると、宮野はにんまりと笑った。どうせ俺と同じだ。さすがは親友。季節ごときじゃぶれない軸がある。
「トム先輩としたい鍛錬があるのだが」
「そんなものはなくていい」
「なに、大したことはない。ありふれた写経と滝行さ」
「それは鍛錬じゃなくて修練だろ!」
鍛える場所が体じゃなくて心だ。
「トム先輩にとっては茶飯事であろう?」
「俺の日常への解像度が低すぎる! 一緒に住んでるのに!」
「一緒に住んだくらいであなたを理解できるとは思っていないさ。トム先輩とは、果てしなく深淵なものであるからな」
「クトゥルフみたいになってない?」
敬意のベクトルが不穏だ。残念ながら俺は、緑色のタコさんモンスターではない。
「それで、修練の方は?」
「却下」
「ぐぬぬ……」
「なんかもっと平和なことしようぜ。川に浮かぶ水鳥の数を数えるとか」
「いいだろう。ボクは負けないぞ」
「勝ち負け作るのムズイって」
「勝敗よりも大切なことがある、ということか」
「勝敗という概念が元からない、ってことだな」
「ふむ」
「なんだよ」
「トム先輩に、勝ちたい」
「あなたの闘争心はどこから?」
こんな無害を超えて温厚すら超えて虚無に片足突っ込んだ俺に勝ちたいなんて、およそ理解できない思考である。
宮野は腕組みをして、じっと道の先を見つめる。
「では、あの夕日に向かって走ろう!」
「古いっ!」
唐突に駆け出した宮野。慌てて駆け出して、あっという間に追い越す俺。
「なっ……な……」
呆然とする少女の前で、ひたすら気まずい俺。
……あの、いちおう陸上部だったからさ。
宮野はゆっくり減速すると、やれやれと首を横に振る。悔しそうではあるが、同時にどこか満足そうでもある。
「やはりトム先輩は、日ごろから鍛錬を怠っていないのだな」
「……」
勝たなきゃよかった!




