13話 お勉強
「なんの教科からやる?」
「数学が絶望的なんですよね」
「あー。だろうね」
他の教科はさておき、あれは自分の力でどうにかできるものじゃない。先生が必死に教えて、それでも学校では体感で二割ほどが脱落する。その受け皿になっていたのが個別指導なのだ。
「変数と実数あたりから関門だろうからね。いちおう最初っからやろうか」
教科書とテキストを並べ、七瀬さんは姿勢を正す。
参考書を後で買った方がよさそうだ。四月になれば七瀬さんは受験生。その準備へとシフトしたほうがいいだろう。
「お願いします」
「はい。お願いします」
ぺこっと頭を下げて、座った位置の違和感に気がつく。いつものノリで向かい合ったが、個別指導のときは生徒の隣にいるのが普通だったのだ。
この位置からだと問題が見えないし、指導もしづらい。
「そっち行っていい?」
「……そっちとは?」
「七瀬さんの左隣。じゃないと横から見れないし」
「隣ですか……。ど、どうぞ」
「抵抗あるならこのままでもいいんだけどね」
「ないです! ないですから、どうぞ!」
ガーッと慌ただしく横の椅子を引いてくれる。
「どうぞ!」
「あ、どうも」
やや申し訳ない気分になりながら、横に座る。そうそうこの位置関係。ちょうどいいんだよね。
「…………」
七瀬さんは背筋をピーンと伸ばして硬直している。背中にぴったりフィットちゃんでも背負ってんのかな。
「えっと、始めるけど。いい?」
「どうぞ」
「じゃあこっち見て」
ぐりっと首だけ横九十度に動かし、俺の顔面を凝視してくる。
「いや、手元のほう」
「あ――そ、そうですよね。わ、わわ、わかってましたよ」
「うんうん」
「~~~~っ!」
鉛筆をぎゅっと握りしめ、顔をしかめる七瀬さん。顔が真っ赤だ。ブチ切れているのかもしれない。
まあいいや。とりあえず始めよう。
二階から持ってきたB5サイズの白紙(罫線なし)をテーブルに置いて、ボールペンを並べる。黒、赤、青、緑の四色が俺のレギュラーメンバー。
「まず、負の数ってのが中学生になると現れる概念なんだけど。どう?」
「たぶんですけど、わかると思います」
「たぶんか。なら、一応説明するよ」
教科書には過不足なく書かれているが、過不足なく読み取れるとは限らない。特にこういう、細かいところについては誤解が多く見られる。
「まずマイナスっていうのは、日常生活で言うとそうだな……古河が『あぁぁああ卵三個足りないよぉおお』って言い出すあれが近いかな」
「ふふっ」
迫真の演技の甲斐あって、笑いをゲット。ファーストステージはクリアだ。
「その時の卵は必要な量のマイナス三個なわけだ。他には借金なんかでもいい。マイナス百万円を持っている、みたいな言い方をする」
「なるほどです」
うんうんと頷いてくれる。よし。ここまではオッケー。
紙の上に5-(-3)と書く。
「次はこれ。ここで誤解する人が多いと思うんだけど……。引くとマイナスは同じ記号だけど、別の意味ね」
「引くとマイナス……?」
「引くっていうのは、何個減らすっていう行為のこと。マイナスっていうのは、マイナス何個っていうかたまりで数字になるでしょ」
「あ、そっか」
「だから5引くマイナス3っていう並びが成立するワケなんだ。だって二つは別物だから」
ストンと腑に落ちたような反応。表情に出やすい生徒は、こっちとしてもやりやすい。
本人は自分のことをバカだと言っていたが、この説明で理解してくれるなら問題ない。今からでも十分間に合う。
「わからなかったらすぐに言って。わからないのは、教える側の責任だから」
「はい」
「それじゃ、続けていこう」
人に教えるときには、なるべく退屈にならないようにやや大げさに。わかりやすい解説も大事だが、集中力を管理するのも大切だ。
なんだかんだ、慣れたもんだな。
すらすらやれる自分に、そんなことを思う。バイト始めたての頃とは大違いだ。
一時間ほどやったところで、軽く休憩に入る。
「先輩、教えるの上手いですね」
「七瀬さんが優秀なだけだよ」
「そんなことないですよ」
少女は首を横に振る。ぱたぱたとツインテールが揺れる。
俺は体重を背もたれに預け、だらっと力を抜く。
「いや、いいんだよ。そんな謙虚にならなくて。じゃなきゃ自分が可哀想だろ?」
「…………」
「頑張ったら頑張ったって認めようぜ。疲れたのは頑張った証拠だし、まだ足りないってわかってれば明日も頑張れるでしょ」
「はい」
時計を見れば昼の三時。おやつの時間だから、上からなにか取ってこようかね――
椅子から立ち上がると同じくらいに、二階から足音が降りてくる。やけに元気がいいこれは、古河か。
ドアが開き、明るい髪の女子大生が入ってくる。だが、中にいる俺たちを見て硬直。
「おや、この状況は――」
なにか誤解をされやしないだろうか。めんどくさいことになりそうな予感した。
が、彼女に限ってそんなことはなく。
「二人とも、今からクッキー焼くけど食べる?」
「食べるぅ!」
元気溌剌男子大学生。もう骨の髄まで古河のご飯でできている俺は、ほとんど無意識でジャンピングガッツポーズをかます。
すぐ横では、明らかにドン引きしている女子中学生。針のような視線が痛い。
「……先輩、ちょっと気持ち悪いです」
「反省してます」