26話 悪戯な熱
海の中でひとしきり遊んだ俺たちは、疲れたところで引き上げることにした。アイスやジュースで喉を潤し、残った時間は砂浜を散歩して過ごした。
日が傾いてきたところで、着替えて車に戻る。今日の宿は同じ島にある民宿なので、車で少し移動したら到着。受付を済ませ、部屋に荷物を置く。今日も今日とて一人部屋。女性陣は四人部屋で一つにまとまっている。食事は食堂で集合。それまでは各自で過ごすことになった。
隙あらば散歩するのが旅行先での俺。朝に引き続き、夕方もお外へ繰り出す。
普段の引きこもりっぷりが嘘みたいな元気。もしかして俺、エセ引きこもり? なんて汚名だ。名誉(?)挽回するために、夏休みの残り期間は徹底して家にいよう。
固く決意して、靴紐を結ぶ。立ち上がって民宿を出ると、すぐのところで七瀬さんを見つけた。向こうも気がついたみたいで、小さく手を振ってくる。
ショートパンツに、水色のシャツ。頭に黒いキャップを被っている。
「先輩も散歩ですか?」
「うん。一緒に行く?」
「はい。行きたいです」
小さな歩幅を弾ませて、七瀬さんが隣に並ぶ。彼女は視線を少し上に向けると、俺の頭にある黒い帽子を見て微笑んだ。
「おそろいですね」
「そうだね」
真っ直ぐな笑顔がくすぐったくて、そっと視線を外した。帽子のつばに指を当てて、なんとなく被り方を調整してみる。
蒸し暑い風を肌に受けて、俺たちはなんでもない道を歩く。なんでもない道でも、本州とは異国のように違っている。瓦の色も、建物の高さも、そのへんに生えている草一つとっても、新鮮だ。
「今日も運転ありがとうございました」
「どういたしまして。七瀬さんも助手席お疲れさま」
「なにもしてないですよ」
「話し相手になってくれたじゃん。音楽もかけてくれたし」
「そんなことですか。……もう、先輩はいつも通りですね」
七瀬さんはおかしそうに言うと、口元を手で隠す。
それから少し歩いて、ふと思い出したように建物の屋根を指さした。
「そういえば、沖縄の瓦ってどうして赤いんですか?」
「瓦に使ってる泥が鉄分を含んでるからなんだってね。焼くと酸化鉄になって――ほら、赤っぽい錆あるでしょ。でもって沖縄の気候に合ってるから、今でも残ってるらしいよ」
「先輩って、なんでも答えてくれますよね」
「いろいろ調べてたら楽しくなっちゃうんだ。最近」
豆知識キャラに片足突っ込んでいる自覚はある。家庭教師の先生としては、いい傾向だ。だが、無気力系大学生としてはいかがないものだろう? ま、大学の授業は相変わらず無気力だからいいか。
いらないことだけ本気でやります。戸村真広です。次の都知事選、出るよ。
「そうだ七瀬さん。せっかくだし、テストしよっか」
「わかりました。なんでもどうぞ!」
「サンゴの骨格は石灰石と同じ物質なんだけど、なにかわかる?」
「炭酸カルシウムです」
「正解。石灰石に塩酸をかけると?」
「二酸化炭素が出てきます」
「そう。そのほかに、二酸化炭素が発生するのはどんなとき?」
「炭酸水素カルシウムを加熱したときです。水と二酸化炭素が出ます」
「完璧だね。よく勉強してる証拠だ」
夏休みに突入してからも、七瀬さんの勉強意欲は収まることがない。一学期最後の悔しさがバネになっているのか、以前にも増して前のめりになっている。
自分のことを劣っていると感じていた少女は、もうここにはいない。七瀬さんは前に進むことを覚えた。それがあれば、きっとどこへでもいける。
「じゃあ、次は雲ができるメカニズムを説明してもらおうかな」
いつもと違う景色の中で、いつもと同じように言葉を交わす。そうやって歩いていたら、海に辿り着いていた。観光地ではない場所だからか、人気が少ない。砂浜に降りて、流木の上に腰を下ろす。
夕焼けに染まる海は凪いで、切り取ったような静けさに、穏やかな波の音だけが響いている。その中にそっと、溶けるような声がこぼれた。
「せんぱい」
いつもよりずっと柔らかくて、触れたらなくなってしまいそうな音。
「どうしたの。七瀬さん」
「呼んでみただけです」
悪戯っぽく微笑んで、少女は視線を海に流す。力の抜けた柔らかい微笑み。七瀬さんは、そんな顔をする子だったろうか。年の割にちゃんとしていて、いつもどこか気を張っている。それが七瀬さんの印象だった。
でも今は、年相応の女の子みたいに、気の抜けた表情をしている。
「プールもそうですけど、水に入ると眠くなっちゃいますね」
「確かに」
控えめにあくびする七瀬さんを見て、ぽんやりした表情にも納得がいった。確かに、疲労で気が抜けることはあるか。
「先輩も今日は、早く寝ないとだめですからね」
「安心して。早寝早起きが俺のモットーだから」
「全部逆です。嘘つかないでください」
「はい。すいません」
七瀬さんのお叱りを前にしては、うなだれることしかできない。深く息を吐き出して、重たい腰を上げる。心地よい疲労が全身に回っているのを感じて、大きく伸びをした。
「さて、そろそろ戻ろうか」
「先輩っ」
呼び止められて振り返ると、やっぱり七瀬さんは悪戯っぽく笑っていた。
手を後ろに組んで、小さく首を傾け、はにかむ。
「呼びたかっただけです」
あまりに透き通った言葉に、胸の奥をそっと撫でられるような心地がした。
熱を持った一陣の風が抜けて、少女は歩き出す。
「行きましょう。遅れたら、怒られちゃいますよ」
立ち尽くしていたら、叱られてしまった。