11話 戸村真広の勝敗論
三月も残り十日を切り、少しずつ春めいていく。
バイトの最終日も無事に迎え、完全な自由を手に入れた。残ったのは自由に使えるお金と時間。寝て起きてもタスクのないフリー。
素晴らしき退屈。
やるべきことがない不安とか、目標がないと落ち着かないとか、今の俺には全く無縁な感情だ。平和。退屈。それ以上に望むことなどない。
順調に崩れる積みゲー、周回プレイによって明らかになる隠し要素、日に日に量が多くなる古河の晩ご飯、七瀬さんにお菓子をあげつつ自分でも食べる。
うっかりすると太りそうなので、運動量を増やすことにした。
夜の遅くに家の近くをランニング。日中は人が多いので、寒くてもこの時間がいい。温まれば同じだし。
三十分ほど走ってから、軽くストレッチして帰宅。
静かに玄関を開け、靴を脱ぐ。
二階へ上がろうとしたら、リビングのドアが開いた。隙間からすっと顔を出すのは、この家で最年少の少女。敵を警戒する小動物みたいだ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
軽く返すと満足したように頷いてドアを閉め、すっと中に入っていく。
……なんの遊びなんだろう。
七瀬さんが家にいるときは、けっこうな確率で「おかえりなさい」を言いに来る。そして「ただいま」と返すと、満足したように去って行く。
なにか深い意味があるのか?
おかえりなさい――一般的には、帰宅した相手へかける挨拶だが。
もしかして、「早く自室にお帰りなさい。そして出てくるな」という意味だろうか。森の熊さんが言うことみたいな。
「……わからん」
「あの」
「なにやつ」
「七瀬ですけど」
再びひょこっと顔を出す少女。もしかするとあれか、そういう顔の出し方にハマってるのか。
「この後って暇ですか?」
「四月までは暇だよ」
「スケールが大きいですね」
「ビッグな男になりたいからさ」
「じゃあ、リビングに来てもらえますか?」
「シャワー浴びてからでいいなら」
シャワー、という単語に反応してか、ドアの陰に七瀬さんが隠れる。
五秒ほど時間を掛けて、また顔が出てくる。今度は目がちょっと見えるくらい。顔の半分は隠してしまっている。
「わかりました。待ってます」
「あ、うん。なんかごめん」
「気にしてないですから!」
気にしてる人の反応なんだよなぁ。
◇
話がある、ねえ。
うん。まあ十中八九なにかの不満だろう。心当たりがなくとも、そういうタイミングはある。怒られる準備はしておこう。謝罪は誠意と具合。過不足なく適切なぶんだけ謝るのだ。
リビングに入って、ダイニングの椅子に座る。七瀬さんがそこで座り、背筋を伸ばしていたからだ。やはり真剣な表情。なにかガツンと言う人の面構え。
「……お話とはなんでしょうか」
「あの、なんで俯いているんですか?」
「怒られる準備かな」
「かな、じゃないんですよ。怒ってるように見えますか?」
「女の子は笑顔でブチ切れるから」
「今までなにがあったんですか……。とにかく、私は怒ってないです」
「あ、そうなんだ。ならよかった。――けど、じゃあなんで俺に話を?」
「怒られる以外の話題もありますよね? ありそうですよね?」
「いやまったく」
「あるんですよ!」
パシィン! とテーブルを叩く。夜なので音は抑えたのだろうが、「あたっ」と顔をしかめる。力の調節を間違えたらしい。
「なるほど」
「なるほどじゃなくてですね。ほら、なにか思いつかないですか?」
「いやまったく」
「思考をしてください! 頭を、動かして!」
「……………………お菓子いる?」
「戸村さんは私をなんだと思ってるんですか!?」
「人」
「カテゴリーが雑!」
そう言われても、代わりの言葉が思いつかない。ううむ。
「じゃあ、水希さんのことはなんだと思ってるんですか?」
「ご飯をくれる人」
「くっ――水希さんも同じようなこと思ってそうです」
「間違いない。古河は俺のことをご飯を食べる生き物だと思ってるだろうな」
「じゃあ、マヤさんのことは?」
「大家さん」
「役職!」
「ああ、七瀬さんは中学生だと思ってるよ」
「なんで『これが正解でしょ』みたいな顔してるんですか?」
「違うのか」
「違いますよ!」
ご立腹のようだ。頬を膨らませて、今にも「ぷんぷん」と声に出しそう。出したら面白いな。ちょっと笑えてきた。
口元が緩みそうなのを、頬杖をついて右手で隠す。
「――それで、話ってなに?」
「う……そ、それは。あの…………」
