35話 ただいま
最終日。飛行機は午後の早い時間なので、午前中の時間を使ってお土産を買うことにした。
初日から食べ物の類いを買いまくっていた古河は、既に予算を使い果たしていたらしい。美味しそうなものたちを前にして、始終泣きそうな顔をしていた。
俺と宮野はガハガハ笑いながら『海人間』と印字されたTシャツを購入。
馬鹿二人の様子をあきれ顔で見ていた七瀬さんは、綺麗な星砂を瓶に詰めたものを購入。
マヤさんは悲観的な表情で、職場に持っていく用のお菓子を選んでいた。「こういうのはね、全国どこにでもあるようなやつでいいのよ。尖ったの買っても、高くて不評なだけなんだから」と言っていた。
旅の締めに地元のステーキ店で昼食を楽しんで、そのまま空港へ。搭乗手続きを済ませてゲートを通ると、ガラス張りの向こうに飛行機が並んでいる。
「いや……」
俺の横に立った彼女が、そっと呟いた。
「嫌よ……こんなの嫌。帰りたくない……っ、帰りたくないわ!」
「マヤさん、落ち着いてください」
拳を振るわせ、怒りに満ちた表情で呻くOLがそこにはいた。咄嗟に前に出て、闘牛を相手取るように声を掛ける。彼女のサンドバッグになれるのは、穂村荘で唯一俺だけだ。宥めることはできない。戸村くんは弱いため。
「ふーっ、ふーっ! 有休申請、追加申請、退職代行!」
「一時の感情に振り回されないで!」
「家賃十倍! 不労所得! 生活安泰!」
「大都会東京の値段にしたら住めない!」
どうやらマヤさんは、この旅の終わりが相当堪えているみたいだ。それもそうか。まだ夏休みというクッションがある学生組に対し、マヤさんは明日から仕事。高温のサウナから絶対零度の水風呂へと直ダイブ。そのダメージは計り知れない。俺なら旅行出発前に退職代行を仕込んでおくだろう。
「真広、私は気がついたのよ」
「なににですか?」
「働くなんて、人間のすることじゃないって」
「違いますマヤさん。勤労と納税は大人の役割です」
「真広はそんなこと言わない!」
「俺にそんなこと言わせないでください!」
真っ向からぶつかり合う年長者ズ。いつもと構図が真逆になっている。俺だって働けなんて言いたくないよ。でも、家賃を十倍にするわけにもいかないのだ。
自分の快適な生活を守るためなら、他人に労働を強いることができる。俺という人間のダブスタ具合に驚きだ。
「……つまらない大人になったわね、真広。ちょっと丸くなってきたんじゃないの?」
「俺が尖ってると立ちゆかないことが多いんです。誰かが丸くならないと」
「大人ね」
「そう呼ばれるほど、大変なことはしてないですけどね」
「はぁ。仕事ねえ、ま、やるしかないわよね」
ゆっくりと再起するマヤさんに、俺は無言で応える。ここで頷いてしまうと、俺まで働くことにされかねないので。
そんな意図がバレたのか、マヤさんはにんまりと笑った。豊かな黒髪を垂らして、顔をのぞき込んでくる。
「安心したわ。まだ角が残ってるみたいで」
キャリーバッグを引いて、マヤさんは売店へ向かっていく。俺は着いていかずに、窓の向こうの飛行機をぼんやり見つめた。
搭乗時間。誘導されるまま機内に乗り込んで、通路側に座る。隣には七瀬さん。熱心に安全の手引きに目を通す。真面目さナンバーワンは伊達じゃない。その奥に座った宮野は、早い段階でぼんやりと窓の外を眺めだした。
やはり宮野、七瀬さんの横にいても挙動不審にはならない。こんな日が来ようとは……。俺の知らない間に、ハーレム計画はちゃんと進んでいるらしい。親友として、彼女が道を誤ったらちゃんと叱ってやろう。
飛行機が動き出す。緩やかな重力を感じながら、俺はそっと目を閉じた。蓄積していた疲労が、俺を簡単に眠りへと引き込んでいった。
◇
帰る途中でスーパーに寄って食材を買い、夕飯は夏野菜カレー。食後もしばらく全員がダイニングに残って、だらだらと雑談をした。
こうして俺たちは、日常に回帰する。
日常にしては、贅沢な毎日に。
ああそうだ、ドタバタして忘れていた。
深夜、眠る前。降りてきた空っぽのリビングで一人。小さく呟く。
「ただいま、穂村荘」