12話 先生or先輩
大家さんというのは絶対的な権力者であり、家においては神に匹敵する存在だ。彼女を怒らせれば、よくて家賃の倍増、最悪の場合は追い出される。
そんな方からの呼び出しともなれば、心臓は大合唱、冷や汗は滝のように流れ、足は生まれたての子鹿のごとく震えるというものだ。
「な、なななんでしょうか」
「なにを怯えてるのよ。まだなにも言ってないけど」
休日のマヤさんは、薄化粧にグレーのパーカーで椅子に掛けている。
「単刀直入にお願いします。いっそひと思いに」
「柚子になにかした?」
「誓って触れてません!」
セクハラ認定をくらえば一発退場だ。必死になって弁明しようとする――が。
「なんの話?」
「え、いや……なんの話ですか?」
どうやらお咎めではないらしい。不思議そうにするマヤさんに、俺まで首を傾げてしまう。
「柚子がねえ、転校するとか言い出したのよ。真広の入れ知恵じゃないの?」
「入れ知恵て。なにも企んじゃいませんよ」
「本当に?」
「ええ。俺はただ、そういう選択肢もあると伝えたかっただけです」
マヤさんはじっと俺を見つめてくる。黒真珠のような瞳に見つめられると、妙にそわそわする。これが恋ってやつか? いや違うな。蛇に睨まれた蛙ってやつだ。
「そ。ならいいわ」
「許された」
「最初から怒ってない。――にしても、よく仲良くなったわねえ」
「マヤさんに言われたので」
「私はお母さんか」
ピシッとチョップをくらった。ちゃんとツッコんでくれる人らしい。これはありがたい。
一生懸命ボケても、古河はボケを重ねてくるし、七瀬さんには冷たい目で見られるのだ。
「……偶然だし、俺が頑張ったわけじゃないですから」
「へえ。柚子からいったの?」
「その言い方だと問題ありませんかね?」
本人がこの場にいないだけに、否定する方法がない。マヤさんはにやにや笑っている。
「ずいぶん楽しそうですね」
「楽しくなってきたからよ」
「なにを企んでるんですか」
「ふっふっふ」
「こえー」
不敵な笑いがよく似合う人だ。
◇
俺の部屋をノックするのは基本的に二名。古河か、マヤさんだ。だからゲーム中に「あの、戸村さん……」と声がしたときは大いに驚いて、落としたコントローラーが地面にめり込んでブラジルまでいった。
隠すようなものはないが、慌てて室内をチェック。なにもない。よし。
鍵を開け、ひょっこり顔を出す。
「どうした?」
「少しお話があってきました。その……お願いというか」
「お願い?」
俺だけ部屋というのも変だし、廊下に出る。部屋に入れるのは無理だ。法に触れる。
「はい。……戸村さんって、塾で働いていたんですよね?」
「凡骨アルバイトだけどね」
「勉強、教えてもらえますか?」
「勉強? 俺が?」
不安そうな表情で、必殺の上目遣い。いやほんと、上目遣いはよくないと思うんだよ俺は。だってずるいじゃん。
だが、人に物を教えるのはそれなりに労力を要する。
「タダでとは言いません。だから戸村さん、雇われてください」
「雇う?」
「はい。両親には言いました。家庭教師を雇いたいと」
「…………なるほど」
確かにあの相談の流れだったら、一番頼みやすいのは俺か。マヤさんは忙しそうだし、古河は「ノリで解くんだよ!」とか言い出しそうだし。
その点俺なら経験もあり、時間の余裕もある。
バイトを辞めはしたが、ゲームのためを思うと収入は必要だ。単発とかで稼ごうと思っていたが、条件によってはこれを受けるのもいいかもしれない。
とはいえ中学生相手に報酬の話をするのも気が引ける。
問題はどれくらい働くかだな。
場所は自宅だから、通勤時間は無し。時間だってわりと柔軟に変えられるだろう。すぐに聞けるという好条件なので、成績を上げるという面ではこの上ない――
「受けてみようかな」
「いいんですか!」
「とりあえず、お試しって感じで。教え方の相性もあるだろうし」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ぺこっと頭を下げる七瀬さん。俺も一礼して、「よろしくお願いします」。
「戸村先生って呼んだほうがいいですか?」
「その称号は重すぎる」
「じゃあ、先輩ですね。さっそくお願いしていいですか? せんぱい」
間違っちゃいないが、むず痒い言葉だ。
気まずさが伝わったのだろうか、七瀬さんは面白そうにニヤニヤしている。悪い笑み。ちょっとマヤさんに似ている。
そう呼ばれるようなことはしていないし、これからもしないつもりだけど。とりあえず、背筋くらいは伸ばしてみる。
「セーブしてからね」