「お茶淹れようか。待ってて」
立ち上がって棚からティーバッグを取り、ポットに入ったお湯を注ぐ。コップを二つ持って椅子に戻り、抽出されるのを待つ。
緑茶の緑が染み出るのを、ぼんやり見つめる。ちらっと視線を動かすと、七瀬さんもそれをじっと見ていた。
頃合いを見て注ぎ、「どうぞ」と差し出す。両手で受け取って、「ありがとうございます」という少女。
話を促すことはしない。俺はそんなことはしない。ただ、待つことはできる。当面は暇なので。
「……ちょっと、悩んでることがあって」
湯気が収まったくらいで、七瀬さんは顔を上げた。
急に言われれば驚いたかもしれないが、準備する時間はあった。落ち着いて返せる。
「相談相手、合ってる?」
「合ってます。たぶん」
「そんなに自信のある『たぶん』は初めてだ。いいね。俺のことはちゃんと疑ったほうがいい」
「はい。すごく疑ってます」
心なし楽しそうにじっと見つめてくる。その心意気、ワクワクするね。
「それで、なにに悩んでるのかな」
「いろいろです」
「いろいろ、か。じゃあ一つずつ聞こうか」
漠然とした問題は無限にあるように感じるものだ。具体的にして、数を把握することがファーストステップ。なんかの本に書いてあった。
「将来のこととかなんですけど」
「将来って、どのくらい先のこと?」
「どのくらい……えっと……」
考えようとして詰まるのは、まだ彼女が慣れていないからだろう。そりゃそうか。中学生でパッと答えられたら、そのほうが怖い。
「不安っていうのはね、どうして不安なのかを知れば対応できるものなんだ。逆にそれがわからないと、間違った方法で傷を広げることになる」
空になったコップに緑茶を注ぐ。
「七瀬さんはなにが不安なの?」
「私は……」
俯いて、今度は顔を上げなかった。俯いたままで言う。
「なにもしないでいることが怖いです」
俺に言うか。
バイトも辞め、いよいよ極まってきたところだ。大学のないこのシーズンは完全なニートである。なにもしないことの権化、ニー戸村さんに相談しちゃうか。
「私、学校行ってないんですよ。気づいてると思いますけど」
「偶然だけどね」
「授業とかも全然出てなくて。だから、バカなんです」
「…………」
「なのに三年生になるんですよ。おかしいですよね」
「なるほどね」
「学生の間にしかできないこと……みたいなのもできなくて。とにかく、なにもしてないんです」
それは確かに、簡単に言葉にできることではないだろう。
俺の場合、中学生の頃は運がいいことにまだ普通にやれていた。だから七瀬さんの状況はわからない。義務教育の時点でつまずいてしまう重荷は、きっと並大抵のことでは表せない。
「嫌なんですよね。こうやって、劣ったままでいるのは」
「劣ってる? なにが?」
「なにがって、勉強とか、人間関係とか。あいつはダメだって言われて――悔しいじゃないですか。負けたみたいで。でも、そういうことを言われると思うと、学校になんか行けないんです。そうやって、また負けるんです」
「違うよ。七瀬さん、それは君の勘違いだ」
自分が偉そうにアドバイスできる人間じゃないことは、俺が一番わかっている。
だけど、間違いを訂正することはできる。
「誰かにダメだと言われたら、君の価値が下がるのか? そんなことはないだろ」
「……それは、そうですけど」
誰になにを言われても、なにかが変わるわけじゃない。
だけど社会には一定数、人のことを否定するやつがいる。そうやってしか生きていけない存在がいる。
「経験値の入らないような雑魚に、君の体力を削らせるな。『逃げる』ことは敗北じゃない。純然たる作戦の一つで、勝つための手段だ。
君が本当にやりたいこと。その実現に、そいつらは必要か?」
「必要ないです」
「じゃあ捨てよう。ぽいっと」
「ぽいっとって、そんな簡単にできるんですか?」
「できるできる。連絡先を消して、転校すれば終わりだ。それだけで二度と会わなくて済む」
七瀬さんはため息を吐いて、呆れ笑いを浮かべる。
「簡単に言いますね」
「言うだけなら簡単だからね。それで、君はどうしたい?」
僅かな逡巡の後、彼女は答えた。
「楽しく過ごしたいです。誰かと遊んだり、勉強したり、そういうことがしたいです」
「いいと思うよ。それは本当に、いい目標だ」
だが、その実現に俺ができることはほとんどない。
七瀬さんもわかっているのだろう。それ以上のことは相談されなかった。代わりに少し雑談をして、その夜は解散した。