6話 羽化
エンドロールが流れ切ったタイミングで、椅子の背もたれが力強くたたかれた。
「いやぁしかし、大陸を抉り取るほどのサメとは驚異的なものであったな!」
「おまっ、宮野! いつからそこに!?」
「敵の正体が巨大なサメだと判明したあたりからだ」
「わりかし序盤から!?」
なんの気配も出さないまま、俺の真後ろに立って映画を見ていたらしい女子高生。もうジョブチェンジしてくノ一になっちゃえよ。
「真広はずいぶんと見入ってたものね」
「予想以上に面白かったので」
サメ映画だと思ってたら大陸が削られはじめるし、最終決戦は海軍じゃなくてアメリカ陸軍だし。規模がほとんどアルマゲドンだったからわくわくしっぱなしだった。侮れないぜ、サメの本気。
「さて、次は『シャーク・スネーク・ボルケイノ』と『シャーク・エボルブ・ファーストアース』のどっちにしようかしらね?」
「二本目に行こうとしてる!」
「ボクとしては、前者のほうが気になるな。サメなのかヘビなのかはっきりしてほしい」
「サメであり、ヘビでもある可能性も捨てちゃいけないわよ」
「確かに。共通部分の可能性も捨ててはならぬな」
サメ映画の世界だと、魚類と爬虫類が両立する可能性もあるのか。そしてその後ろでしれっと存在感を潜ませているボルケイノ。冷静になると一番理解できない部分、ここだろ。
そして宮野、あまりにもしれっと加わりすぎている。マヤさんの隣に腰を下ろすと、腕組みしてサメ映画の選別にかかる。もはや俺が入り込むすきはない。
大盛り上がりの二人によって、抗う間もなく再生される次なるサメ。
くっ……マヤさんとちょっと真面目な話しようとしてたのに、サメのせいで……そしてそれを盛り上げる宮野のせいで……ついでに面白くて画面に気を取られる俺のせいで……。
クソッ、どうなってんだよサメ映画! 面白すぎるだろ!
サメ映画を摂取することで一時的な多幸感に包まれるが、時間が経つと次第に効果が薄れて苛々してくる。クソッ、サメ映画が足りない! そしてサメ映画を摂取することで、再び多幸感を……
これもうサメ映画は法律で禁止したほうがいいな。危険すぎる。
空気が完全にサメになってしまったので、真面目な話を切り出すのはまたも失敗に終わった。
さすが我が家のボス、一筋縄じゃいかないみたいだ。
態勢を整えて、またタイミングをうかがおう。
◆
七瀬柚子は、仕上がっていた。
真広たちが一階でシャークをボルケイノしてる間も淡々と勉強を続け、夏休みの間に身に着けた知識の総復習を完了。翌朝は一番に起きてさっさと準備を済ませ、いつもより早めに家を出た。
気合を入れるために、今日の髪型は後ろでの一本縛り。
緊張はしている。けれど今は、高揚感もある。
柚子はこの夏休み、穂村荘メンバーと遊ぶ時間以外はずっと勉強に費やしてきた。モチベーションは日々高まり、最近では勉強そのものが面白いとすら思うようになっていた。
最初は戸村真広の存在に支えられていたけれど、今は少しだけ、自分の足で歩いていると信じられる。
テストの時間になって、問題が配られる。
柚子はシャーペンを握った。
◇
「……どうしたもんかね」
また今日も、中身のない一日を過ごしてしまった。しまったというか、自分で望んだ結果ではあるのだけど。多少なりとも為したいことがあるときの無為な時間というのは、堪えるもんだ。
誰もいない家でぼんやりリビングで座っていたら昼になって、夕方になった。俺の世界だけ、ゲームと同じぐらいのスピードで時間が進行してる気分だ。一秒で一分経ってるんじゃないだろうかとスマホを見ていたが、そんなバグは生じていない。今日も地球では、一分間に六十秒が過ぎている。
なんとなく目を閉じてじっとしていたら、勢いよく玄関が開く音がした。
「ただいまです!」
息が上がっている。七瀬さんにしては珍しい。
なにかあったかと思って体を起こして姿勢を整えるが、そこは丁寧な七瀬さん。まずは手洗いうがいをして、荷物をちゃんと上に持って行ってから戻ってきた。
「ただいまです」
「おかえり。……どうしたの?」
制服姿で両手に紙をいっぱい抱えて、七瀬さんが近づいてくる。
「先輩、お時間いいですか?」
「無限にいいよ」
「これ、今日のテストなんですけど。答え書いてきたので、見てもらいたくて」
顔を見ればわかる。七瀬さんがなぜ、このお願いをしているのか。
微笑みは自然にこぼれた。椅子から立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
「はい」
二階に上がって筆記用具とルーズリーフを持って降りる。
ダイニングテーブルに座ると、七瀬さんが麦茶を入れてくれた。
採点を開始する。中学の定期テストレベルなら、標準的な問題ばかりだからそう時間はかからない。それも一から解くわけじゃなく、七瀬さんの思考の跡を辿るだけでいいからずいぶん楽だ。
「やっぱりね」
一時間もかからずに全教科の合計点が並び、七瀬さんと目を合わせた。
「確実に超えてるよ。四百点」
五教科すべてを合わせて八割越え。
最高得点は数学で、途中式での大幅な減点さえなければ九十六点。
「……そう、ですか」
七瀬さんは脱力して息をつくと、目を閉じて頭を下げた。
「ありがとうございます。先輩のおかげです」
「ちょっとくらいはもらっておこうかな。でも大半は、七瀬さん自身の力だよ」
正確なタイミングがいつだったかはわからない。それでも、この夏休みの間に七瀬さんの姿勢が変わったのはわかる。
追いつくため、胸を張るために努力していた少女はいつの間にか、学ぶこと自体に喜びを見出すようになった。手段としての学びではなく、学ぶこと自体が目的に。努力よりももっと尊ぶべきその変化を、俺は隣で見ていた。
だから、驚くことはなにもない。
「これからもっと伸びるよ。俺が保証する」
「……はい。ありがとう……ございます……」
七瀬さんは俯いて、くぐもった声でなんとか応えてくれる。
俺は天井を見上げて、それからゆっくり目を閉じた。
無為な一日、という認識は改めるべきなのかもしれない。




