4話 履修登録
ふわふわ女子大生の古河水希は、穂村荘において絶対的なママである。彼女をママたらしめるのは、その高い料理スキルだけではない。平和をその身に宿したような、柔らかい笑顔と穏やかな振る舞い、古河水希の構成要素の全てが癒し物質でできていると言っても過言ではない。
去年のクリスマスから一貫して、彼女に絶対的な信仰をおいている俺だが、今日ばかりはそういうわけにもいかなかった。
「戸村くーん。一緒に履修登録しよ!」
「ガルルルル……ガルルルッ!」
「ありゃりゃ。物陰に隠れちゃった」
スマホを持った古河が、世にも恐ろしいことを言いながら接近してくるのだ。朝起きてからずっとこの調子。俺たちの古河はどこにいってしまったのか。きっと悪いものに操られているに違いない。
「おーい。戸村くん。後期始まる前に履修登録しないと留年しちゃうよ」
「グルルルル」
「野生化しちゃった」
興味深そうに古河が覗き込んでくる。俺は心を開かずに唸るだけだ。
「ふむふむ。これはあれだね。餌付けが必要だね!」
最短で完璧な答えを導き出し、古河はキッチンへ消えていく。どうしていっつも、そんなに俺のことを理解しているのか……。
美味いご飯を与えられたら、俺は大学に行くしかない……!
俺と古河のほかには誰もいない、平日のリビング。静かな攻防が繰り広げられている。
まあ、俺は防戦一方なのでこれを攻防と呼べるかは微妙なところである。ターン制とかではない。
ほどなくしてキッチンからいい匂いが漂ってくる。これはチャーハンだ。古河のチャーハンは危険だ。家で作ったとは思えないほどパラパラで、店で食べるよりもあっさり軽やかな味付けで、それでいて妙な中毒性がある。もう店でチャーハン食べる意味わかんなくなっちゃったよ……な逸品である。
と、その時。リビングから調理の様子を的確に察知する戸村イヤーがもう一つの兵器を察する。鍋で水が煮える音。――間違いない。古河、スープまで用意しようとしている!
「履修登録します」
「あっ、戸村くんだ」
「……俺、大学行きます。ほんと……無駄な抵抗してすいませんでした」
「辛そうだね戸村くん。回鍋肉も作る?」
「頭が上がらねえよ……」
どうして俺は、履修登録を誘ってもらった上に昼ごはんまで作ってもらっているのだろう。一方的に搾取しているクズ野郎なのでは?
「後でコンビニスイーツ買ってくるからな!」
「なんかわからないけど、ありがと」
ちゃんとわかってない古河。それもまた優しさでできている。この世のすべての胃痛持ちに処方したら、世界中の医者が少しだけ暇になるだろう。
凄まじい手際で古河が中華鍋を振れば、三品なんて瞬く間に出来上がる。いつも見てるけど、未だに仕組みがわからない。たぶん普通に魔法とか使ってる。
皿を持った古河は、いつものようににこにこしてダイニングテーブルに並べていく。
「じゃあ、食べてから一緒に頑張ろうね。辛かったらおやつも作るからね」
「大学院まで行きます……」
優しさに包まれすぎて院進まで決意してしまいそうになる。というか宣言しちゃったよ。
借りてきた猫みたいにおとなしくダイニングテーブルについて、最高の中華を食べる。なにをどう考えたって、家でこのクオリティを食べられるのはおかしい。なんで大学生の自炊に紹興酒が出てくるんだよ。ズボラはどうなってんだよズボラは。
「美味しくできたかな?」
「地球で一番美味い」
「戸村くんは大げさだなぁ」
「ごめん。本当は銀河系くらいまでなら一番だと思ってる」
「もっと大きくなっちゃった」
古河の手料理を食べるようになって、そろそろ半年が経つ。あまりに贅沢な生活。これだけでQOLが百倍ぐらいに跳ね上がっている。桃食べ放題の桃源郷だって、ここまで充実した食生活は送れないだろう。
「美味すぎる 飯美味すぎる 美味すぎる」
「季語なしだから川柳だね」
「違いない」
内容の否定は決してしないところにも、古河のマイルドさが現れている。七瀬さんならツッコミを、マヤさんなら悪ノリを、宮野なら川柳バトルへと繋がるところだが、古河だとこれといった起伏はない。
みんな違って、みんないい。
「戸村くん戸村くん」
「ほいほい」
「戸村くんはさ、どうやって大学選んだの?」
「偏差値。古河は?」
「私も偏差値かな。あとはこの辺だと、結構有名なスイーツ屋さんもあったし」
「ま、そんなもんだよな。でもなんで、急にそんな質問を?」
「戸村くん、大学行くのすっごく辛そうだから」
「就職はもっと辛い」
「そっか。それもそうだよね」
納得できたみたいな顔でにっこりするけど、普通に俺は心臓抉られてる。いや、珍しくないよね。別に。そんな志持って進学する人の方が少ないはずだ。そうだ。そう思うことでなんとか自我を保つ。
「……ま、こんなこと言ってもあと二年とかで覚悟しなきゃいけないんだもんな」
「そうなんだよねえ」
就職したら最後、定年までの無限労働編が確定する。三年くらいでFIREしたいが、現状の預金では数ヶ月ももたない。宝くじが当たってくれればいいのだが、あいにくギャンブルをする気はない。そんな金があるならゲームを買う。
「古河は料理でやっていけるだろ」
「そうかな?」
「ミシ〇ランガイドブックの全ページが古河特集になったっていい」
「戸村くんは褒め上手だね」
「信心深いだけだよ」
肩をすくめると、古河は俺の目をじっと見つめて、それからそっと微笑んだ。
俺たちは、履修登録をする。




