27話 熱は微かに、されど確かに
夕飯の後は軽く明日の確認だけして、そのまま解散になった。あの古河でさえも、夕食時のテンションは抑え気味だったくらいだ。集まって宴会などしている場合じゃない。さっさと寝る。それが今すべきことだ。
三泊四日の沖縄旅行。ちゃんと一日遊ぶのは、明日が最後になる。
振り返るにはまだ早い。でも、この時間は一瞬で終わってしまうのだろう。そしてまた、日常が戻ってくる。
……思ったよりショックじゃないな。
高校の修学旅行が終わるときは絶望したものだが、今回はそうでもない。穂村荘に戻って、あの賑やかな日常が、このメンバーで続いていく。
次はどこへ行こう。なにをしよう。なんて話になるかもしれない。
目を閉じて、全身の力を抜く。充実感が全身に広がっていくのを感じながら、そっと意識を手放した。
◆
宮野悠奈は、椅子の上で大きく体をのけぞらせて呻いていた。
「うぅぅぅぅむ。うむぅ。ぐぬぬぬぅ」
腕を組み、表情筋に思いっきり力を入れ、新体操の選手もかくやと言わんばかりに反り返っていた。この場に指導者がいれば、そのままオリンピックの強化選手に推薦したかもしれない。
だが、この場にいるのは七瀬柚子。ただの中学生である彼女には、その光景は異様でしかなかった。
風呂上がりで濡れた髪をタオルでしぼりながら、一定の距離を保って女子高生の奇行を観察する。
「いやでも、……そればっかりは……だが……ううむ」
腕組みを解いて、今度は頭を抑えて丸くなる。ダンゴムシもかくやと言わんばかりの丸まり具合だ。でかくて湿った岩があったら、上から彼女のことをそっと隠してくれただろう。
普段から奇行の目立つ悠奈であはるが、ここまでは珍しい。柚子は困惑して、音を立てないように見守ることしかできない。
「柚子くんが……」
「えっ、私のことなんですか」
「ぬぬっ! いつからそこに!?」
「ええっと……海老反りになっていたあたりからです」
「よもやそんなときからいたとは。柚子くんはくノ一だったのか」
「違いますね。それより、どうしたんですか? どこか具合が悪いんですか?」
「具合が悪いと言えば悪いが、体はすこぶる元気なのだ。ただ少し、脳の方で混乱が」
「なんだ。いつものことですか」
柚子がほっと胸をなで下ろす目の前で、悠奈は口元を手で押さえる。
「毒舌というのはやはり、距離が縮まった感じがして非常に良い物であるな」
「もう。先輩が変態のときみたいなこと言わないでください」
「ン――」
なぜか瞬時に硬直する悠奈。石のように表情一つ変わらなくなり、ただ瞬きを繰り返す。柚子が正面に立つと、スーッと視線だけ脇にそらす。
「どうしたんですか? やっぱり変ですよ」
「いやいやまあまあ、この程度のことはいつも通りであるからして。柚子くんは気にとめることなど一つもなく」
「気になりますよ。なんですか。私に言いたいことがあるなら、言ってくださいよ」
「言いたいこと、ではないのだが……」
視線を落として、悠奈は膝の上で指を組む。小さく吐いた息は、なにかを覚悟するように短かった。
「気になってしまったことがあるのだ。その……嫌だったら、答えなくてもいい。すぐに忘れるようにするし、繰り返すようなことはしないから」
「すごく緊張しますけど、はい。どうぞ」
唐突に真面目な調子になった悠奈に、柚子は目を丸くする。備え付けの椅子に腰を下ろして、目線の高さを合わせると、姿勢を正して向き合う。悠奈の顔がやたらと赤いことが、柚子には不思議だった。
ずいぶん長く感じる沈黙の果てに、ようやく少女は口を開く。
「単刀直入に聞かせてもらうよ。ボクは、あまり口が上手くはないから」
沈黙。今度は、たった一呼吸分。しかし、それまでの全ての瞬間を切り離すだけの、確固たる一瞬。
「トム先輩のことが、好きなのか?」
今度は柚子が硬直する番だったし、赤くなる番だった。目の焦点が合わなくなって、くらりと椅子の上で揺れて、なんとか持ち直す。
「ど、どど、どどうしてそんな」
「なんとなく、そう思ったのだ。すまない。気にしないようにしていたのだが」
柚子の反応を見れば、どんなに鈍い人間でもそれが図星だと気がつくだろう。
なにより彼女は、否定しないでいる。否定したくないほど、その想いは大切な場所にあった。「そんなことはない」と、無理矢理にでも言ってしまえば、それで悠奈が引くことは知っていたのに。
代わりに柚子が絞り出したのは、反撃の手だった。
「悠奈さんは、どうなんですか?」
「どう、と言われると……難しいものだな」
悠奈は視線を下げると、天上を仰いで一呼吸。
柚子から視線は外したまま、呟くように言葉を発する。
「トム先輩は、いつもボクの誘いに乗ってくれて、一緒にふざけてくれて、悩んでいるときには側で見守ってくれる人だ。理想の先輩で、最高の友達で……ああ、そうか」
そこで言葉を切って、悠奈は両手で顔を覆う。一日中ずっと引っかかっていた理由がわかって、途端に彼女を襲ったのは恥ずかしさだった。
「そうか。ボクは――」
宮野悠奈が、あの四秒間を見逃さなかったのは。柚子が微笑んで、真広のことを見つめていたあの四秒が消えなかったのは。
柚子の気持ちに気がついたからではない。
「ボク自身が、あの人のことを好きになってしまったから」
日々の中で降り積もった熱は微かに、されど確かに心を満たしてしまった。
真広を見つけたとき、駆けつけてくだらないことを話したくなるのは。あの瞬間、心に羽根が生えたように軽くなって、笑顔がこぼれてしまう理由は。
どうしようもなく恋なのだと、宮野悠奈は知ってしまった。