5話 シャーク
「俺、わかった気がするんです。マヤさんが穂村荘をやってる理由」
――あの時から、俺の中でマヤさんは形を変えた。
祭りの中で、一人ビールを片手にたたずむ姿を見たとき。
――この人を、一人にしてはいけないと思った。
そしてそれは、俺の役目なのだと思う。俺の役目であってほしいと、願うから。
◇
スマートなやり方なんて知らなかったから、俺は翌日、リビングでだらだらすることにした。今日は日曜日。マヤさんの予定は知らないが、問題ない。穂村荘の住人は外出するときでさえ、リビングに人がいたらちらっと顔を出す習性がある。人に会いたきゃリビングに居ろ、というのがこの家での最善策だ。
七瀬さんの授業はお休み。明日から学校で、夏休み明けのテストがあるらしい。俺が教えることはもう残っていない。長期休暇を経て、七瀬さんの仕上がりは最高潮に達してしまった。理科社会に関してはなにを聞いても即答してくる。近い将来、教える立場が逆転しそうだ。
宮野はランニングに行って、古河はキッチンでお菓子作りをしている。平凡な穂村荘の日曜日だ。
「古河さんや、なにを作っているんだね」
「小豆をな、小豆を煮てな、ぐつぐつとな、餡子を作ろうと思ったのじゃ」
「羅生門の老婆みたいなしゃべり方だな」
「下人くん」
「俺、この後行方不明になるじゃん」
しかも古河のエプロンをはぎとったうえで。七瀬さんがボタンを直してくれたエプロンを奪って逃げるとか、閻魔様もたじろぐほどの悪行だよ。
「なに作ってんの?」
「ふふふ。水ようかんだよ、下人くん」
「その調子だと、古河は老婆になるが」
「戸村くん」
「老婆は嫌なんだ」
よかった。その感性は普通にあって。
「しかし水ようかんとは、またいいもん作ろうとしてるな」
「まだまだ暑いからねぇ。晩御飯の後に、みんなで食べたいなって」
「じゃ、緑茶の水出しでも仕込んどくか」
「ナイスアイデアだよ戸村くん! アイデア村だよ!」
「子供向け番組にありそうな地名」
変な発明家がいっぱい住んでそう。
なくなりかけの麦茶を飲み干して、容器を洗う。緑茶のパックを入れたら水を入れて、そのまま冷蔵庫へ。こうやって抽出するだけで、甘くてまろやかな味になるから不思議だ。
古河は煮えた鍋を見守って、幸せそうにふくふくと笑っている。
俺はソファに戻って、ぼんやりと読書に耽ることにした。背後のキッチンで人の気配を感じながらまったり……あまりに実家すぎる。実質毎日が帰省。あまりにも親孝行。
五十ページほど読み進んだところで、二階からゆっくりと誰かが降りてくる音がした。一段一段踏みしめるこの感じ……間違いない。二日酔いのマヤさんだ。
鈍重な動きでリビングのドアが開き、険しい顔をして入ってくる。部屋着のジャージですっぴん。つり目がちの美人だから、ちょっと背筋が伸びるくらいの圧がある。
コップに水を入れると、しょぼしょぼした目でソファに座った。
「……お疲れ様です」
「ん。真広はいつも通りね」
「マヤさんはかなりきてますね」
「見事に飲まれたわ。反省しないと」
思い返せば、昨日のマヤさんはかなりのペースで飲んでいた。酒の種類が多くてハッスルしていたのは、俺だけではなかったみたいだ。
「水希はなにを作ってるの? いつにも増して幸せそうにしてるけど」
「小豆を煮て、餡子を作り、水ようかんにするみたいです」
「おばあちゃんみたいね」
さっき軽く羅生門ごっこをしていたので、当たらずとも遠くはない。
「真広は?」
「見ての通り、文化的な活動をしていました」
「作者は――へぇ。夏目漱石なんだ。ちゃんと文化的じゃない」
「まぁ、なに言ってるかはよくわかりませんが。なんだか賢くなった気はします」
「そのくらいでいいのよ。かぶれて変なこと言い始めたらおしまいなんだから」
「おしまいまでいきますか」
「ハナから文学青年ならいいけど、一時の気の迷いで話し方が変わるようなやつはおしまいよ」
「詳しい解説をされると確かに、救いのないミーハー野郎ですね」
では、あまり影響を受けないような読み方をしよう。とはいえ大半が理解できていないので、影響を受けようもない。漱石先生、もうちょっとナウい言葉を使って書いていただけませんか。
「マヤさんのこの後の予定は?」
「体調悪いし、サメ映画でも見ようかしら」
「あんま聞いたことない対処法ですね」
「我が村では常識よ」
「穂村!?」
「そっちの村はどうなのよ」
「戸村!?」
よく考えたら俺も村だった。どうりで穂村荘の戸村くんがしっくりくるわけだ。
では、戸村を代表して発言させてもらおう。
「我が村では、体調不良のときは女子高生部活ものを摂取することになっています」
「胃に優しそうね」
対してマヤさんのサメ映画というのは……まあ、そこまで胃に負担はないのかな。明るい気持ちにならないこともない、のか?
「サメ映画、いいわよ。気に食わないカップルは確定で食われるから」
「アピールポイントが陰湿すぎる」
大事なポイントだけど、そこからおススメするのは絶対に間違ってる。
テレビのリモコンを持って、画面をサブスクに切り替え、視聴するものの選別が始まる。映画を見るのは本気らしい。
「真広も観る?」
「はい。適当なお菓子持ってきます」
「チュロスはプレーンが好きよ」
「映画館行ってください」
七瀬さんとの勉強時間につまむから、お菓子なら豊富にある。バスケットには、常時五種類以上が入っている。それをそのままリビングへ持っていく。
マヤさんはふらりと立ち上がると、冷蔵庫からコーラの缶を二つ持ってきた。
ジュースとお菓子、そして映画。完成してしまった。俺たちの黄金時代が。
プルタブを開けると、プシュッと空気の抜ける音。
「気になってることがあるんですけど。聞いてもいいですか?」
「かかってきなさい」
甘く冷えた液体でのどを潤す。マヤさんの指がリモコンの決定ボタンを押した。
「穂村荘って、いつまで続ける予定なんですか」
「さあ、いつまででしょうね」
暗くなった画面に、光がともった。
穂村荘に、サメが来る。