1話 七瀬さんとお出かけ 再
マヤさんの誕生日から、一週間が経った。
単調な日々は、目にも止まらぬ早さで俺の手から滑り落ちていく。
嗚呼夏休み。こんなに小さくなってしまって。心細かろう。安心して、今に休学届を出してきてあげるから。そうしたらもう大丈夫だ。一年追加で休めるようになる。待っててくれ夏休み。必ず俺は、大学の侵攻を食い止めてみせるから――。
「先輩」
「ほい」
スマホで休学する方法について調べていたら、七瀬さんに声をかけられた。こんな汚れたものは見せてはいけないと、スリープにした上で画面を伏せる。
「今日って時間ありますか?」
「何度聞かれたって俺の答えは変わらないよ。十月になるまではずっとフリー」
「清々しいですね」
「簡潔明瞭でやってるからね。それで、要件は?」
「新しい参考書、一緒に見に行きませんか」
「ありだね。いつから行く?」
七瀬さんはスカートの端をちょんとつまむ。黒いパーカーにスカート。下はタイツというコーディネート。今日も今日とて、七瀬さんは隙がないというかなんというか……この子、ちゃんとしすぎてちょっと心配になるくらいだ。いや、素晴らしいんだけどね。とても素晴らしい。それに比べれば戸村くんの在り方はカスや。
「私は準備できてるので、いつでも」
「じゃあもう行こっか」
俺は外出だからってオシャレすることはない。逆に言えば、家の中でもオシャレということになる。今日もポジティブシンキングでやっていこう。
時刻は昼前。
今日の昼食は各自なので、買い物の前にどこかで食べていけばいいだろう。
ショルダーバッグに最低限の荷物を入れて、家を出る。健康的な日差しに上半身を焼却されつつ、電車に乗って移動。休日の昼は買い物日和で、どこも混んでいる。
ま、並べばいいか。ぼーっとするのが日課の俺にとって、多少の待ち時間は苦でもない。
「この間のお祝いもかねて、七瀬さんの好きなもの食べに行こう。どこがいい?」
「お祝い? ……もしかして、テストのですか」
「そう。さすがにあの結果は、祝わざるをえないというかね。祝わないと俺の座りが悪いから、祝わせてもらえないかな」
「なんですか、それ」
七瀬さんはおかしそうに口元に手を当てる。首を小さくかしげてじっと俺を見て、そのあとで頷いた。
「わかりました。それでは、先輩の精神衛生のために祝われます」
「ありがとう」
「ピザが食べたいです」
「ピザね。それじゃあ地下のレストラン街がよさそうかな」
「知ってるんですか?」
「うちの大学からだと、この辺で遊ぶのが定石だからね。ちょっとだけ」
「そっか。先輩って、大学生でしたもんね」
「その事実、忘れても大丈夫だよ」
歩きながら、大げさな動作で笑って見せる。
なんてったって俺は、現在進行形でその大学から逃げようとしているのだ。
どうせ良心の呵責とかでちゃんと通う羽目になるとか、そういうことは考えない。後期が来るその日まで、俺は夢を見ていたい。
「大学生って、なにして遊ぶんですか?」
「ゲーム」
「偏った説明ですね。もう少し普遍的にお願いします」
「普遍的なのだと、やっぱり今でも飲み会とかじゃないかな。そのあと朝までカラオケとか、ボーリングとか、最近だと会員制のネットカフェでダーツとかもできるみたいだし、そんなとこだと思うよ」
「……過酷ですね」
顔をしかめる七瀬さん。彼女は夜、ちゃんと眠くなるタイプだ。この間のゲーム大会でギリギリの彼女に、徹夜で遊ぶなんてことは考えられないだろう。
「そんなことしなくたって、楽しいことはいくらでもあるんだから大丈夫だよ」
「そうですね」
七瀬さんの顔からすっと表情が消える。
「先輩は――私といて、楽しいですか?」
言い終わるのとほとんど同時に、七瀬さんはかぶりを振った。滑らかなツインテールが左右に振れる。
「すいません。なんでもないので、忘れてください」
「楽しいよ」
目が合ったけれど、それは気恥ずかしくて視線を外す。
「最初は恐怖を感じてたけど、今はすごく楽しい」
「恐怖って、なんで先輩が恐怖するんですか」
「パトカーのサイレンが聞こえる気がするんだよ。国家権力が俺を許してくれるわけないって」
「被害妄想がすごいですね」
警戒心があるに越したことはないと思う。なんせ現代は大ハラスメント時代。七瀬さんがなんとも思っていなくとも、周りの人が俺たちを監視して通報する可能性すらある。
「私だって、最初は先輩が怖かったんですよ」
「いきなり家にデカくて知らない男がいたら怖いよね」
名前を聞いた時点では、俺も女子だと思っていたらしい七瀬さん。あんまり意識したことはないけど、確かに真広は中性的な響きだ。
「結果は先輩だったわけですが」
「七瀬さんの使う『先輩』は無限の意味を内包しているね」
魔法少女七瀬さんの手にかかれば「先輩は先輩なので先輩らしく先輩してくれればいいんです!」とかでも文章として成立するし、俺は意味を把握できるだろう。
先輩は主語、述語、修飾語、その気になれば補語までいける。
七瀬さんはくすくす笑う。
目的の店は、二組しか並んでいなかった。順番待ちのところに名前だけ書いて、俺たちもそこに並ぶ。名前が呼ばれるまで、十分もかからなかった。