3話 熱々と冷え冷え
昼食の後、予定通り俺たちは本屋にやってきた。俺が後ろから見守っていると、七瀬さんは自分で棚から問題集を引き抜いて中身に目を通し始める。
「七瀬さん的には、なんの教科を買うつもり?」
「数学と理科、社会かなと思ってます。あとは英単語帳も、もう全部覚えてしまったので……なにかありますか?」
「じゃあ、英単語の方は俺が探そうかな。中学範囲じゃなくてもいいよね」
「いいんですか?」
「勉強は中学校で終わるわけじゃないからね。せっかく意欲があるなら、学びを止めるのは勿体ないよ。じゃ、探してくるね」
「お願いします」
別の棚に移動して、英単語なんたらかんたらと書いてある背表紙の群れと向き合う。がっつり高校生用なのは仕方がない。七瀬さんが持っているものに、中学範囲は全て載ってしまっている。
こうやっていると、受験生時代が蘇る。俺にもそんな時代があったのだ。どれを買ったらいいかわからなくて、適当にネットの評判で選んだかつての俺。大学に入って、人に勉強を教えるようになって、一つの結論が出つつある。
――赤いシートで消せるやつなら、全部変わらん。
詳しい単語の解説が載ってるとか、例文と一緒に覚えらえれるとか、そういう好みの問題はある。だが結局、単語帳は単語を覚えられればいいので、効率よくチェックできるものならなんでもいいのだ。載ってる単語自体にそれほど差異はないわけだし。
数分だけ考えて、結局、以前と同じ出版社のものを選んだ。おおよそのレイアウトが同じなので、抵抗なく使えるだろう。
元の場所に戻ると、七瀬さんは難しい顔をして棚を見つめていた。
「あ、早いですね。先輩」
「そっちは難航してる?」
「……選ぶのって、難しいですね。先にその単語帳を見てもいいですか」
「どうぞ」
手渡すと、ぱらぱらとめくって七瀬さんは何度か頷いた。
「これがいいです。ありがとうございます」
「問題集、まだ時間かけたいよね」
「はい」
「わかるよ。自分で選ぶのって、難しいけどすごく楽しいから。……じゃ、俺はそのへんぶらぶらしてようかな。時間は気にしないでいいよ。本屋にはいるから、なにかあったら呼んで」
「ありがとうございます」
ひらひら手を振って、場所を移動する。せっかくだし、自分用の本でも買っておこう。
漱石先生の作品は読み終わった。文豪を浴びたあとは、ストレートな流行の作品を楽しみたい気分だ。交互に繰り返すと温冷浴みたいになってたぶん整う。サウナは暑いし人が多いので嫌い。水風呂も心臓がきゅっとなるから苦手。もっぱら露天風呂と外気浴専門の俺は、読書で整いを経験することにしよう。
となれば熱々のやつと、冷え冷えのやつが必要になるわけだが……これ、定義の仕方でめちゃくちゃ失礼になるな。熱々はいいとして、冷え冷えは表現としてまずい。ホラーなら誉め言葉になるか? だが、そのシステムだと二冊に一冊がホラーになる。勘弁してくれ。もう秋なんだぞ。
文学において冷え、とはなにかを定義する必要がある。冷戦に関する文学は冷えてそうだな……というか、過酷な時代に生み出された文学には全体を通じる『冷えた』感性があったりする。読んでいて息が詰まるほどに重苦しい物語。それを冷え冷えと定義しよう。
となれば次は熱々だが、これはなかなかに難しい。熱々と言えば、話題の作品などがあげられるがしかし、本というのは本来、一過性の流行に左右されるものではないはずだ。昔読んだ名作は何度読み返したって当時の熱を孕んでいるし、時を経ることでより熱を帯びるものだってある。
であれば内容における熱々を選定基準にするべきだが……熱々でピンとくるのがスポコンとグラップラー〇牙しかない。熱すぎる。冷え冷え文学を摂氏零度としたときに、絶対百度よりある。そんな差に耐えられるわけない。交互に読んだら自我が瓦解しかねない。
……とりあえず、熱々じゃなくて厚々にしとくか。と、前々から気になっていた激太ミステリーを買うことにした。
結果としてめちゃくちゃインテリなやつみたいなセットになったが、まあ仕方がない。これからの戸村くんは、データキャラとしてやっていく。決め台詞は「データがない!」で決まりだ。カス大学生には、データを取ることすら難しいのである。
会計を済ませて元の場所に戻ると、七瀬さんの戦いは最終局面を迎えていた。
「あとは社会だけなんです。社会は――これにします。お待たせしました」
「歴史的瞬間に間に合ってよかったよ」
「大げさですよ」
「そうかな?」
肩をすくめて冗談っぽく笑う。だが内心では、あながち嘘でもないと思っている。
自分一人で問題集を選べるようになる、というのは大きな分岐点のはずだ。
「さて、それ買ったら帰ろうか」
「先輩、まだ夜までは時間がありますよね」
「ん、そうだね。どっか行く?」
「どこというわけでもないですが……その、デパートに来ることってあんまりないので、いろいろ見て回ってもいいですか?」
「もちろん。行きたい場所、全部行こうか」
俺が頷くと、七瀬さんはぱっと明るい笑顔を咲かせた。
「急いで会計してきますね」
「転ばないようにね」
踵を返して、ツインテールが遠ざかっていく。
そのまま遠ざかって、見えなくなってしまえば。どれだけ物事は単純になるだろう。
硬いフロアを、つま先でたたく。
◇
「そういえば、先輩はなにを買ったんですか?」
「熱々と冷え冷えをね」
「なんですか、それ?」
雑貨屋やカフェをめぐって、俺たちは夕飯の前に帰宅した。