29話 ハブ vs マングース
ハブ。それは沖縄に生息する毒蛇の名前である。人に危険を及ぼす生物として、昔からこの地では駆除の対象とされてきた。
「ここ、マングースもいるんだな。マングースといえば、ハブの天敵として放たれたけど、蓋を開けたら全然ハブ食わなかったらしいぞ。それどころか、他の生き物を食べまくるから、結果的にマイナスだったとか」
「それは、難儀だな」
「うん。イースター島のネズミもそうだけど、外来種っていつもそうだよな」
「うむ」
……やばい。思ったより宮野が全然喋らない。
沈黙が気まずくて、いつにもまして俺が豆知識おじさんになってしまっている。これじゃ無気力大学生じゃなくて、ただの観光ガイドだ。どうにかして宮野にいつもの調子を取り戻してほしいが、全てが空回りしている状況だ。
よくよく考えてみれば、基本的に俺と宮野って、宮野側からなにかをぶっ込んできて始まることが多いからな。捌いたり流したりする能力は鍛えられたけど、切り出す能力はなんの成長もない。
どうすればいいんだ、これ。
ガラスの向こう側では、いかにも毒を持っていそうな蛇がうごめいている。
もしかして、宮野は爬虫類が苦手なのか?
ちらっと彼女の様子を確認すると、ぼんやりとした表情で蛇に見入っていた。宮野は「ふっ」と軽く息を吐き出し、「君たちは気楽でいいな」と呟く。
蛇が嫌いなわけではないらしい。いや、なんか軽蔑してそうだけど。生理的にムリ、とかではないみたいだ。
となると、いよいよなにがあったかわからなくなってきた。
昨日の夕食のときは、まだ普通にしていたはずだ。五人で顔をそろえて、他愛のない話をしていた。おかしいところは……そういえば、昼頃にちょっと静かだとは思ったけど。でも、それだって一時的なものだったはずだ。
わからん。一切合切、なんの予想も立たない。
もしかして俺、知らないうちに宮野のことぶち切れさせた?
でも、それだと一緒についてきた理由がわからない。ということは……他の誰かと喧嘩した?
夕食の後、宮野と一緒にいたのは――七瀬さん?
いやいや、まさかそんなことあるわけない。あんなに礼儀正しい七瀬さんと、七瀬さんファンクラブの宮野だぞ。寝顔が可愛すぎて脱走してくるレベルに溺愛してる相手と、どうやったら喧嘩になるんだ。
戸村真広。お前もずいぶんと脳が錆びたもんだな。こんな調子じゃ、二次元アイドルとのコミュニケーションも不安だぞ。
まったく。ちょっとは可能性のありそうなことを考えるべきだな。
「……」
「……」
「あのさ、宮野」
「……ん」
「七瀬さんと、なんかあったか?」
「…………べつに」
あったなこれ。
ふいっと視線を外し、ハブを凝視する宮野。わざとらしすぎて、隠す気がないのではと思ってしまう。が、彼女は真剣にこれで押し切ろうとしているのだろう。
まあ、いったんハブでも眺めるか。
ガラス越しに威嚇してくる毒蛇。
「お前と目が合っても仕方ないんだけどなぁ」
やれやれ。なかなか上手くいかない。
◇
いつもならテンションぶち上げだったであろう『ハブ vs マングース』を観た後でさえ、宮野のテンションはどん底に落ちたままだった。
ハブ園を出ても、昼までの時間には余裕がある。もう一箇所くらいは、適当な場所を観光できるはずだが。
「宮野。ちょっと飲み物でも買って、そのへんで休憩しよう」
「疲れたのか?」
「まあ、そんなとこだ。あそこの日陰、ちょうどよさそうだし。飲み物はお茶でいいか?」
「ボクのぶんは自分で買う」
「いいから」
「ん……。では、さんぴん茶を頼む」
二人分の硬貨を入れて、ボタンを押したらおつりが出てきた。そういうタイプの自販機らしい。ドンマイ。拾って入れ直して、さんぴん茶を二本買う。
「ほれ」
「すまない」
ペットボトルを受け取って、宮野はそれをじっと見つめる。目線はすぐに下へと吸い込まれていく。
「なあ、トム先輩」
「ん?」
「まだ時間はあるだろう。すまないが、次の場所は一人で行ってくれないか?」
「なんで」
「……ボクと行っても、楽しくないだろう」
「は? また意味のわからないことを」
咄嗟に舌打ちしてしまったのは、彼女の言葉に苛立ったからだった。顔にも出てしまったのだろう。宮野はうろたえて、しかし引き下がらなかった。
「だって、ボクにはなにもない。なにもできない。それなのに……自分が嫌になるよ」
口元を噛んで、宮野は拳を握りしめる。
彼女の中で、どんな感情が渦巻いているのかはわからない。ただ、一つ言えるのは。
「ごめん宮野。お前になにがあって、なにを抱えてるのかはわからない。でも、それでもな――」
彼女と過ごしてきた日々が、脳裏によみがえる。どうやったって消えないくらいの刺激を、日常を非日常に変えてしまう魔法を、いつだって使えるのが宮野悠奈だった。俺が年甲斐もなくはしゃいでしまうとき、だいたい横には、宮野がいた。
黙って流して、時間が経つのを待った方がいい。理性がそう言っている。踏み込むな。どうせミスるから。経験が言っている。また、同じ悪夢を見たいのか。拭い切れなかった自己嫌悪が、心の中で侮蔑の目を向けてくる。
賢くいろ。距離を保て。様子をうかがえ。
わかってる。でも、それ以上の力で心が軋む。抑えきれない怒りが、衝動のままに口を動かした。
「俺の前で、宮野のことを悪く言うんじゃねえよ」
「なっ」
見開かれた瞳が、驚愕の色に染まる。やっと目が合った。
呼吸を一つして、まだ燻る熱を言葉に変えていく。この怒りに足る言葉を。彼女の自己嫌悪を、焼き尽くすに足る怒りを。
「宮野はな、思い込みが激しくて、堅苦しいくせに図々しいところがあって、変態で、説明は中途半端だし、急に変なこと言い出すし、すぐに俺のこと担ぎ上げる変なやつなんだよ」
「……あ、ああ。えっと、つまり、ボクはだめなやつなのだな」
「誰がそんなこと言った」
「え……?」
「初めて会ったときにいきなり突っかかられたのも、実家に連れていかれたのも、いきなりクワガタ採りに行かされたのも、一緒にバカみたいなハンバーガー食ったのも、すーぐ女性陣からこっちに逃げてくるのも、全部、俺は楽しかった。お前がしてきたこと全部、宮野悠奈じゃなきゃあり得なかったことだ。
だから、なにもなくない。なにもできないはずがない。
それにな、宮野。
この先なにがあっても、なにもなくても、お前の価値はなくなったりしないよ」
短く息を吸って、小さく肩をすくめる。
「だってお前は、俺の親友なんだから」
眼鏡の奥の、大きな瞳に滴が浮かび上がる。夏の日差しに乱反射して、少女はくしゃりと口元を歪めた。
宮野は眼鏡を外して、両手で何度も目をこすった。それでも、小さな動きではあるけれど、必死に首を縦に振っていたから、俺はそっと視線を外した。
そうしてここで起きたことを、心にそっとしまうことにした。
「落ちついたら、もう一回『ハブ vs マングース』観に行こうぜ」




